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『みかんの花が落ちるころ』

みかんの花が落ちるころ、風は甘くなる。甘いのに、のどに貼りつくような重さはなくて、ただ、白いものが静かにほどけていく匂いがする。

幹夫(みきお)は庵原(いはら)の坂道を上っていた。軽トラの荷台で揺れているときは分からなかったのに、降りて歩き始めると、靴底に残った土の湿り気がはっきりした。雨上がりの土はやわらかく、踏むたびに小さく沈む。沈むのに、道はきちんと前へ続いている。

父は先に歩いていく。今日の父は、言葉より先に手が動く日だった。出発のときからそうだった。エンジンをかける前にロープを結び直し、荷台の角を押し、作業手袋の指を引っぱってから、やっと「行くぞ」と言った。

坂の途中、柑橘の畑が開けた。枝の先に白い花が残っていて、葉の緑がそれを押し出すみたいに濃い。花は咲いているのに、落ちる準備をしている。ひとつ落ちると、またひとつ落ちる。落ちる音はしない。落ちるのは、目の端でしか見えない。

幹夫の袖に、白い花弁が一枚ついた。指で払えばすぐ落ちる。落ちるのに、払う手が少し遅れる。花弁は薄く、指先が触れる前に風でずれる。ずれたところへ、別の花弁がふわっと乗る。捕まえようとすると、いっそう逃げる。

父が畑の端の金網を開けた。金属が鳴る。鳴り方が乾いていて、海に近い音だった。少し先に駿河湾があるのを、音だけが先に知らせる。海が見える前に、塩が来る。匂いが来る。今日の風は、塩の薄さに、花の甘さが混ざっていた。

「手伝え」

父はそう言って、みかんの木の下に置かれた小さな箱を指さした。出荷の箱じゃない。剪定ばさみや紐や、作業の道具が入った箱。幹夫は「うん」とだけ返し、箱を持った。箱の底が湿っていて、掌が少し冷える。冷えた掌が、胸の中の余計な熱を一度だけ落ち着かせた。

枝の下は影が濃い。午後四時の影ほど長くはないのに、葉の影がいくつも重なって、地面の色が青く見える。青い影は、黒よりもやさしい顔をしている。やさしいのに、足首から上を少しだけ冷たくする。

父は黙って、落ちた花を拾い集めるように見えた。実際は花を拾っているのではなく、枝の具合を見て、折れた小枝を手で落としているだけだ。けれど、落ちた花弁が父の手袋に触れるたび、白いものが少しずつ増えていく。増えていく白さは、何かを積もらせる白さじゃなく、ほどいてしまう白さだった。

幹夫は、ふと遠くの方を見た。木と木の隙間から、海の光が見える。光の道みたいに細く、触れられないまま伸びている。その向こうに三保の松原があるのかどうか、幹夫は確かめない。確かめたら、見てしまうものが増える気がした。

見てしまうと、胸の中の“置き場所”が足りなくなる。置き場所が足りなくなると、言葉が出なくなる。幹夫はその順番を、もう知っている。

ポケットの中でスマホが震えた。振動は短い。短い振動ほど、心臓を驚かせる。幹夫は箱を地面に置き、画面を見た。母からだった。

通知の文字は短くて、湿り気がない。

「今日、いい?」

“いい”の後ろに何が続くのか、画面には書いてない。声でもない。絵文字もない。なのに、その二文字が、みかんの花の匂いより先に胸へ入ってくる。

幹夫はその場で、指を動かせなかった。送信欄を開くと、白い画面が出る。白い画面は、落ちた花弁みたいに軽いのに、どこに置けばいいか分からない白さをしている。

父が幹夫の方を見ないまま言った。

「どうした」

「……何でも」

そう答えた声が、自分の耳に少し乾いて聞こえた。乾いた声は、畑の甘い匂いと合わなくて、幹夫は自分が急に場違いになった気がした。

風が一度だけ強く吹いて、花弁がいくつも舞った。舞った花弁が、スマホの画面に一枚、ぴたりと貼りつく。白い花弁が、黒い画面に乗ると、文字が読みにくくなった。幹夫は花弁をそっと払った。払った花弁は、指先に触れないまま落ちた。

