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『誰にも見せなかった感情が、風景になった日』

午後四時の光は、静岡の町をやさしくするふりが上手だった。街路樹の葉の縁だけを薄く透かして、アスファルトの熱を「まだ大丈夫」に見せて、影だけ先に伸ばしていく。終わりを言い切らないまま、終わりの準備だけを始める光。

幹夫は、学校帰りの鞄の肩紐を、いつもより強く握っていた。握ると、指の内側に布の硬さが残る。硬さが残ると、心の中の余計なものが少しだけ減る気がした。減る気がするだけで、本当に減っているわけじゃない。けれど「気がする」くらいの小さな差で、人は転ばないで済む日がある。

しずてつの踏切は、今日も鳴る前がいちばんうるさい。遮断機が下りる直前の一拍に、幹夫は立ち止まった。止まれる時間があると、胸の奥が勝手に整理を始めてしまう。誰に何を言えばいいか、言わないならどうやって黙るか。考えたくないのに、考えたほうが安全だと身体が知っている。

電車が通り過ぎた。窓の中に、買い物袋と制服の肘と、スマホの光。生活はいつも通りに流れていく。いつも通りの流れは、誰の胸が遅れているかなんて見ない。見ないから、こちらの遅れだけが目立つ。

踏切を渡り終え、幹夫は家へまっすぐ帰らず、駅前のほうへ曲がった。行く理由は言葉にならないまま、足だけが決めている。潮の匂いのほうへ行くわけでもない。茶畑のほうへ行くわけでもない。ただ、堀のあるほう――水の匂いが、街の匂いに薄く混ざる場所へ。

堀の水面は、空の白を落として揺れていた。揺れている白は眩しすぎない。眩しすぎないと、見ていられる。ベンチに座ると、背中の汗がシャツに貼りついた。貼りつく感覚は、清水の潮の膜とは違う。潮は外側に貼りつくが、汗は内側から出てくる。内側のものは、隠そうとしても隠れない。

幹夫は、ポケットの中でスマホを握った。母から来ていたメッセージを、もう一度だけ開く。

「今日、少しだけ会える? 午後四時すぎ。 駅の近くでも、堀でも。短くでいい」

短くでいい、という言い方が、やさしくて、少しだけ痛い。短くでいい、という逃げ道があると、短くしかできない自分が先に浮かぶ。浮かぶものは、押さえつけようとしても浮かぶ。

画面を閉じると、ガラスに自分の目が映った。目はいつも通りの形をしているのに、どこか「待つ」の目をしていた。待つ目は、何かを受け取る準備の目だ。準備をしていると、胸の奥が少しだけ狭くなる。

やがて、母が来た。手提げ袋を両手で抱え直す癖は相変わらずで、その抱え直しだけが「ここに来た」を確かにする。母は幹夫を見て、小さく言った。

「……幹夫」

小さい声。小さいのに沈まない声。沈まない声は、届く場所を選んでいる声だ。

幹夫は一拍遅れて返した。

「うん」

それだけで、胸の奥が少しだけほどける。ほどけるのは答えが出たからじゃない。声が往復したからだ。

母は隣に座らず、少し距離を残してベンチの端に腰を下ろした。距離はまだ必要だった。必要な距離を残せることが、今日は救いになる。

母は手提げ袋から、小さな透明の封筒を出した。中に、写真が一枚。花火の夜の河原が写っている。白い石。夜の黒。光の滲み。腕の中で眠る小さな幹夫。母の指先は写真の角を丁寧に持っていた。丁寧な持ち方は、落としたくないものの持ち方だ。

