top of page

『夕暮れはいつも、説明不足だった』

夕暮れはいつも、説明不足だった。なぜ胸の奥がひやりとするのか、なぜ同じ景色が昨日より遠く見えるのか、なぜ「帰ろう」と思うだけで喉が少し固くなるのか――そういうことを、夕暮れは何ひとつ説明してくれない。光が斜めになって、影が伸びて、匂いが少し変わって、ただそれだけで世界を別物にしてしまう。

幹夫(みきお)は、安倍川の橋の上で立ち止まっていた。夕方の風が強い日だった。白い河原がまだ眩しくて、目を細めると、視界の端で水面が薄い銀色に揺れた。水は、昼の音のまま流れているのに、空気だけが「もう終わりだよ」と言っているみたいだった。

橋の手すりに指先を置く。金属は昼の熱を少し残していて、触れた瞬間に「いまここ」を掌に貼りつける。その熱は嫌じゃない。嫌じゃないのに、熱があることが、なぜか心細い。熱は必ず冷めるからだ。冷めたあとに残るのは、手のひらの感覚だけで、感覚は言葉にならない。

背中のリュックは軽い。軽いのに、肩が重い。そういう重さがあるのを幹夫は知っていた。軽い荷物ほど、心が勝手に重くなることがある。重くなる理由はいつもはっきりしない。だから、夕暮れのせいにする。

スマホがポケットの中で小さく震えた。通知の振動は短くて、いちいち心臓を驚かせる。画面を開くと、母からのメッセージだった。

「今日、忙しかった? 声だけでも聞けたらと思って」

文字は丁寧で、やわらかい。やわらかいほど、幹夫は返事に困る。やわらかさに対して、こちらの中身がざらざらしている気がするからだ。自分のざらざらが相手に触れたら、相手のやわらかさが傷つく気がする。

忙しかった?忙しくない。でも、忙しいと言ったほうがたぶん楽だ。楽な言い訳は、すぐに見つかる。見つかる言い訳ほど、本当から遠い。

幹夫は画面を閉じた。閉じた瞬間、橋の上の風が強くなって、フェンスがかすかに鳴った。金属の鳴る音は、いつも少し怒っているように聞こえる。怒っているわけじゃなく、ただ風に反応しているだけなのに。

安倍川の向こうに、街がある。街の向こうに、家がある。家の中には祖母がいて、父がいて、そして言わなかった言葉がいつも少しずつ溜まっている。

言わなかった言葉は、埃みたいに溜まる。見えないのに、溜まると喉がいがらっぽくなる。掃除すればいいのに、掃除の仕方が分からない。掃除の仕方が分からないから、息を潜める。息を潜めると、また溜まる。

夕暮れは、その循環を止めない。止めないどころか、ちょうどいい暗さで誤魔化してくる。

幹夫が橋の上に来たのは、帰りのバスを一本逃したからだった。逃したというより、乗りたくなくて、時刻表を見たまま立ち尽くしてしまった。バス停の屋根の下にいても、雨は止まない日がある。そういう日と同じで、立っているだけで時間は過ぎる。

静岡の午後四時を過ぎると、影が長くなる。長くなる影は、丁寧に世界を分ける。光のところと、影のところ。進んでいいところと、立ち止まってしまうところ。境目ができると、人はそこに理由を探す。でも影は理由を持っていない。ただ、太陽が傾いただけだ。

幹夫は、理由を持たない寂しさの扱い方を知らない。理由がないと、説明できない。説明できないと、誰にも預けられない。預けられないものは、自分の中で固まる。

固まるものを、幹夫はずっと抱えてきた。母がいなくなってから、父が黙るようになってから、祖母が「聞かない」ことで家を保つようになってから。保たれている家の中で、幹夫の胸だけがよく揺れる。揺れるのに、誰も気づかない。気づかないのに、幹夫はそれを「平気なふりの上手さ」だと思ってしまう。

橋の下で、小さな子どもが走って転んだ。白い河原の石に手のひらをついて、砂がついたまま立ち上がる。母親らしい人が駆け寄って、膝についた砂を払ってやる。その動きは、説明がいらない。痛い→近寄る→払う→大丈夫。順番がある。因果がある。世界が、ちゃんと動く。

幹夫の胸の中は、そういうふうに動いてくれない。痛い→黙る→平気なふり→さらに痛い。その順番がいつも同じで、同じだから、どうしていいかわからなくなる。

夕暮れは、それを説明しない。ただ、風を強くする。ただ、川の音を少し遠くする。ただ、空の色を一段落とす。

背後で車のエンジン音がした。軽トラの低い音。土と機械油と茶の匂いをまとった音。振り向かなくても分かる音だった。

父が来た。窓を開けて、帽子の影の中から幹夫を見た。見た、というより、視線を合わせようとして失敗したみたいな目つきだった。

「……ここか」

父はそれだけ言った。迎えに来た理由も、遅くなった理由も、説明しない。父の世界もまた、説明不足だ。説明不足のまま生きてきた人の背中が、ハンドルの向こうにある。

幹夫は助手席に乗った。ドアを閉めると、車内の匂いが一気に身体に入ってくる。茶の乾いた香り、土の湿り気、作業着の汗。家の匂い。逃げたい匂い。なのに、なぜかほっとする匂い。