落ちた場所が、地面のどこだったかは分からない。分からないままでも、匂いだけが残る。

幹夫は画面を閉じ、スマホをポケットに戻した。戻す動きが、逃げに見えないようにゆっくりやった。ゆっくりやると、余計に「逃げている」を自分が見てしまう。見てしまうから、もう一度だけポケットの中でスマホを握った。握ると、角が掌に当たる。角は正直だった。

父は枝の下から一歩出て、幹夫の袖を見た。白い花弁がまた一枚、袖に乗っていたのだろう。父は何も言わず、手袋の指でそれを払った。払う動作は短く、乱暴ではなかった。花弁は風に持っていかれ、すぐ見えなくなる。

幹夫の袖だけが、少しだけ軽くなった。

帰り道、軽トラの窓から入る風は、甘さが薄くなっていた。甘さが薄くなったぶん、海の匂いが分かる。海の匂いが分かると、今度は土の匂いが恋しくなる。匂いが行ったり来たりするだけで、胸の中も落ち着かない。

安倍川を渡ると、河原の白が眩しい。眩しいのに、真夏の眩しさではない。白の中に影が混ざる準備をしている。影の準備をしている白さは、どこか遠い。

父がほんの少し速度を落とした。ただの一拍。けれどその一拍が、みかんの花弁が袖に乗ったときの“遅れ”に似ていて、幹夫は窓の外から目を離せなかった。

家に戻ると、祖母が湯を沸かしていた。やかんが鳴き、湯気が立ち、茶の匂いが部屋の天井へ広がる。茶の匂いは内側へ沈む匂いで、外側に貼りついていた潮の膜を、少しだけ剥がしてくれる。

「幹夫、茶ぁ飲みな」

祖母の声には、名前が混ざっている。混ざっているだけで、届く。届こうとしていないのに、胸まで落ちる。

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。温度が掌に移る。温度は、答えの代わりにそこにいる。

自分の部屋に戻って、幹夫は制服のポケットから、さっきの花弁を探した。ない。袖に乗っていたはずの白いものは、もうどこにもいない。いないことが、当たり前みたいに部屋に広がっている。

机の引き出しを開けると、折り目のついた小さな紙があった。前に、途中でやめた文字の跡が残っている紙。幹夫はその紙の上に、今日の匂いを置く場所を作りたくなった。匂いは置けない。でも、置けないものを置こうとする癖が、自分の中にあることを知っている。

幹夫は鉛筆を持って、紙に一行だけ書いた。

「みかんの花、落ちてた」

それだけ。続きは書かない。書けないのではなく、今日はそれで足りる気がした。足りる、というより、足りないままで置いておくほうが壊れにくい気がした。

スマホを取り出して、母のメッセージを開く。「今日、いい?」その二文字の下に、幹夫はさっきの一行をそのまま打った。

「みかんの花、落ちてた」

送信する指は震えなかった。震えないのが不思議で、幹夫は送信したあとに自分の指を見た。指先には何も付いていない。花弁も、匂いも。でも送った文の中には、確かに今日が入っている。

少しして、返信が来た。

「覚えてる。あの匂い」

短い。短いのに、胸の奥が一度だけ傾いた。午後五時の傾きより小さく、でも確かに角度がつく傾き。傾いたままでも、立っていられるくらいの角度。

幹夫は湯飲みの縁に口をつけた。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがあることを、幹夫は今日、みかんの花で知った気がした。

みかんの花が落ちるころ。落ちるものは、捕まえられない。捕まえられないのに、匂いだけは、あとからゆっくり戻ってくる。その戻り方が、答えよりもずっと確かな日がある。

 
 
 

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