「……これ、あなたに返そうと思って」

返す、という言葉は軽いのに、手が必要な言葉だった。手が必要な言葉は、受け取る側の体温まで変える。

幹夫は写真を受け取らず、いったん封筒の縁だけを見た。透明な端。角の硬さ。硬い角は、逃げ道を減らす。減った逃げ道のぶんだけ、指が動いた。

封筒を両手で受け取る。ビニールの冷たさ。紙の薄さ。受け取った瞬間、胸の奥が沈む。沈むのに、固まらない。固まらない沈み方は、「持った」の形だった。

母は、堀の水面を見たまま言った。

「……この前ね、あなたの声、聞いたって先生が言ってた。放送の」

放送、という単語が出ると、ガラスの向こうの赤いランプが浮かぶ。赤は匂いがないから怖い。匂いがないものは、胸の中で居場所を作りにくい。居場所がないまま残ると、どこかで急に痛くなる。

母が続けた。

「聞きたかったな。…でも、想像できた。たぶん、沈まない声」

沈まない、という言葉を母が使うと、駿河湾の青が一瞬だけ浮かぶ。沈んだ声。拾えなかった声。でも今日は、沈むか沈まないかを決めなくていい気がした。決めなくていい瞬間があるだけで、人は息ができる。

幹夫は、何か返すべきだと分かっているのに、言葉の形が見つからなかった。見つからないとき、喉の手前が乾く。乾いた喉は、何も言えないふりを上手にする。

母は、その乾きに触れないまま、代わりにこう言った。

「……ね。無理に話さなくていい。 でも、もし今度、安倍川のほう行くなら、教えて。声、川の音に混ざるの、好きだから」

川の音。「好き」という言葉が、強くなくて助かった。強い言葉は、人を急かす。急かされると、壊れやすいところが先に音を立てる。

幹夫は小さく頷いた。頷くことが返事になる日がある。今日は頷きで足りた。

母は立ち上がり、手提げ袋を抱え直した。抱え直しの動作が短い。短い動作は、迷いが薄い動作でもある。

「……じゃあ、帰るね」

母が歩き出す。歩き出す足音は、すぐ街の音に紛れる。紛れるのに、消えない。消えないのは、幹夫の中でそれを聞いているからだ。

幹夫は、母の背中に手を振らなかった。振らないことが冷たさではなく、自分の中の段取りだと分かっているからだ。振ると、次の言葉が必要になる。次の言葉を置く場所が、今日はまだ整っていなかった。

母が見えなくなってから、幹夫はベンチに残った。残った座面が、太ももの熱をまだ持っている。持っている熱は、すぐには冷めない。冷めないものは、あとから効いてくる。

封筒の中の写真を、開けはしなかった。開けたら、花火の光がまた今になってしまう気がした。今になると、返事が要る。返事はまだ、写真の裏側には置けない。

かわりに、幹夫は立ち上がって歩いた。国一のほうへは行かない。潮の匂いのほうへも行かない。安倍川のほうへ向かった。

川へ向かう道は、町の匂いが薄くなる。洗濯物の柔軟剤、コンビニの揚げ物、バスの排気。それらが少しずつ後ろへ下がって、草の乾いた匂いが前に出てくる。草の匂いは途中の匂いだ。外側に貼りつかず、内側にも沈まない。どちらにも偏らない匂い。

堤防に上がると、風が少しだけ強くなった。風は涼しくない。涼しくないのに、皮膚の上の膜を剥がすように通る。通ると、息が深くなる。

河原の白い石が光っていた。昼の白は嘘がない。嘘がないぶん、影が来るのが早い。石の間を水が流れる。流れる音は波と違って、返事を求めない。返事を求めない音は、こちらも返事を作らなくていいと許す。

幹夫は堤防の斜面に腰を下ろした。草がちくちくと背中に当たる。小さな痛みは、今ここを逃がさない。

ポケットから、透明の封筒を取り出す。封筒は光を通して、写真の輪郭だけを薄く見せる。薄い輪郭は、夢のようで現実だった。夢は触れないが、現実は触れてしまう。触れてしまうから、折り目が増える。

