『蝉の声が途切れたとき』
- 山崎行政書士事務所
- 1月22日
- 読了時間: 7分

蝉の声が途切れたとき、世界は急に“輪郭”を取り戻す。それまで空気のどこかに貼りついていたざわめきが、いきなり剥がれ落ちる。耳が、何かを失った形のまま取り残される。そこで初めて、風の擦れる音や、遠くの車の音や、自分の呼吸が、こんなにもはっきり鳴っていたことに気づく。
牧之原の午後は、熱が地面に溜まっている。茶畑の畝は陽を受けたまま、深い緑を少しだけ鈍くして、あちこちで湯気のようなものを立ち上げている。幹夫(みきお)は畑の端にしゃがみ、指先に残った茶の匂いを嗅いだ。葉を摘んだ匂いではなく、葉に触れた指が、皮膚の奥にまで移した匂いだ。洗っても簡単には落ちない。落ちないものがあることが、今日はいくらか救いに思えた。
父は軽トラの荷台の横に立っていた。帽子のつばが影を作り、顔の半分が見えない。見えないから、何を考えているのか分からない。分からないのに、父が“考えている”ことだけは分かる。考えないふりが上手い人ほど、黙るときに考えが漏れる。
「……帰るぞ」
父はそれだけ言った。命令の形をしているけれど、本当は段取りの確認だ。父の言葉はいつも、心を避けて、行動へ逃げる。
幹夫は頷いて、立ち上がった。長靴の裏についた土が、畦道で少しだけ重くなる。重いのに、足取りは軽くも感じる。こういう矛盾を、幹夫はもう驚かなくなっていた。
家へ戻ると、祖母が台所で湯を沸かしていた。やかんの鳴く音。湯飲みを出す音。茶葉の袋が擦れる音。家の音は、いつも同じ順番で鳴る。順番が決まっている音は安心させる。安心させるのに、胸の奥のどこかが落ち着かない。
落ち着かない理由は分かっていた。土曜日。午後。母。その三つが、言葉にならないまま幹夫の中でずっと回っている。
机の端に置いたスマホは、光っていない。光っていないのに、そこにあることだけで、部屋の空気が少し薄くなる気がする。通知が来たら、すぐに世界が変わってしまう。変わるのが怖い。変わらないまま夏が終わるのも怖い。
祖母が湯飲みを置きながら言った。
「蝉ぁ、今日よう鳴くな」
「うん」
幹夫の返事は、軽く出た。軽い返事が出るとき、自分が空っぽになった気がして怖い。空っぽだと、どこからでも何かが入り込んでしまう。怒りも、寂しさも、期待も、全部。全部入ったら、溢れる。
縁側へ出ると、蝉の声がさらに近い。庭の柿の木あたり、畑の向こうの雑木林、電線の上。蝉の声は“場所”を持っているはずなのに、重なりすぎると場所を失う。場所を失った音は、ただの“夏”になる。夏の壁紙みたいに、何も考えなくてもそこにある。
父は縁側に腰を下ろし、湯飲みを手に取った。すする音が短い。湯気の匂いがふっと立って、畳の上に落ちる。幹夫は父の横顔を盗み見るように見た。父の口元は固くて、でも固いままの口元が、今日は少しだけ揺れて見える。
「……土曜な」
父が言った。幹夫は小さく頷いた。
「うん」
その“うん”の中身は、いくつもある。行く、怖い、会いたい、会いたくない、むかつく、分かんない。言葉にできないものが、ひとつの相槌の中に押し込められている。
そのときだった。
蝉の声が途切れた。
いきなり。誰かがスイッチを切ったみたいに。空気が、すとんと落ちる。音の布が剥がれ、皮膚が露出する。
幹夫は思わず目を上げた。空はまだ明るい。雲が薄く広がっているだけで、夕立の気配もない。なのに蝉だけが黙った。蝉が黙ると、代わりに聞こえてくるものがある。祖母の鍋蓋の金属音、遠くの国道を走るトラックの音、父の湯飲みの底が畳に触れる小さな音。そして――自分の心臓。
心臓の音は、こんなに大きかったのか、と幹夫は思った。蝉の声に隠れていただけで、ずっと鳴っていた。隠れていたものが、急に見えてしまう感じ。夕暮れの影が伸びると見えなかった段差が浮かび上がるのと同じだ。
父が、ぽつりと言った。
「……あれな」
幹夫は父を見る。父は空を見ていない。畑の向こうを見ている。けれどその目は、景色じゃなく、どこか別の時間を見ているようだった。
「母さんが出てった日も、急に鳴き止んだ」
