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『雨上がりの国一沿い』

雨が止んだばかりの国一は、まだ息を整えきれていなかった。アスファルトの上には薄い水の膜が残り、車のタイヤがそれを切るたび、しゃり、と小さな音が腹の底へ届く。白線は洗われたばかりみたいに明るく、中央分離帯の低い植え込みからは、葉の先にたまった滴が、一定の間隔で落ちていた。落ちる音は聞こえないのに、落ちていく気配だけは、なぜか分かる。

幹夫(みきお)は助手席の窓に額を寄せ、曇ったガラスの向こうを眺めていた。ワイパーが、もう必要ないはずなのに、惰性みたいに一度だけ動く。ゴムが濡れたガラスを引きずって、きゅ、と鳴る。その鳴り方が、言いかけてやめた言葉に似ていた。

運転席の父は、前だけを見ている。帽子のつばの影で顔の半分が隠れて、口元の硬さだけが残る。父の手はハンドルを握りながら、必要なときだけ僅かに角度を変える。濡れた路面を怖がっているわけじゃない。慎重にしているのは、たぶん別のところだ、と幹夫は思った。

国一沿いは、雨上がりの匂いが濃い。土の匂いと、排気と、濡れた看板のインクの匂い。コンビニの入口のマットから立つ洗剤の匂いまで、全部が一緒になって、息を吸うたび喉の奥へ入り込む。港の潮の匂いはもう薄れているのに、まだ袖の裏には残っている気がした。塩は目に見えないまま、皮膚の上だけに居座る。

助手席の足元に、紙袋がひとつ置かれている。母が渡したものだ。中身を確かめる必要のない形で手渡された。持ち帰るだけでいいもののように、音も立てずに。幹夫は紙袋の角を膝で感じながら、触れないままにしていた。触れれば、紙が鳴る。鳴った音が、車内でやけに大きくなる。大きくなった音が、次の言葉を呼ぶ気がする。

信号が赤になり、軽トラが滑るように止まる。止まる瞬間の、ほんの一拍。エンジンの振動が体に残ったまま、外の世界だけが静かになる。雨上がりの路面は、信号機の赤を水たまりに落として、赤い点を増やしていた。増えた赤は、どれも本物より少しぼやけている。ぼやけているのに、確かにそこにある。

歩道で、制服の高校生が傘をたたんでいた。濡れた傘の布が、ぴしゃ、と短く鳴る。鳴ったあと、傘から落ちた水滴が、アスファルトの黒に吸い込まれていく。吸い込まれる速さが、思ったより速い。残ると思っていたものほど、残らない。

幹夫はポケットのスマホを握った。画面は点けない。点ければ通知の有無がはっきりする。はっきりすると、言い訳が減る。言い訳が減ると、心の中の段差が露出する。

父が、前を見たまま言った。

「……腹、減っとるか」

国一沿いの質問だ、と幹夫は思った。空腹は、答えが簡単に出るから。うん、か、いや、だけでいい。幹夫は少し間を置いて、「ちょっと」と言った。声が車内のビニールの匂いに吸われずに、ちゃんと残った気がした。残ったのは、父が聞いているからだ。

信号が青になる。軽トラが進む。水の膜がまた切れて、しゃり、と鳴る。鳴り方は一定で、一定の音は考えを薄くする。薄くなったところに、別のものが浮かぶ。

雲の切れ間に、富士の輪郭が一瞬だけ見えた。はっきりしない、青黒い塊。見えたと思った次の瞬間には、また雲が縁をなぞって隠す。見えたり隠れたりするものを、幹夫はうまく見上げられない。見上げるには、首が少し痛い。痛いのが怖いのか、痛いのが嫌なのか、自分でも分からないまま、視線は道路へ戻った。

国一は、生活の線だ。港からも、街からも、茶畑のある丘へも、一本でつながる。つながっているのに、どこにも属さない。どこにも属さない道の上にいると、幹夫は少しだけ、名前のない自分でいられる気がした。

父はウインカーを出し、コンビニの駐車場へ入った。タイヤが縁石の水たまりを踏み、ぱしゃ、と音がする。音は小さいのに、夜より目立つ。雨上がりは、音が前に出る。

父は車を停めて、短く言う。

「おにぎりでええか」

「うん」

父が車を降りる。ドアが閉まる音のあと、車内は急に広くなる。広くなると、エンジンの音と、自分の呼吸だけが残る。呼吸が残るのが、少し落ち着かない。落ち着かないから、幹夫は紙袋に視線を落とした。

紙袋は、ただそこにある。濡れていない。なのに、雨上がりの空気の中では、紙まで湿って見える。幹夫は、袋の取っ手に指先を当てた。握らない。触れるだけ。紙の繊維のざらつきが、指の腹に引っかかる。引っかかりがあると、「触れた」が残る。触れたが残ると、あとで逃げにくい。

スマホの画面を点けた。母からのメッセージが一件だけ、短く光っている。

「無事着いた?」

三文字じゃないのに、短い。短い言葉は、相手の気持ちを測らせない代わりに、自分の気持ちを測らせる。幹夫は返信欄を開いたまま、指を止めた。

無事。無事って、何だろう。会って、歩いて、紙袋を持って、今ここにいる。それだけで無事なのか、まだ分からない。

雨上がりの国一沿いの、コンビニの駐車場。白い車線の上に、街灯のない昼の光が薄く残っている。水たまりに、看板の色が揺れている。揺れている色は、本当の色よりやさしい。

幹夫は、短く打った。

「今、国一。父ちゃんと帰ってる」

送信を押す指が、ほんの少し遅れた。遅れたのに、押せた。押した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方が、雨上がりの匂いみたいに、じわっと広がった。

父が戻ってくる。ビニール袋の音がして、ドアが開く。コンビニの冷気の匂いが一瞬だけ車内に混じり、すぐに土と茶と機械油の匂いに押し戻される。父はおにぎりと紙コップのコーヒーを置き、何も言わずにシートベルトを締めた。金具の音が、かち、と鳴る。鳴る音が小さくて、きちんとしている。

父がエンジンをかけ、軽トラがまた国一へ出る。雨上がりの路面が、今度はコンビニの明かりを引きずって伸ばす。伸びる光は、まるで誰かの返事みたいだった。言葉じゃない返事。けれど確かに「届いた」を作る返事。

スマホが震えた。母から。

「よかった。気をつけてね」

よかった、という言葉は、説明が少ない。でもその少なさが、今はちょうどよかった。雨上がりの国一沿いは、余計なものを洗い流したばかりで、重い言葉を置くには滑りやすい。滑りやすい場所では、短い言葉のほうが立っていられる。

幹夫は、おにぎりの包装を指で探り、海苔の匂いを嗅いだ。しょっぱい匂い。さっきまで袖の裏に残っていた塩と、どこかで繋がる匂い。繋がる匂いがあるなら、今日のことも、どこかで繋がっていくのかもしれないと、幹夫は思った。

父が、前を見たまま言う。

「……幹夫」

名前だけ。語尾も、続きもない。でも国一の一定の走行音の中で、その呼び方はやけにまっすぐだった。

幹夫は、すぐに顔を上げず、海苔の匂いの上で短く返した。

「うん」

雨上がりの国一沿い。洗われた白線の上を、軽トラは淡々と進む。水の膜を切る音だけが、途切れず続く。続く音の中で、幹夫は今日、置いていかれなかったものが一つあることを、指先で確かめていた。

 
 
 

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