父はハンドルを握ったまま前を見ている。前を見ているのに、何かを見ないようにしている。その「見ない」は、幹夫にもある。

車が走り出してしばらくして、父がぽつりと言った。

「……母さんから、連絡来とるか」

その言葉が、車内に落ちた。落ち方が不器用で、でも落ちたこと自体が珍しくて、幹夫の胸の奥が一度だけ揺れた。父が母の話題を自分から出した。それは、夕暮れの影より濃い「変化」だった。

幹夫は、すぐに答えられなかった。「来てる」と言えば、続きが要る。続きとは、たぶん自分の気持ちだ。自分の気持ちは、まだ形にならない。形にならないものを出すのは怖い。

怖い、と言えばいい。でも「怖い」は、誰の怖さなのか分からない。母が怖いのか。父が怖いのか。自分が怖いのか。全部かもしれない。全部だとしたら、言葉が足りない。

父はそれ以上聞かなかった。聞かないまま、ウインカーを出して川沿いの道へ入った。道が少し暗くなる。街灯がまだ点かない中途半端な明るさ。こういう時間がいちばん落ち着かない。昼でも夜でもない。どこにも属さない。

夕暮れはいつも、説明不足だ。だから、言葉が少ない人たちの間に、よく似合ってしまう。

幹夫は窓の外を見て、息を吸った。夕方の空気は少しだけ乾いて、梅雨の終わりの匂いが混じっていた。夏が来る。夏が来たら、いつか終わる。終わる前に、何かを言わなければならない気がする。言わなければ、言えなかった時間がまた増える。

幹夫は、ポケットのスマホを取り出し、画面を開いた。母からのメッセージがまだそこにある。指を置く。止まる。止まっているあいだ、車内のエンジン音だけが一定で、一定の音は少しだけ勇気をくれる。

幹夫は、短く打った。

「来てる。いま父ちゃんと一緒」

送信した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮んだのに、固まらなかった。固まらない縮み方を、自分ができることに、幹夫は驚いた。

父は何も言わなかった。でも、アクセルの踏み方がほんの少しだけ変わった。速度が安定する。その安定は、言葉じゃない返事だった。

家に着くころ、空は薄い紫に傾いていた。茶畑の向こうに、雲の重みが残っている。祖母の台所から、湯の鳴く音が聞こえた。いつもの音。いつもの匂い。いつもの家。

それでも幹夫の内側だけが、ほんの少し違う。自分で「送った」という事実が、まだ熱を持っている。熱は冷める。冷める前の熱は、たいてい大事なものだ。

玄関で靴を脱ぐと、父が後ろから言った。

「……無理すんな」

無理すんな、は説明じゃない。どう無理なのか、なぜ無理なのか、何をしたら無理なのか。何も説明しない。でも、父の世界ではそれが精一杯の説明だった。

幹夫は頷いた。頷いて、少しだけ言葉を足してみた。

「……無理してるのか、分かんない」

祖母が台所から顔を出した。「分からんでええ」と言いそうな口元で、結局、何も言わずに湯飲みを並べた。湯飲みが畳に触れる小さな音が、夕暮れの中でよく響く。

湯気が立つ。茶の匂いが広がる。匂いはいつも、説明より先に届く。

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。温かい。温かさは、説明がいらない。温かいから、いまここにいると分かる。

夕暮れはいつも、説明不足だった。でも、説明不足のままでも、今日みたいに小さなことが起きる。送信ボタンを押す指の震え。父の「母さん」という言葉。祖母の黙った湯気。

一瞬のことばかりだ。けれど一瞬は、たまに永遠みたいに残る。残るから、人はまた次の一瞬に手を伸ばせる。

幹夫は湯気の向こうで、スマホがもう一度震えるのを見た。母からの返信。

「ありがとう。少し安心した」

短い文字。短いのに、胸の奥がまた揺れた。揺れは、まだ怖い。でも揺れがあるうちは、固まりきっていない。

幹夫は、夕暮れの窓の色を見た。外はもう暗くなり始めている。説明不足のまま、夜が来る。

それでも幹夫は思った。説明が足りないなら、自分が少し足せばいい。完璧じゃなくていい。短くていい。届けばいい。

湯飲みの縁に口をつける。苦味が先に来て、遅れて甘みが残った。その順番だけが、なぜだか信じられた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page