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『若葉の刃』――日本平茶畑

 日本平の茶畑は、遠くから見ると軍隊の行進のようである。――だが、軍隊の整列が持つあの不吉な硬さではなく、刈り揃えられた緑の筋肉が、光に向かって静かに胸を張っている。畝は畝で、ややうねり、海へ降りる風を受け、いっそう艶を増す。 その朝、私はひとりで茶畑の縁に立ち、富士の白を見ていた。富士は遠くの白ではない。こちらを見返す白である。見返されると、人間は自分の逃げ場を失う。

 母からの電話は、短い言葉だけを運んだ。「お父さん、もう……。今夜、越えないかもしれない」 私(幹夫)は、すぐに「行く」と言えなかった。「行く」と言ってしまえば、行かなかった年月が一斉にこちらへ押し寄せるのが分かっていたからである。私はいつも、未来の約束で過去を薄めようとする。――その卑怯な習慣を、私は自分で憎んでいた。

 日本平の坂を上がる道の、朝の空気は澄み、冷たく、しかし妙に甘い匂いが混じっていた。茶の匂いだ。茶の匂いは、私の胸の奥に残っていた父の声と同じところから立ち上がる。声は消えても匂いは残る。匂いは、言い訳を許さぬ。

 畑に入ると、露が若葉の縁に小さく凝っていた。あの露の珠は、飾りではない。刃の先に付いた水滴のように、危うく、冷たく、そして美しい。私は、若葉が「葉」ではなく「刃」に見える瞬間を知っていた。刈り取られるべくして伸びたものの、潔い緊張――それは人間の若さにも似ている。若さは、いつも切り取られるために光る。

 母は既に畑にいた。背は小さくなったが、動きは驚くほど正確だった。摘み手袋をはめた指が、若葉の先をつまみ、ためらいなく折り取って籠へ落とす。「遅かったね」 母は責めたのではない。事実を置いただけだった。置かれた事実は石のように重い。私は石を抱えて生きてきたくせに、その重さに慣れないふりをする。

「……ごめん」 私がそう言うと、母は私の顔を見ずに、ただ手を動かした。言葉より手が先に働く人間の冷たさと温かさを、私はそこで感じた。父もまた、そういう人間だった。父は、愛情を言葉にせず、刈り込みの刃で示した。

 刃、と言えば、畑の向こうから鋏の音がした。 しゃき、しゃき それは植物を殺す音であり、同時に香りを生む音である。香りは殺されて初めて立つ。私はその残酷な真実を、幼いころから身体で知っていた。茶は伸びたままでは硬く苦い。切られて、揉まれて、火であぶられて、ようやく人を温める。

 私は籠を持ち、母の後ろで摘んだ。若葉は柔らかいのに、指に小さな抵抗を返す。その抵抗が、妙に生々しい。私は東京で、幾度も生々しさを避けた。生々しさを避けるために、正しい言葉と、うまい言葉と、無難な沈黙を選んだ。 だが若葉は、沈黙しない。触れれば匂いが立つ。折れば汁が指に移る。移ると、こちらも同じ匂いになる。逃げようがない。

「病院、行く?」 母が言った。私は頷いた。頷きは便利だ。言葉ほど責任を背負わずに、肯定の形だけを作れる。私は自分の頷きの卑怯さを知っている。それでも頷くしかない人間に、私はなっていた。

 病室で見た父は、畑の刈り揃えられた茶樹とは逆に、削られ、細くなっていた。だが手だけは、まだ畑の手だった。節の太い指、爪の縁の黒、掌の硬さ。 私は父の手を見て、突然、恐ろしくなった。父の手が、もう若葉を折れない手になる。その事実は、父の死よりも、私にとって痛かった。父の死は観念で受け止められる。だが手の不在は、具体である。

 父は眠っていた。私は声をかけられなかった。声をかければ、父が目を開けるかもしれない。目を開けた父の前で、私は何を言うのか。――「遅かった」と言うのか。「ごめん」と言うのか。 どの言葉も、遅れている。遅れた言葉は、届いても傷になる。私は届くことを恐れ、届かないことにも怯える。矛盾こそ私の才能であり、同時に私の刑罰である。

