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『草薙駅の刃』――静岡鉄道草薙駅

 草薙――と、駅名の二文字を見上げるたびに、私はいつも背すじのどこかが冷えた。草を薙ぐ。刃を立て、抵抗のやわらかなものを一息に倒す、あの身ぶるいするほど清潔な動詞が、どうしても私の生き方と噛み合わないからである。

 静岡鉄道草薙駅のホームは、夜になると無駄に明るい。蛍光灯は人間の顔の影を消し、皮膚の上の疲労だけを白々しく浮かび上がらせる。線路は黒く湿って、金属の筋肉のように光り、そこを電車が来るたびに、世界は一瞬だけ鋭くなる。私はその鋭さが好きだった。好きだということが、同時に怖かった。

 ――東京へ戻る。

 私はそう決めていたはずだ。母から「父が危ない」と電話があったのは、昼のうちだった。私は「すぐ行く」と言い、電話を切った。言うだけなら簡単だ。言えば自分が少し善良になった気がする。だが私はその善良さを履くようにして、夜の草薙駅の改札へ来てしまった。善良さという靴は、すぐに磨り減る。磨り減ると、土の冷たさが直に足裏へ来る。

 改札の外へ出ると、少し離れたところに、もう一つの草薙が見えた。JRの駅舎の灯りが、別の世界の入口のように白く浮かんでいる。こちらの草薙は細い線路で街を縫い、あちらの草薙は大きな鉄の川で人間を運ぶ。二つの草薙は近いのに、互いに違う時間を呼吸している。私はその二つの駅の間に立つたび、自分の中の二つの人間――帰る者と逃げる者――が同じ骨にぶら下がって揺れているのを感じた。

 ホームに上がる階段を、私はゆっくり上った。足が重いのは疲れではない。重いのは、決めたことが嘘になりかけているからだ。

 ホームの端に立つと、風が頬を撫でた。駿河湾の匂いがする。海は見えないのに、匂いだけは届く。届くものは、いつも目に見えない。目に見えないくせに、胸の奥の柔らかい部分へ直に触れてくる。私はこの町のそういう残酷さを知っている。

 金属的な発車ベルが鳴った。短く、硬い音だった。 あの音は、命令でも慰めでもない。ただ「いま」を刻む。

 私は、父の手を思い出した。

 幼い頃、私は剣道の稽古帰りに父に連れられて、この駅へ来た。父は仕事帰りの匂いがして、汗と鉄と畑の土が混ざっていた。父の手は節が太く、掌が硬かった。だがその手が私の肩へ置かれると、世界は妙に整って見えた。電車が入ってくると、父は決まって言った。

「草薙ってのはな、剣の名だ」

 剣――草薙剣。神話の刃。草を切り開いて命を救った刃。父はその名を語るときだけ、口調が少し誇らしげだった。私は父の誇りが嫌いで、同時に羨ましかった。誇りは、身体のどこに仕舞えばいいのか分からないほど眩しい。

「お前は、刃を持て」

 父はそう言って、私の肩を軽く叩いた。

「ただし、刃は人を斬るためじゃない。自分の怠けを斬るためだ」

 私はその言葉の意味を理解しないまま、父の硬い手の重さだけを覚えていた。硬い手の重さは、父の生き方の重さだった。

 ――父は、もう、その手を動かせない。

 母の声が耳の奥で繰り返された。「今夜、越えないかもしれない」。越える――生を越える。私がいつも言葉で逃げてきた死が、とうとう現実の形をとる。現実の形をとるとき、人は美しいことを考える余裕を失う。私は美しいことを考える余裕があるふりをして、現実の形を避けてきた。

 携帯が震えた。画面には母の名前が出た。 私は出られなかった。出れば、今の自分の場所――草薙駅の冷たい光の下に立っている逃亡者の姿――が、母に透けて見える気がしたからだ。

 しかし、電話は切れずに鳴り続けた。母の指はきっと震えている。私はその震えを想像しただけで、胸の奥がひくりと痛んだ。痛みは醜い。醜いものは見たくない。だが醜さを見ない人間は、誰かの醜さの上で平気で生きる。

 私は電話に出た。

「……幹夫?」

 母の声は、思ったより小さかった。小さい声は、強い声より残酷である。小さい声は、相手に耳を寄せさせる。耳を寄せた瞬間、人は逃げられなくなる。

「いま、駅に……」

 私は嘘をつこうとした。だが「駅に」という事実だけは嘘にならなかった。駅にいる。草薙にいる。私は故郷の真ん中にいて、なお逃げようとしている。

「こっち来なさい」

 母は命令の形で言った。命令は、母に残された最後の武器だ。命令は、自分が崩れる前に相手を動かすための短い刃だ。

「父さん、まだいる。……待ってるよ」

 待っている。 私はその一言で、すべての言い訳が剥がれ落ちた気がした。待っているのは父ではないかもしれない。待っているのは、父の手の重さの記憶であり、私が逃げ続けてきた時間そのものだ。だが母は、それを「待ってるよ」と言った。母は、あまりにも残酷な真実を、たった五文字の優しさに包んで差し出した。

 電話が切れたあと、私はホームの柵に手を置いた。鉄が冷たかった。冷たさは正直だ。冷たいものは温かいふりをしない。私は冷たさの正直さに、涙が出そうになって慌てた。涙は敗北だと私は教え込まれてきた。けれど敗北を恐れる者は、勝利にも触れられない。

 電車が入ってきた。静岡鉄道の短い編成が、ホームへ滑り込む。ドアが開くと、暖房の匂いが流れ出た。その匂いは、他人の生活の匂いだった。私はその生活の匂いに救われた。生きている人間の匂いは、死を観念に戻してしまうほど強い。

 乗り込もうとした瞬間、私はふいに、父の最後の姿ではなく、父の手だけを思い出した。あの手が私の肩に乗ったときの、逃げ場のない安心。私は、いま、その手の不在に耐えられない。

 耐えられないのに――私は、ここで逃げたら、二度と父の手の重さを赦しとして思い出せなくなる。思い出は、逃げた者の手の中で毒になる。私は毒を抱えて生きるほど強くない。私は、毒を文学にして誤魔化すほど器用でもない。

 私は、電車に乗った。 座席に腰を下ろし、窓に映る自分の顔を見た。蛍光灯の下の顔は、思ったより幼く、思ったより卑怯で、思ったより疲れていた。私はその顔を見て、急に腹が立った。腹が立つほど、自分を見捨てられないのだと知った。

 車内アナウンスが淡々と次の停車駅を告げる。淡々とした声は、人間の悲しみに関心がない。関心がないから、こちらは泣ける。世界が関心を持たないという事実だけが、私の悲しみを私のものとして保ってくれる。

 窓の外で、草薙の灯りが後ろへ流れた。 私は、胸の中でひとことだけ言った。

 ――父さん、いま行く。

 そのひとことは、立派ではない。潔くもない。美しくもない。 だが、刃のように短かった。短い言葉には、余計な飾りがない。飾りのない言葉だけが、人をほんとうに動かす。

 草薙という駅名は、刃の名である。 今夜、私はその刃を、誰かを傷つけるためではなく、自分の逃亡を断つために持った。 それだけで、涙が出た。涙は恥だった。けれど恥のある涙は、まだ生きている証拠だった。

 
 
 

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