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『清水の風、幹夫の沈黙』

清水の風は、言葉の端から先にさらっていく。潮の匂いを薄い刃みたいに混ぜて、服の隙間を見つけると、ためらいなく入り込んでくる。だから港町では、声を出す前の一拍がいちばん長い。出してしまえば戻らない、と身体が知ってしまうからだ。

幹夫(みきお)は新清水の改札を抜けたところで、いちど立ち止まった。駅前の自転車の列、コインパーキングの黄色い線、濡れたアスファルトに残るタイヤ跡。雨は上がっているのに、空気だけがまだ、湿った名残を抱えていた。そこへ潮が混ざる。町が一段、別の匂いに傾く。

父は先に歩く。歩き方はいつもと同じで、早くも遅くもない。けれど今日は、歩幅の中に「寄り道しない」が混じっている気がした。港へ。堤防へ。約束の場所へ。段取りの線だけを辿る歩き方。

幹夫は、胸の前でリュックの肩紐を握り直した。中には紙袋がひとつ。茶町で買った茶。紙のざらつきと、まだ開けていない香りの予感。触るだけで“匂いの記憶”が先に立ち上がる。川根の店先の冷たい影、牧之原の畝の湿り、祖母の湯飲みの音。そういうものが一度に来るから、幹夫は袋を見ないようにして歩いた。

巴川を渡る橋の上で、風が少し強くなった。川の水は雨の色をしていて、どこか白く濁っている。水面を見ていると、言葉が喉の奥でほどけそうになる。ほどけたら、落ちる。落ちたら、拾う人が拾ってしまう。拾われるのが怖いから、幹夫は視線を前へ戻した。

港の方角に、赤い観覧車の輪郭が見えた。景色の中でそれだけが子どもっぽく、でも子どもっぽいものは、たいてい嘘がない。嘘がないものほど、目に刺さる。幹夫は瞬きをして、輪郭を薄くした。

父が、堤防の手前で立ち止まった。フェンス越しに、コンテナの角と、ターレーの低い音が見える。音は腹に来る。耳より先に、身体が受け取ってしまう音。清水の風はその音を薄めない。むしろ、真ん中だけを強く残す。

「……いるな」

父の声は短く、海を見たまま落ちた。視線の先に、母がいた。

影の中に立っている。手提げ袋を両手で抱え、風が髪をほどくたび、耳の後ろへ戻す。戻す指が丁寧すぎて、幹夫はその指を見ないようにした。丁寧さは、間違えたくない人の癖だ。癖には理由がある。理由を見てしまうと、言葉が出てしまう。

三人の距離が、少しずつ詰まる。詰まるにつれて、風が強くなる気がした。実際の風は同じなのに、近づくほど、空気が薄くなる。薄くなると息が浅くなる。浅い息のまま、声を出すのは難しい。

母が顔を上げた。目が合う。合った瞬間、幹夫の胸の奥で、何かが一度だけ硬く鳴った。鳴ったのに、壊れない。壊れないまま、そこに残る。

「……幹夫」

母は名前を呼んだ。声は小さい。小さいのに、沈まないように喉の奥で支えているのが分かる。清水の風は、弱い声をさらっていくはずなのに、その呼び方だけは飛ばされない。飛ばされないのが、逆に怖かった。聞こえてしまうと、返さなければならなくなる。

幹夫は返事をしなかった。しなかったのではなく、返事の形を探しているうちに、風がその隙間に入り込んでしまった。

代わりに、リュックのチャックを開けた。金具が擦れる音が、堤防の上でやけに大きい。紙袋を取り出すと、紙の角が指に当たる。ざらつき。幹夫はその手触りだけを頼りに、母へ差し出した。

母は一瞬だけ手を止めて、それから両手で受け取った。紙が小さく鳴る。その音は、茶町の店で聞いた「さらさら」とは違う。港の音に混じると、同じ紙でも硬く聞こえる。硬い音は、約束みたいに残る。

「……ありがとう」

母は袋を胸の前で抱えた。抱え方が、落としたくないものの抱え方だった。幹夫の喉の奥に、置いてきた言葉が並びかける。どうして、いつ、ほんとに、まだ。並びかけて、並びきらない。並びきらないまま、沈黙がまた、うまく形を作ってしまう。

父が、海を見たまま言った。

「……風、強いな」

天気の話みたいな言い方だった。でも幹夫には、別のものを薄めるために言った気がした。風のせいにできるなら、言葉が足りなくても許される。父はそういう許し方を知っている。

母は小さく頷いた。

「うん。清水の風、昔から…」

言いかけて、母は言葉を切った。切れたところから、風が入っていく。入っていった風が、三人の間の沈黙をふわっと浮かせて、落としやすくする。

母が言った。

「……少し、歩ける?」

堤防沿いを歩く。靴底がコンクリートを叩く音が、三人ぶん、少しずつずれて重なる。揃わないリズムが、いまを確かにする。遠くでカモメが鳴いた。鳴き方が乱暴で、乱暴な音は嘘をつかない。

幹夫は、話せなかった。話せなかったのに、耳はよく働いた。母の息の吸い方。父が咳払いを飲み込む間。風がフェンスを擦る音。“言葉がない時間”にしか聞こえないものが、清水には多い。

堤防の端で、母が立ち止まった。海面に、午後の光が細い道を作っている。触れられないのに伸びていく道。母はその道を見ながら、手提げ袋の持ち手を握り直した。握り直すたび、指の関節が白くなる。白くなるのは、落としたくないからだ。

幹夫は一歩だけ前に出て、持ち手に指先をそっと添えた。奪わない。支えきらない。ただ、触れていることが伝わるくらいの重さで。

母は何も言わなかった。言わない代わりに、握る力がほんの少しだけ緩んだ。緩んだことが返事みたいだった。その一瞬、幹夫の沈黙が、空白じゃなく“形”になった気がした。

風が少しだけ弱まり、遠くの汽笛がはっきり聞こえた。汽笛は誰の名前も呼ばない。でも「戻る」と「行く」の両方を含んでいる音だった。

帰り道、父が迎えの軽トラを路肩に寄せて停めた。エンジンの低い振動が、港の音を押し返す。土と茶と機械油の匂いが、潮の膜の上から重なってくる。匂いが混ざると、身体が“帰り道”を先に理解してしまう。

母が、小さく言った。

「幹夫」

今度は、呼び方が少しだけ違った。同じ音なのに、風に負けないように支える力が、ほんの少し弱い。弱いのに、折れない。折れない弱さは、いちばん扱いが難しい。

幹夫は、すぐには返さなかった。返さないまま、胸の奥に残った“硬い鳴り”をもう一度確かめた。それから、短く返した。

「……うん」

それだけで十分、という顔は誰もしなかった。十分じゃないのに、それ以上を求めない顔がそこにあった。

軽トラが走り出し、清水の匂いが窓の外へ少しずつ遠ざかる。それでも、袖の裏に塩が残る。残る塩は、洗って落ちても、落ちたあとに“触れた”だけを残す。

清水の風は、幹夫の言葉をさらっていった。けれど、さらわれたあとの沈黙にだけ残る手触りが、確かにあった。その手触りが、あとからゆっくり「ここにいた」を教えてくれる――そんなふうに、幹夫は窓の外の海を見ないまま、目を閉じた。

 
 
 

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