 その夜、父は越えなかった。越えなかった、と言うのは、父が生を越えたという意味だ。 母は泣かなかった。泣くかわりに、台所の湯を沸かした。湯の音が、静かに沸点へ向かって高くなる。――その音の上昇が、母の涙の代わりだった。人間は、泣かないときほど、どこかで沸騰している。

 葬儀の朝、母は私に小さな茶缶を渡した。銀色の缶で、蓋に父の字で「幹夫へ」と書いてある。父の字は、刈り込み鋏のように短く、角がある。「これ、あなたにって」 母はそれだけ言った。私は缶の重さを掌で測りながら、父の生がその中へ折り畳まれているように感じた。

 私は日本平へ戻った。茶畑は、相変わらず整列していた。人が死んでも畑は整列する。整列の美しさは、残酷である。残酷なほど美しいものに、人は泣かされる。 畑の端の小屋へ入り、湯を沸かし、茶缶を開けた。乾いた葉の匂いが立った。――青いはずのものが、火で色を失い、なお香りだけを濃くしている。その香りは、父が私に残した最後の言葉のようだった。

 茶を淹れる。湯が葉に触れた瞬間、色が立ち上がる。薄い緑が、杯の底でゆっくりと深くなる。私はその変化を見ながら、思った。人間もまた、熱に触れなければ色が出ないのかもしれない。私は熱を避けてきた。だから色のない男のまま生きてきた。

 茶缶の底に、紙が一枚入っていた。折り畳まれた、父の字。私は息を止めて開いた。そこには、驚くほど短い文しかなかった。

 ――「茶は、切られて香る。おまえも、切り詰めて生きろ。おまえのままで、帰ってこい。」

 私はその一行を読んで、膝が抜けそうになった。父は、私が「立派な息子」になろうとして、いつも言葉を飾り、飾った分だけ帰れなくなっていたことを、最初から見抜いていたのだ。 そして父は、私に「立派であること」を要求しなかった。要求しなかったのに、私は勝手に要求されたふりをして逃げた。逃げたのは父のせいではない。私の卑怯のせいだ。父はそれを責めずに、ただ「帰ってこい」と書いた。――それがいちばん残酷で、いちばん優しい。

 私は茶をひと口飲んだ。 苦かった。苦いのに、後から甘みが来た。甘みは、遅れて来る。遅れて来るからこそ、胸の奥へ深く届く。私はそこで、初めて泣いた。泣くのは恥だと思っていた。だが、恥が先に立つ涙ほど、ほんとうの涙に近い。

 涙が杯に落ちるのを、私は止めなかった。茶は、少し塩を含んだように味が変わった。海が近いのだ、と私は思った。日本平は、富士を見るためにあると人は言う。だが私にとっては、海の匂いを思い出すためにある。海は、父の背中の匂いと同じだ。汗と塩と、仕事の匂い。私はその匂いを嫌った。嫌って、懐かしんで、いま、泣いている。

 外へ出ると、茶畑の畝が風に波打っていた。緑の波が、静かに、しかし確かな律動で動く。人間の胸の鼓動よりも、畑の波の方が長く続く。続くものの前で、人間の悔いは小さい。小さいくせに、鋭い。

 私は畑の端にしゃがみ、若葉を一つ摘んだ。摘む指は、父の指の形を真似た。若葉は折れて、指先に青い匂いを移した。私はその匂いを嗅いで、父に返事をしたくなった。 だが返事は長文である必要がない。父は短い文で、私を生かした。なら、私も短い返事でいい。

「……帰ってきたよ」

 声は風にさらわれた。さらわれてもよかった。言ったことだけは、私の身体に残った。茶は切られて香る。人間もまた、言葉を切り詰めてこそ、残るものがある。 日本平の茶畑は、その朝も整列し、風を受け、光を浴び、若葉を刃のように輝かせていた。 そして私は、涙の痕のついた杯を、両手で包みながら、父のいない世界に――父の香りだけが残る世界に――初めて、ちゃんと立っていた。

 
 
 

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