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お茶の葉と星の子


 夜明け前の茶畑は、まだ夢の中にいた。

 空は深い藍色を残しながら、東の端だけがほんの少し白んでいる。丘の斜面に並ぶ茶の畝は、夜の湿り気を抱いて、静かに丸い背中を並べていた。葉の先には露が降りている。ひと粒ひと粒が小さく光り、まるで夜空からこぼれた星が、帰る道を忘れて茶葉の上に休んでいるようだった。

 幹夫少年は、農道の端で立ち止まった。

 手を伸ばせば触れられるほど近くに、茶の葉がある。 顔を上げれば、もう薄くなりかけた星がある。

 そのあいだで、幹夫は小さく息をした。

 前の日、学校で作文を読んだ。

 題は「好きなもの」だった。

 幹夫は、お茶の湯気について書いた。湯呑みから立ちのぼる白い湯気が、朝の台所で母の声と混じること。寒い日に湯呑みを両手で包むと、胸の中の硬いところが少しやわらぐこと。お茶の苦みのあとに来るかすかな甘みが、悲しい気持ちをすぐには消さないけれど、そばに座ってくれるように感じること。

 読み終わると、教室は少し静かになった。

 先生は「よく見ていますね」と言った。 けれど後ろの席で、誰かが小さく笑った。

 「お茶の湯気って、地味だな」

 たったそれだけだった。

 悪気はなかったのだろう。 でも幹夫の胸には、その小さな笑いが、夜まで残った。

 自分の好きなものは、地味なのだろうか。 自分が大切だと思うものは、ほかの人には見えにくいのだろうか。 湯気や露や、茶葉の揺れや、誰かの沈黙ばかり気にしている自分は、やはり少し変なのだろうか。

 そんなことを考えているうちに眠れなくなり、まだ暗いうちに茶畑へ来てしまったのだった。

 幹夫は茶葉の露を見つめた。

 「地味じゃないよね」

 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。

 そのとき、茶畑の奥で、露とは違う光がまたたいた。

 幹夫は顔を上げた。

 光は一枚の若い茶葉の上にあった。けれど露ではない。露なら丸く葉の縁に宿るはずなのに、その光は葉の真ん中で、小さな子どものように身を丸めていた。

 幹夫は、茶葉を傷つけないようにそっと畝の間へ入った。

 近づいてみると、それは本当に小さな子どもだった。

 背丈は幹夫の親指ほど。体は透き通るように淡く、髪は星屑を集めた糸のように白く光っている。目は夜空のいちばん深いところを映したような色をしていた。背中に羽はない。けれど、体の周りには小さな光の粒がふわふわと浮かんでいた。

 その子は茶葉の上で震えていた。

 「寒いの?」

 幹夫がたずねると、星の子は小さく首を振った。

 「寒いんじゃない。軽くなりすぎたの」

 「軽く?」

 「夜の終わりに、空から落ちた。星は地上に長くいると、光を少しずつ忘れて、ただの朝になってしまう」

 幹夫は胸がきゅっとした。

 ただの朝になる。

 それはきれいな言葉のようで、どこか寂しかった。 星であったことを忘れ、空へ戻る道をなくし、誰にも気づかれず朝の光に溶けてしまう。そんな悲しさが、星の子の小さな肩にのっているように見えた。

