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『茶の香る町で』

雨上がりの静岡は、地面より先に匂いが乾く。アスファルトの黒に残った水の膜が、車のタイヤで薄く削られ、削られたところから、どこか甘いような土の匂いが立つ。そこへ、別の匂いが重なる。焦げる手前の温度をまとった、茶の匂い。

幹夫(みきお)は新静岡の方から歩いてきて、セノバの裏を抜け、車の流れが少しだけ細くなる通りへ入った。大きな看板の光は雨で洗われて、いつもより白い。白い光の下を、制服の半袖が頼りなく揺れた。夏服は、匂いを吸うのが早い。

茶町に近づくと、空気の硬さが変わる。古い倉庫の壁、荷捌き場のコンクリート、シャッターの金属の冷え。そういう「もの」の匂いがまずあって、その上に、焙じた茶の匂いが薄く掛けられる。掛けられているのに、主張しすぎない。主張しすぎないから、気づいたときにはもう衣服に移っている。

路地の奥で、火入れ機の低い唸りが聞こえた。機械の音は一定で、一定の音は考えを薄くする。薄くなったところへ、匂いが入ってくる。幹夫は、足を止めないまま吸い込んでしまった。胸の奥が軽く鳴る感じがした。鳴ったのは肺ではなく、記憶のほうだ。

祖母に渡された小さな封筒は、制服の胸ポケットに入っている。紙の角が、歩くたびに胸骨に当たる。痛いほどではない。ただ、そこにある、と分かる程度の当たり方。祖母は朝、湯飲みを机に置くときの音みたいに、さらっと言った。

「茶町で、ひとつ買ってきて。土曜、持ってくんだろ」

“持ってく”の宛先を祖母は言わなかった。言わないのに、幹夫の指先はすでに知っている。川根で買った袋のざらつき、堤防の紙が鳴った音、潮の匂い。あれから何日か経ったのに、あの日の手触りだけが、洗っても落ちないまま残っている。

店の前に、緑の大きな袋が積まれていた。文字は読まなくても分かる。茶の袋は、だいたいどの店でも似た顔をしている。似ているのに、近づくと違いが出る。布の織り方、縫い目の太さ、付いた粉の色。触れないのに、触れた気になる。

幹夫は、暖簾をくぐった。店の中は外より少し暗い。暗いぶん、匂いが濃く感じる。焙じた匂いではなく、蒸した葉の青さが、奥の方で静かに息をしている匂い。カウンターの上に、透明の急須が並んでいた。ガラス越しに見える茶葉は、濡れて黒く、形だけが落ち着いている。

「いらっしゃい」

声は柔らかいのに、余計な飾りがない。店の人は年齢が分からない顔をしていた。声の出し方だけが慣れている。慣れている声は、相手に答えを急がせない。

幹夫は封筒をポケットの中で指で確かめてから、短く言った。

「……お茶、ください」

何を、とは言わない。でも茶町では、たぶんそれで通じる。通じる場所は少し怖い。通じるということは、言わない部分まで見透かされる気がするからだ。

店の人は、棚から茶缶をひとつ下ろした。蓋を開けた瞬間、匂いが立つ。立つ匂いは目に見えないのに、確実に距離を詰めてくる。幹夫は反射的に息を浅くしてしまい、浅くしたことに気づいて、もう一度、ゆっくり吸い直した。

店の人が言った。

「新茶、もうちょい落ち着いてきた頃だもんでね。いま、ちょうどいいよ」

“ちょうどいい”という言葉が、妙に具体的に聞こえた。夏の途中の午後。雨上がり。土曜日が近い。どれも「ちょうど」の中に収まってしまう。収まってしまうのが、少し悔しいみたいに感じる。

小さな湯飲みが差し出された。湯飲みの縁は薄く、触れると熱い。熱さは正直で、逃げ道がない。幹夫は両手で受け取り、ひとくちだけ啜った。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。残る甘みは、舌ではなく喉の奥に薄く貼りつく。

それだけで、祖母の台所の音が思い出される。やかんの鳴き、湯飲みの底が畳に触れる音、湯気の匂い。祖母はいつも、何も説明しないまま、湯を足す。足すことで「まだ続けられる」を作る。

店の人は秤に茶葉を落とし、紙袋に詰めた。茶葉が紙に当たる音は、さらさら、と乾いている。乾いた音なのに、中身は湿った匂いを持っている。不思議な組み合わせだ、と幹夫は思った。紙は薄いのに、匂いを守る。守るのに、完全には閉じ込めない。漏れる程度に守る。

「これで」

差し出された袋は軽い。軽いのに、受け取った瞬間に肩が少し重くなる。重くなるのは袋の重さじゃない。袋が“何かを運ぶ役目”を持ってしまうからだ。役目を持つと、言葉もついてくる気がする。言葉がついてくる前に、幹夫は封筒を出し、支払いを済ませた。

