top of page

『静岡という町で、少年は静かに壊れていく』

静岡の午後は、いつも「何かが起こる前」の顔をしている。空は明るく、風は穏やかで、山も海もきちんとそこにあるのに、どこかの角が少しだけ浮いている。浮いた角に、見えない不安が引っかかって、誰にも気づかれないまま揺れている。

廉(れん)は、その揺れにだけ敏感だった。

学校の廊下には、避難経路の矢印がたくさん貼られている。黄色い矢印。赤い矢印。階段の曲がり角の矢印。体育館へ向かう矢印。矢印の「向こう」に、安心があるような顔をしているのに、廉はいつも、矢印が示す先よりも、矢印が貼られている壁の冷たさのほうを先に感じてしまう。

「津波避難」

その文字は、学校の掲示板の「入選者発表」よりも静かに、確実に目に刺さる。刺さった文字は、抜けない。抜けないから、歩くたび、胸の奥で小さく擦れる。擦れる音は外には出ない。外に出ない音ほど、人をじわじわ壊す。

昼休み、窓際で弁当を食べていると、放送委員の声がスピーカーから流れた。淡々とした声。誰の名前も呼ばず、感情を足さず、正しい速度で言葉だけを運ぶ声。

「本日の…気温は…」

気温の報告は、天気の話のふりをして、実は時間の針を進める合図だ。湿った熱が教室に溜まり、制服の襟が首に貼りつく。貼りつく感覚が、海の潮の膜みたいで、廉は息を浅くした。

友だちが「暑っ」と言って笑い、別の誰かが「部活だる」と言って机を蹴った。音が多いのに、廉の耳の中だけは妙に静かだった。静かな耳の中には、別の音がいる。鳴る前の一拍。訓練の笛が鳴る前。速報のアラートが鳴る前。海が一段だけ息を吸う前。

廉は、その「前」だけを集めて生きている気がした。

放課後、校門を出ると、静岡の午後四時が始まっていた。午後四時の影は、光より生活に近い顔をしている。帰る人の足を早くする影。話しかける前の喉を乾かす影。まだ明るいのに、影だけが先に「終わり」を準備する。

廉は、帰り道をわざと遠回りした。国一の脇道を抜け、川のほうへ向かう。安倍川は海へ行く前の顔をしている。流れているのに、急がない。波のように返事をしない。ただ、淡々と運ぶ。

堤防の上は風が強くて、汗の匂いが少しだけ飛ぶ。白い石が光り、草の匂いが乾いて鼻の奥に刺さる。この匂いは、潮の膜と違って外側に貼りつかない。でも内側に沈む茶の匂いとも違う。「途中」の匂いだ、と廉は思う。途中の匂いは、どちらにも偏らない。

それなのに、堤防の上にも矢印がある。川の土手に立つ標識。「津波避難方向→」矢印は、どこへ行っても追いかけてくる。

廉は矢印の先を見なかった。矢印の先に安心があるなら、こんなに矢印はいらない。安心が足りないから、矢印が増える。増えた矢印が、町の輪郭になっていく。

静岡という町は、穏やかな顔で矢印を増やす。その穏やかさが、廉には残酷だった。

家は港の匂いに近い場所にある。玄関を開けると、だしの匂いが先に来る日もあれば、潮の匂いが先に来る日もある。潮が先に来る日は、家の中まで外の膜が入り込む。膜が入ると、言葉がうまく出ない。言葉の代わりに「うん」が増える。

祖母はいつも通り湯を沸かし、湯気が立つ前に茶の匂いが沈む。沈む匂いは、胸の奥の段差をなだらかにする。父はいつも通り、テレビの音量を一段下げる。音量を下げる動作は、言葉の代わりの合図になる。

「今日も、訓練あったか」

父は、顔を向けないまま言う。訓練という言葉を、父は生活の言葉みたいに使う。生活の言葉みたいに使えるのが、大人だ。子どもは、訓練を訓練のまま受け取ってしまう。訓練のまま受け取ると、世界はいつも「本番の手前」になってしまう。

廉は「うん」と返し、湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みがあると知っているだけで、今日という日が少しだけ持てる。

父が不意に言った。

「…警報、鳴ったら、まず上だ。分かるな」

“鳴ったら”の言い方が、もう鳴る前提を含んでいる。鳴らない日が続いても、鳴る日は必ず来る、という前提。その前提が、家の中の畳の目より確かに見えてしまうのが、廉は苦しかった。

「分かる」

廉は答える。分かる、と言うのは簡単だ。でも“分かる”の中身は毎日増えて、増えた分だけ胸の奥が狭くなる。狭くなるのに、泣けない。泣けないまま狭くなるのが、静かに壊れるということなのだ、と廉は最近思う。