 「空へ帰りたいの?」

 幹夫が聞くと、星の子はうなずいた。

 「でも、もう飛べない。星の道が消えかけている」

 幹夫は空を見上げた。

 夜は薄くなっていた。星はまだいくつか見えるが、どれも朝の青に押されて弱くなっている。東の空は、もう水で薄めた墨のような色になっていた。

 「どうしたら帰れるの」

 幹夫が聞くと、星の子は自分を受け止めている茶葉を見た。

 「この葉が、知っている」

 幹夫もその茶葉を見た。

 若い茶葉だった。やわらかく、まだ少し頼りない。けれど葉脈は細く美しく走り、露を抱いた縁が朝の気配の中でかすかに光っている。

 その茶葉が、声を出した。

 「帰るには、湯気がいる」

 幹夫は驚いた。

 茶葉の声は、とても小さかった。 けれど、はっきりしていた。

 「湯気?」

 「お茶の湯気は、地上から空へ上る細い道だから」

 茶葉は、星の子をそっと揺らさないようにしながら言った。

 「星の子は、ただ空へ投げても帰れない。地上の香りを少し持っていかないと、空が受け取れない」

 「地上の香り?」

 「土の匂い。水の匂い。人の手の温かさ。茶葉の苦み。そういうもの」

 幹夫は黙った。

 星の子が帰るためには、お茶の湯気が必要。 お茶の湯気を立てるには、茶葉が必要。

 幹夫は、胸の中でその意味に気づきかけて、息を止めた。

 「もしかして、きみが……お茶になるの?」

 若い茶葉は、少しだけ震えた。

 風のせいではなかった。

 「そう」

 幹夫の胸が痛くなった。

 「でも、摘まれたら、きみは葉ではなくなる」

 「うん」

 「怖くないの?」

 茶葉は少し黙った。

 茶畑の上を、朝前の風が通った。 ほかの葉たちが、さわ、と鳴った。まるで遠くから見守っているようだった。

 やがて茶葉は言った。

 「怖いよ」

 その答えは、とても正直だった。

 「葉でいる時間は好き。朝露も、風も、隣の葉の寝息も、土から上ってくる水の声も好き。まだ光をたくさん受けたい。まだ畑にいたい」

 幹夫は、何も言えなかった。

 茶葉の声は続いた。

 「でも、お茶になることは、消えることだけじゃない。湯の中で開いて、香りになって、誰かの胸へ入ること。葉のままでは行けない場所へ行くこと」

 幹夫は、その言葉を聞きながら、昨日の作文を思い出した。

 お茶の湯気。 苦みのあとに来る甘み。 胸の硬いところをやわらげる温かさ。

 幹夫が好きだと書いたものは、茶葉が形を変えた姿だった。

 「でも」

 幹夫は小さく言った。

 「星の子を助けるために、きみだけが変わらなくちゃいけないなんて」

 茶葉は静かに答えた。

 「幹夫も、変わるのが怖い?」

 幹夫ははっとした。

 答えられなかった。

 変わりたいと思う。 もっと強くなりたい。 人の言葉にすぐ傷つかないようになりたい。 自分の好きなものを笑われても、平気でいられるようになりたい。

 でも、変わるということが、今の自分を捨てることなら怖い。

 湯気を大切だと思う心も、露に立ち止まる心も、小さな星の震えに胸を痛める心も、全部なくしてしまうことなら、強くなりたくない。

 幹夫は、やっと言った。

 「怖い」

 茶葉は、朝露をひと粒こぼした。

 「変わることは、捨てることばかりじゃないよ」

 その露は、茶葉の先から落ちずに、星の子の頬へ触れた。星の子の光が、ほんの少し強くなった。

 「葉はお茶になっても、土を忘れない。水を忘れない。風を忘れない。形は変わっても、受けてきたものは香りになる」