店を出ると、茶町の空気がまた身体に貼りついた。雨上がりの匂い、焙じの匂い、金属の匂い。すべてが混ざって、どれがどれだか分からない。分からない匂いは、心の中の段差を目立たせない。幹夫はそのまま、線路の方へは行かず、駿府城の堀のほうへ歩いた。水がある場所は、匂いを少しだけ薄める。

堀の水面には、空の白が落ちていた。雨の名残の白。白いのに眩しすぎない。歩道の濡れた石畳が、靴底に小さく吸いつく。吸いつかれるたび、いまここにいることだけが確かになる。

午後五時の少し前、町のどこかから古いメロディが流れた。防災無線の音。旋律はやわらかいのに、街全体を一度だけ同じ向きに向かせる力がある。家へ、という方向。帰り道、という方向。そこへ混ざって、しずてつの踏切の警報が遠くで鳴った。カン、カン、と乾いた音。音が乾いていると、余計なものが剥がれる。

幹夫のポケットの中でスマホが震えた。短い振動。短い振動ほど、心臓を驚かせる。

画面には、母からの短い文があった。

「いま、何してる?」

それだけ。名前も、絵文字もない。でも、宛先は確かに幹夫だと分かる。分かってしまうから、指先が止まる。

幹夫は茶の袋をいったん持ち替えた。紙袋の取っ手が指に食い込む。食い込む痛みは、説明がいらない。いらない説明の代わりに、必要な言葉を探す時間が少しだけ生まれる。

返信欄に、まず一言打った。

「茶町」

それだけ打って止まった。茶町にいる、という事実は言える。でも、その先は言いにくい。茶を買った、という事実は言える。けれど、それを“誰のために”にすると、途端に言葉が重くなる。

堀の水面を渡ってくる風が、制服の背中を撫でた。夏服は薄い。薄いから、風がそのまま肌に届く。肌に届くと、胸の奥の硬さも少しだけ見えてしまう。見えた硬さを隠すために、指は言い訳を探す。言い訳はいつも簡単に見つかる。

でも、茶町の匂いが今日は手伝ってくれた気がした。匂いは、言葉より先に「ここにいる」を作る。作ってくれるなら、短い言葉でも倒れないかもしれない。

幹夫は続きを打った。

「茶、買った。土曜、持ってく」

送信を押す指は震えなかった。震えないことが不思議で、押したあとに自分の指を見た。指先には、何も付いていない。茶葉の粉も、雨の水も。でも、匂いだけが薄く残っていた。残っていることが、返事みたいだった。

すぐに返信が来た。

「ありがとう。あの匂い、好きだった」

“好き”という言葉が画面に出たとき、幹夫は画面をすぐ閉じられなかった。閉じれば消えるわけじゃないのに、閉じると自分の中の何かが早足になりそうで。早足になると、追いつけないものが出る。追いつけないものが出ると、また黙ってしまう。

幹夫は堀の縁に立ったまま、手の中の茶袋を見た。紙はただの紙なのに、匂いの通り道になっている。通り道は、誰かのところまで続く。続く道は、触れられないのに確かだ。港の海面の光の道みたいに。

帰り道、青葉の方から、だしの匂いが一瞬混じった。静岡おでんの匂いかもしれない。黒はんぺんの匂いかもしれない。けれど幹夫は立ち止まらなかった。匂いは立ち止まらなくても追いついてくる。追いついてくる匂いは、生活の匂いだ。

家に着くころ、祖母の湯の音が先に聞こえた。戸の隙間から湯気が漏れ、茶町で吸った匂いに重なる。外の匂いと家の匂いが混ざるとき、境目は見えなくなる。境目が見えないのに、どちらも確かにある。

玄関で靴を脱いでいると、居間のほうから父の声がした。

「幹夫」

名前だけ。語尾も、理由もない。でもその呼び方は、茶町の焙じの匂いよりずっとまっすぐに胸へ来た。

幹夫は、茶の紙袋を少しだけ持ち上げて返した。

「……買ってきた」

“ただいま”でもなく、“うん”でもなく。言葉の選び方が、自分でも少し意外だった。意外なのに、間違った感じはしない。間違っていない、という手触りがある。

祖母が台所から出てきて、紙袋を受け取った。紙が小さく鳴る。その鳴り方が、茶町の店で聞いた音と同じで、幹夫は一瞬だけ、遠くと近くがつながった気がした。

祖母が言った。

「ええ匂いだね」

父は何も言わないまま、袋の角に指を置いた。置いただけ。持ち上げない。でも、その指先は、茶の匂いが立つ場所を確かめているみたいだった。

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。熱さが掌に移る。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。

茶の香る町で、幹夫は今日、答えを作らなかった。代わりに、匂いが通る道だけをひとつ増やした。道はまだ細い。細いのに、切れない。切れない匂いの余韻が、部屋の隅でしばらく残っていた。

 
 
 

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