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『午後五時、世界は少しだけ傾いた』

午後五時、世界は少しだけ傾いた。誰かが手で押したわけじゃない。ただ、太陽が低くなって、影が長くなって、空気が薄く変わっただけ。それだけなのに、幹夫(みきお)の胸の奥では、ずっと水平だったはずのものが、ほんのわずかに傾いてしまった。

安倍川の橋の上に立つと、風が違う。午後四時の風はまだ熱を運んでいたのに、五時の風は熱を“置いていく”みたいに通り過ぎる。頬に触れたあと、ほんの少しだけ冷たい跡を残す。夏の匂いがまだ濃いのに、終わりの匂いが混ざっている。終わりの匂いは、説明がなくても分かってしまう。

河原は白く、光はまだ強い。けれど白さの質が変わっていた。昼の白は眩しさだけでできていたのに、夕方の白には影が混ざる。白い石の隙間に、青い影が溜まっていく。青い影は、黒よりもやさしく見えるから厄介だ。やさしいのに、ちゃんと冷たい。

幹夫は手すりに肘を置いて、スマホを見下ろした。画面には、母からのメッセージが残っている。

「土曜日、午後で大丈夫? もしよかったら、少し散歩したい」

短い文。丁寧で、柔らかい文。柔らかい文ほど、幹夫の中のざらざらを浮かび上がらせる。怒り、寂しさ、会いたさ、怖さ。どれも別々の色なのに、胸の奥では混ざって、一つの濁った色になっている。

返信は、もう打ってある。「大丈夫。父ちゃんも一緒に行く」送信ボタンの上で、親指だけが止まっている。

送ったら、世界が動く。動いたら、戻れない。戻れないのは怖い。でも、戻れる場所にずっといるのも、もう少しだけ苦しい。

午後五時は、そういう気持ちを放っておかない。昼のうちは誤魔化せたものが、夕方になると急に輪郭を持つ。輪郭を持つと、逃げ道が減る。逃げ道が減ると、立っていなければならなくなる。

幹夫は息を吸った。川の匂いがする。湿った石の匂い。草の匂い。遠くの街の排気ガスの匂い。匂いは、いつも言葉より先に「いま」を連れてくる。いま、ここにいる。それだけで少し、親指に力が入る。

その瞬間、背後でエンジン音が止まった。軽トラの音。父だ、と分かる音。音の記憶だけで、人が分かるということが、幹夫には少し切ない。父は言葉より先に匂いと音で来る。言葉が遅れてくる。遅れてくる言葉ほど、重い。

「……いたか」

父が窓を開けて言った。声は短い。短いけれど、今日の短さはいつもより“待っていた”感じが混じっている気がした。迎えに来たという事実が、説明の代わりにそこにある。

幹夫は助手席に乗った。ドアを閉めると、車内の匂いが一気に広がる。茶と土と汗と機械油。同じ匂いなのに、今日は少し違って感じた。匂いの中に、薄い緊張が混ざっている。土曜が近いことを、匂いが知っているみたいだ。

父は走り出す前に、シフトレバーに手を置いたまま言った。

「……来とるか」

「え?」

「母さんから。連絡」

その言い方は、いつもより少しだけ慎重だった。言葉を落とす場所を、父が探している感じ。幹夫はその“探している”を見てしまって、胸の奥がきゅっとなる。父は下手だ。下手なのに、今日は探している。その努力が、嬉しいようで苦しい。

「……来てる」

幹夫が答えると、父は「そうか」とだけ言った。その「そうか」は、終わりじゃなくて、続きのための間みたいに聞こえた。

車がゆっくり走り出す。窓の外で、午後五時の光が道路に斜めの線を引く。標識の影が長く伸び、電柱の影が車のボンネットを横切る。影が横切るたび、世界が少し揺れるように見える。揺れているのは車か、光か、それとも自分の心か。

幹夫はスマホを握った。掌の中で、小さな機械が熱を持つ。熱は生き物みたいに増えて、指先の汗を呼ぶ。汗は、身体が嘘をつけない証拠だ。嘘をつけない証拠があるなら、今日は嘘をやめてもいいのかもしれない。

「……父ちゃん」

幹夫は自分でも驚くほど小さな声で呼んだ。

父は前を見たまま「ん」と返した。返事がある、というだけで、世界が少しだけ水平に戻る気がした。でも完全には戻らない。戻らないくらいの傾きが、いま必要なのだと、どこかで分かっている。

幹夫は言った。

「送る」

何を、とは言わなかった。言わなくても通じる気がした。通じる気がする、というのは危うい。でも今日は、その危うさを信じてみたかった。

親指が、送信ボタンを押した。画面の文が上へ飛ぶ。飛んでいく小さな線を見て、幹夫の胸の奥が一度だけ沈んで、それから浮いた。

沈むのは怖さ。浮くのは、ほんの小さな解放。

父は何も言わなかった。でも、アクセルの踏み方が少しだけ丁寧になった。スピードが安定する。車体の揺れが減る。言葉じゃない返事。父の世界の返事。

スマホがすぐに震えた。母からの返信。

「うん。嬉しい。二人に会えるの、緊張するけど…ありがとう」

緊張する。その言葉に、幹夫の胸の奥がまた揺れた。母も怖い。母も傾いている。傾いている人は、ひとりじゃない。ひとりじゃないと思えるだけで、怖さの形が少し変わる。怖さが薄くなるわけじゃない。ただ、抱え方が変わる。

午後五時、世界は少しだけ傾いた。でも傾きは、転ぶためのものじゃなかった。止まっていたものが動き始めるための、ほんの小さな角度だった。

幹夫は窓の外の空を見た。夕焼けはまだ始まっていない。始まっていないからこそ、今の光がいちばん嘘がない気がした。嘘がない光の中で、幹夫は一度だけ深く息を吸った。

父が小さく言った。

「……土曜、早めに出るか」

段取りの言葉。でもその段取りの中に、“逃げない”が混じっているのが分かった。幹夫は頷いた。

「うん。歩きたい」

その一言で、車内の空気が少しだけ軽くなった。軽くなったのに、薄くはならない。薄くならない軽さがある。それが、たぶん大人になる前の、ほんの少しの場所。

午後五時、世界は少しだけ傾いた。傾いたまま、車は前へ進んでいく。戻れない角度を、怖いまま抱えながら。

 
 
 

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