 幹夫は、茶葉を見つめた。

 若く、薄く、傷つきやすそうな葉。

 けれど、その薄さの中に、朝の光を受ける力がある。 そのやわらかさの中に、星の子を支える力がある。

 「ぼくに、何ができる?」

 幹夫は聞いた。

 茶葉は答えた。

 「ていねいに摘んで。怖がらせないように」

 幹夫の手が震えた。

 茶葉を摘んだことなどない。 まして、声を持つ茶葉を摘むなんて。

 でも、茶葉の上では星の子が弱い光で震えている。朝は少しずつ近づいている。迷っている時間は長くなかった。

 幹夫は、両手を合わせるようにして茶葉のそばへ近づけた。

 「痛かったら言って」

 そう言うと、茶葉は小さく笑ったように揺れた。

 「痛い時は、葉は音で言うよ」

 幹夫は、指先で茶葉の茎に触れた。

 冷たかった。 でも、そこに小さな脈のようなものを感じた。土から水を受け、光を受け、夜露を抱えてきた命の細い通り道。

 幹夫は急がなかった。

 強く引かなかった。

 茶葉が自分から離れる瞬間を待つように、そっと指を動かした。

 ぷつん。

 ごく小さな音がした。

 茶葉は幹夫の手の中にあった。

 星の子も、葉の上にのったままだった。

 幹夫は息を止めた。

 茶畑が、さわ、と鳴った。

 それは悲しみの音にも、見送りの音にも聞こえた。

 「ありがとう」

 幹夫が言うと、茶葉はかすかな声で答えた。

 「まだ終わっていないよ」

 茶畑の端に、小さな茶小屋があった。

 昼間なら道具をしまっておくための小屋に見える。けれど、今朝は戸の隙間から薄い光が漏れていた。幹夫が戸を開けると、中には古い急須と、小さな火鉢と、白い湯呑みが置かれていた。

 誰かが準備してくれていたようだった。

 それが誰なのか、幹夫にはわからなかった。 茶畑そのものかもしれない。 昔ここで働いた人の手の記憶かもしれない。 夜明け前の星たちかもしれない。

 幹夫は火鉢の上の小さな鉄瓶を見た。

 湯が沸いていた。

 鉄瓶の口から、細い湯気が立ちのぼっている。幹夫はそれを見て、胸が少し震えた。昨日、作文に書いた湯気と同じだった。けれど今朝の湯気は、星の子の帰り道になる。

 幹夫は茶葉を急須に入れようとして、手を止めた。

 「本当に、いいの?」

 茶葉は答えた。

 「うん。でも、乱暴にしないで」

 「しない」

 幹夫は、茶葉を急須の中へそっと置いた。

 星の子は茶葉の上から離れ、湯呑みのふちに腰を下ろした。光はもう弱く、体の輪郭が少しずつ朝の空気に溶けかけている。

 幹夫は鉄瓶を持ち上げた。

 湯を注ぐ。

 その瞬間、茶葉が急須の中でひらいた。

 最初に、青い香りが立った。

 茶畑の朝の香りだった。 土の湿り気。 露の冷たさ。 まだ眠っている葉たちの気配。

 次に、少し苦い香りが来た。

 葉が枝を離れる時の怖さ。 形を変える時の痛み。 それでも湯の中で自分を開こうとする勇気。

 最後に、かすかな甘い香りが湯気に混じった。

 それは星の子の光に触れた茶葉の、やわらかな祈りのようだった。

 幹夫の目に涙がにじんだ。

 急須の中で茶葉はもう葉の形を失いながらも、香りとして小屋いっぱいに広がっていた。

 星の子が顔を上げた。

 「道が見える」

 湯呑みの上に、白い湯気が立ちのぼった。

 湯気はまっすぐ上へ伸びた。小屋の天井を通り抜け、朝まだきの空へ、見えない糸のように続いていく。その中に、茶の香りと、土の匂いと、幹夫の涙の気配と、星の子の薄い光が混じっていた。