父の声は低い。低いのに、よく通る。幹夫は、その言葉が胸に落ちるのを感じた。落ちるとき、音はしない。ただ、重みだけが増える。
「……覚えてるの?」
幹夫の声は少し掠れた。掠れるのは、喉が乾いているからじゃない。自分の中の“触れたくないところ”を、指先でなぞってしまったからだ。
父はすぐに答えなかった。沈黙が、蝉の沈黙と重なる。説明のない沈黙は、ふだんなら怖い。けれど今は、怖さの形がはっきりしているぶん、逆に逃げずにいられた。怖いものを“怖い”と認められるとき、人は少しだけ強くなる。
父は短く息を吐いた。
「……覚えてるというか。身体が覚えとる」
身体が覚える。茶畑の指先みたいに。言葉じゃないところで残るもの。匂い、温度、音の切れ目。そういうものが、記憶の核になる。
幹夫は、胸の奥が微かに揺れるのを感じた。怒りの揺れではない。涙の揺れでもない。“ああ、そうだったのかもしれない”という、静かな納得の揺れだ。納得は嬉しいのに、同時に苦しい。納得すると、自分の中の言い訳が減るからだ。
父が、さらに言った。
「……だから、今度も怖ぇ」
今度。土曜日。母に会うこと。
父が「怖い」と言うのを、幹夫は以前にも一度だけ聞いた。でも今日は、その言葉が蝉の沈黙の中で言われたせいか、いつもより生々しく感じた。父は怖い。幹夫も怖い。母もきっと怖い。怖い人たちが、同じ場所に集まろうとしている。集まったら、何かが壊れるかもしれない。壊れたら戻れないかもしれない。でも、戻れないものがあるからこそ、人は前に進むのだとも、最近の幹夫は知りはじめていた。
幹夫は湯飲みに手を伸ばした。温かい。温かいのに、掌の中心だけが冷たい。その温度のちぐはぐさが、自分の心の形そのままに思えた。
「……俺も、怖い」
言ってしまった。言った瞬間、胸が痛んだ。痛むのに、後悔は来ない。言葉にしたほうが、怖さの輪郭が少しだけ薄くなる気がしたからだ。
父は頷かなかった。けれど、否定もしなかった。
そして、父はひどく不器用に言った。
「……怖いなら、なおさら、一緒に行く」
その言い方は、優しさの説明じゃない。ただの宣言だった。宣言は説明不足だ。けれど説明不足の宣言ほど、人を支えることがある。理由がついていないから、揺らぎにくい。
そのとき、蝉がまた鳴き始めた。さっきまでの大合唱じゃない。一本だけ、少し遠くで、ためらうみたいに。それから、別の一本。重なり始めて、薄い壁紙が戻ってくる。
戻ってくるのに、同じにはならない。一度沈黙を知った耳は、合唱の裏側にある“切れ目”を覚えてしまう。切れ目を知ると、合唱の中にも不安が混じって聞こえる。でも不安が混じっているからこそ、音はただの背景じゃなく、“時間”になる。
祖母が縁側に顔を出して言った。
「雨ぁ降らんのに、鳴き止むだな。変な日だ」
父は「そうだな」とだけ答えた。幹夫は祖母に何も言わなかった。祖母も何も聞かなかった。聞かない優しさは、時々、息がしやすい。
夕方が少しずつ近づき、畑の緑が深くなる。風が通って、葉がさわ、と動く。風の動きは目に見えるのに、胸の中の動きは見えない。見えないから、言葉で確かめたくなる。確かめるには、言葉を出さなければならない。
幹夫は、スマホを取り出した。母とのやり取りが画面に残っている。土曜日の午後。指先が少し汗ばむ。汗は、身体が嘘をつけない証拠だ。
幹夫は短く打って、送った。
「土曜、行く。父ちゃんも一緒」
送信ボタンを押した瞬間、また胸の奥が揺れた。揺れは小さい。けれど確かにある。小さい揺れは、夏の終わりみたいだ。気づいた人にしか分からない。でも一度気づくと、もう元の季節には戻れない。
蝉は鳴いている。鳴いているのに、幹夫は知ってしまった。蝉の声は永遠じゃない。途切れる。途切れるから、今の鳴き方が“いまだけ”のものになる。
幹夫は湯飲みを両手で包み、目を閉じた。茶の香りが鼻を通り、喉の奥へ落ちる。熱さが胸に届くまで、ほんの少し時間がかかる。その“ほんの少し”を、幹夫は大事にしたいと思った。
蝉の声が途切れたとき。世界は説明不足なまま、確かに動いた。動いたことだけが、幹夫には十分だった。





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