幹夫は封筒の角を指で押さえた。指先に、ビニールの冷たさ。その冷たさが、さっき母の声を聞いたときの胸の狭さと繋がっている気がした。

繋がっているのに、言葉にならない。言葉にならないものは、胸の中でぐるぐる回って、出口を探して、見つからないまま熱になる。熱は痛い。痛いのに、泣くほどではない。泣くほどではない痛みが、いちばん静かに壊れていく。

川の向こう側で、子どもたちが野球の練習をしていた。「ナイス!」「いけ!」声が風に乗って、薄くなる。薄くなるのに、消えない。消えないのは、次の声が返ってくるからだ。返ってくる声があると、声は沈まない。

幹夫は、子どもたちの声を聞きながら、自分の喉の奥を確かめた。乾いている。乾いているのに、今なら少しだけ息を吐けそうだった。

吐く息の上に、言葉を置く。言葉は、説明じゃなくていい。説明すると、正しさが必要になる。正しさは重い。今日は、重さを背負う日じゃない。

幹夫は、誰に聞かせるでもなく、川へ向けて小さく言った。

「……あの日、見てないのに、覚えてる」

花火を見上げていない写真の中の自分。眠っていたのに、光が頬に当たっている。覚えているのは光じゃなくて、抱えていた腕の形かもしれない。腕の形を覚えているなら、それは景色だ。景色は、言葉より先に残る。

言った瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなった。狭くなるのに、固まらない。固まらない狭さは、外へ少しだけ漏れた狭さだった。

そのとき、風が来た。茶畑の奥で準備していた風とは違う。川の上を通って、石の間をすり抜けて、幹夫の頬に触れる風。風は冷たくない。冷たくないのに、皮膚の上に貼りついた何かを剥がすみたいに通った。

幹夫は、ふと思った。胸の奥で回っていたものが、今、風の形をしている。誰にも見せなかった感情は、涙にも言葉にもならず、ただ、今の風の速度に変わっている。悲しい、と言えば簡単だ。でもこれは、悲しいの手前にある、形のない重さだ。形のない重さは、形のある風景にしか置けない。

川の水面が、午後四時の光を跳ね返した。跳ね返る光は目に痛い。痛いのに見てしまう。見てしまうのは、その痛みが「まだ生きている」を教えるからだ。

その日、幹夫は初めて、誰にも見せなかった感情が、ちゃんと外側に場所を持つ瞬間を見た。場所は涙ではなく、言葉でもなく、ただ――安倍川の白い石と、草の匂いと、風の通り道だった。

家に戻るころ、影がいっそう長くなっていた。午後五時に近い影は、世界を少しだけ傾ける。傾いた世界は、説明不足のまま「今日」を終わらせようとする。

玄関を開けると、祖母のやかんが鳴いた。湯気が立ち、茶の匂いが内側へ沈む。川の草の匂いが、茶の匂いに押されて薄くなる。薄くなるのに消えない。消えないものがある、ということが、今日は妙に助かった。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

祖母の声。幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、川で言った小さな一言の残り方に似ていた。言った瞬間には何も変わらないのに、家の湯気の中で、あとからじわっと効いてくる。

居間で父がテレビをつけたまま、音量を一段下げた。振り向かずに言う。

「……帰ったか」

幹夫は一拍置いて答えた。

「……うん。川、行ってた」

父のリモコンの手が止まって、また動いた。音量がもう一段だけ下がる。言葉じゃない返事。父の返事。

「……そうか」

それだけ。でもその「そうか」は、今日の風景を壊さずに机の上へ置くみたいに静かだった。

夜、幹夫は机の引き出しに、透明の封筒をしまった。しまう前に、封筒の角を指で一度だけ押さえる。角は硬い。硬いのに、今日はその硬さが怖すぎなかった。硬いものも、風景の中に置けるなら、持てる。

幹夫少年はまだ、言葉を持たない。けれど、誰にも見せなかった感情が、ある日ふいに、風景の形を借りて外に出ることがある――そうやって外に出たものは、壊れるのではなく、ようやく置き場所を持つのだと、その夜の茶の香りの向こうで、指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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