 幹夫は湯呑みにお茶を注いだ。

 お茶は淡い金色だった。

 その表面に、星の子の姿が映った。

 星の子は、幹夫を見た。

 「君も少し、飲んで」

 「ぼくが?」

 「地上の子が飲まないと、湯気の道は途中でほどける。お茶は、誰かに受け取られて初めて空へ道を作るから」

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 温かかった。

 その温かさは、茶葉が形を変えた証だった。

 幹夫は、ゆっくりひと口飲んだ。

 苦かった。

 でも、その苦みは嫌ではなかった。 胸の奥に直接届くような苦みだった。

 そのあとに、甘みが来た。

 とても小さな甘み。 探さなければわからないほどの、遠慮がちな甘み。

 でも幹夫には、それがわかった。

 お茶の葉が、星の子を支えるためにくれた甘みだった。

 「おいしい」

 幹夫は小さく言った。

 その言葉を聞いた瞬間、湯気の道が強くなった。

 星の子の体が、ふわりと浮いた。

 「ありがとう」

 星の子は言った。

 その声は、もう泣きそうではなかった。 少し寂しく、でも明るかった。

 「君の作文の湯気も、地味じゃないよ」

 幹夫は驚いた。

 「聞いていたの?」

 星の子は笑った。

 「星は、見上げられたものだけを見るんじゃない。見上げられなかった小さな光も、時々見ている」

 幹夫は、何も言えなかった。

 星の子は続けた。

 「湯気は、地上でいちばん細い空への手紙だよ」

 湯気の中で、星の子の体は少しずつ透明になっていった。

 小屋の外では、東の空が明るくなりはじめている。

 「また会える?」

 幹夫が聞くと、星の子は少し首をかしげた。

 「同じ形では会えないかもしれない。でも、お茶の湯気を見たら、少し思い出して」

 「茶葉のことも?」

 「うん。葉は湯気になって、空へも、君の胸へも行ったから」

 星の子は、湯気の道を上っていった。

 白い湯気の中を、朝の光より少し早く、小さな星が上っていく。小屋の天井を越え、茶畑の上へ出て、まだ薄い空へ向かっていく。

 幹夫は外へ走った。

 茶畑は夜露に光っていた。

 空は青白く、星はもうほとんど見えない。けれど、湯気の先だけが、細い光の道になっていた。

 星の子は、その道を上っていく。

 やがて空の高いところで、一度だけ強くまたたいた。

 それから、見えなくなった。

 消えたのではない。 帰ったのだと、幹夫にはわかった。

 茶畑は静かだった。

 けれど、さっき茶葉を摘んだ場所の近くで、ほかの葉たちが朝風に揺れていた。

 さわ。 さわ。

 それは、別れのあとに残る寂しさと、見送れたことの安堵が混じった音だった。

 幹夫は茶小屋へ戻った。

 急須の中には、開いた茶葉が一枚残っていた。

 もう声はしなかった。 けれど葉は、湯の中でやわらかく広がっていた。枝についていた時とは違う姿だった。けれど、ただ失われたものには見えなかった。

 香りになったあとも、そこにいた。

 幹夫は、急須の中の茶葉へ小さく頭を下げた。

 「ありがとう」

 その言葉は、昨日教室で言えなかった自分の気持ちにも向けられていた。

 湯気を好きだと言った自分。 地味だと笑われて傷ついた自分。 それでも、湯気が空への手紙だと知った自分。

 どれも捨てなくてよいのだと思った。

 家へ帰るころ、朝日は茶畑に触れはじめていた。

 葉の露が一斉に輝き、畝は緑の波へ戻っていく。夜の不思議は、朝の光の中で静かに隠れてしまった。

 母が台所でお茶を淹れていた。

 「早く起きたのね」

 母は少し驚いた顔をした。

 幹夫はうなずいた。

 「茶畑を見てきた」

 母は湯呑みを幹夫の前に置いた。

 湯気が立っていた。

 白く細く、頼りない。 けれど、幹夫にはもう知っている。

 それは空へ届く手紙だった。

 幹夫は湯気を急がず見つめた。

 そこに星の子の笑顔と、若い茶葉の声が一瞬だけ見えた気がした。

 「地味じゃないね」

 幹夫がつぶやくと、母が不思議そうに聞いた。

 「何が?」

 幹夫は少し笑った。

 「お茶の湯気」

 母は首をかしげたが、何も言わずに微笑んだ。

 幹夫は湯呑みを両手で包み、ゆっくり飲んだ。

 苦み。 甘み。 そして、ほんの少しだけ星の冷たさ。

 そのすべてが、胸の中へ静かに入っていった。

 その日、学校で幹夫は作文の余白に一行だけ書き足した。

 お茶の湯気は、空への細い手紙です。

 誰かに読まれるかどうかは、わからなかった。 また笑われるかもしれない。

 でも、幹夫は消さなかった。

 茶葉は形を変えて香りになった。 星の子は湯気に乗って帰った。 自分の小さな好きなものも、いつか誰かの胸へ届く道になるかもしれない。

 幹夫少年は、窓の外を見た。

 昼の空に星は見えない。 けれど、見えないだけで、そこにいる。

 そしてどこかの茶畑では、若い葉がまた風を受け、いつか誰かの湯呑みから空へ上る日を、静かに待っているのだった。

 
 
 

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