夏のある日、町内の防災無線が試験放送を流した。あの独特の機械の声。少し割れていて、平坦で、優しくないのに「落ち着いてください」と言ってくる声。

廉は、布団の中で目を開けた。試験放送だと分かっているのに、心臓だけが先に本番の速さになる。速くなる心臓を、誰にも見せないように息を止める。息を止めると、胸の奥がますます狭くなる。狭くなるのに、音は出ない。音が出ない狭さは、外から見えない。

翌日、学校で友だちが笑った。

「昨日の放送、うるさくね?」

うるさい、と言えるのは健全だ。うるさい、と言える人は、うるさい音を外へ出せる。廉は外へ出せない。外へ出せない音が、胸の奥へ沈んでいく。

沈む音は、駿河湾に沈む声みたいに、どこへ行くのか見えない。見えないから、拾いに行けない。拾えない音が、体の中で増えていく。

増えた音は、ある日、急に“言葉”の形を取る。例えば、数学の問題を解いているとき。例えば、体育の整列で号令を待っているとき。例えば、夕方のコンビニでレジの列に並んでいるとき。

(来たら、どうする?)

そんな言葉が、勝手に口の中に転がる。転がった言葉は、噛み砕けない。噛み砕けないから、飲み込む。飲み込むと、胃のあたりが重くなる。重いのに、誰にも言えない。

言えないまま、廉は笑う。笑うと“普通”になる。普通の顔を作ると、普通のまま壊れていける。壊れていけるのが、いちばん怖い。

八月の終わり、清水の港は夕方の風を連れていた。潮の匂いが外側に貼りつき、皮膚が少しだけきしむ。廉は防波堤の端に座り、海を見た。

海は、答えを返さない。返さないのに、そこにいる。そこにいるものほど、怖いときがある。逃げられないからだ。

ポケットの中のスマホが震えた。母からではない。友だちからでもない。学校の連絡網。「防災訓練のお知らせ」

お知らせ。“知らせる”という言葉は優しい形をしているのに、内容はいつも「備えろ」だ。備えろ、の中には「起こる」が隠れている。起こる、が隠れている言葉は、読むたび胸の奥を削る。

廉は画面を閉じ、海を見た。波の線が、防波堤に当たって折れ、白くなって消える。消えるのに、次が来る。次はさっきと違う形で来る。違う形で来ても、波であることだけは同じ。

その繰り返しを見ているうちに、廉の中の何かが静かに崩れた。崩れたのに、音はしない。音がしない崩れは、周りに気づかれない。気づかれないまま、崩れた部分から空気が漏れる。漏れた空気は、言葉になる前に消える。

廉は唇を動かした。声は出なかった。出なかったのではなく、出す場所が見つからなかった。海は受け取らない。防波堤は反響しない。受け取る人がいないと、声は沈む。

沈む声の代わりに、涙が出た。涙も音を立てない。肩も震えない。ただ、目の内側だけが熱くなって、熱くなったまま、冷える場所を探している。

そのとき、背後で誰かが言った。

「潮、つくぞ。帰りゃあ」

港で働く、知らない大人の声だった。叱るでも慰めるでもない。生活の段取りの声。段取りの声は、いまここから離れるための取っ手になる。

廉は立ち上がった。ふらつかなかった。ふらつかないのが、また怖かった。壊れたのに、壊れていない顔が作れてしまう。

静岡という町は、穏やかな顔で人を歩かせる。歩けるまま、壊れていく。

家に帰ると、祖母のやかんが鳴いた。湯気が立ち、茶の匂いが内側へ沈む。その匂いは、外側の潮の膜を少しずつ剥がす。剥がれると、今日の涙の熱だけが残る。

父は居間でテレビをつけたまま、音量を一段下げた。振り向かずに言う。

「…どこ行ってた」

廉は「海」と言えなかった。「港」とも言えなかった。言えば、矢印の話に戻る気がしたからだ。“備えろ”の話に。“鳴ったら”の話に。“分かるな”の話に。

代わりに、廉は短く言った。

「…外」

外、という言葉は便利で、便利だから生活に入る。生活に入ると、特別なことも特別じゃなくなる。特別じゃなくなると、持てる。持てるのに、持ったまま壊れていける。

父は「そうか」とだけ言った。その「そうか」は、段取りの「そうか」だった。段取りの言葉は壊れにくい。壊れにくい言葉があると、壊れた人は壊れたまま居られる。

祖母が台所から言う。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

廉は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、壊れたものがすぐには見えないことを教える。見えないまま残るものがあるから、壊れは静かに進む。

窓の外で、蝉が鳴いた。いつもより短い。鳴いて、途切れる。途切れる音は、夏が止まりかけている音に似ていた。

静岡という町で、少年は静かに壊れていく。誰かに殴られたわけでも、誰かに捨てられたわけでもない。ただ、矢印が多すぎる町で、いつ来るか分からない「前」を抱えたまま、息の仕方だけが少しずつ変わっていく。変わっていくことに気づくのは、いつも遅い。夕暮れがそうであるように。説明不足のまま、影だけが伸びていくように。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page