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こぼれ落ちる静寂

 初めて「カスタマーハラスメント(以下、カスハラ)」という言葉を現場で聞いたとき、私はあのパレスチナの難民キャンプで見た光景を思い出していた。そこでは、見えない圧力が日常を蝕み、人々が声をあげることさえためらっているように感じた。私がここ日本で出会った“カスハラ”という現象も、そうした“見えない圧力”として、静かに、しかし確実に職場を蝕んでいた。

 私が訪れたのは東京都内にある小売チェーン企業の本社ビル。仕事柄、紛争地域や災害現場などを取材してきたが、戦場の銃撃音が聞こえない場所にも“戦い”はある。違いは、銃ではなく理不尽な言葉で人の尊厳が傷つけられていくことだろうか。

 ビルの十階にある総務部の一室。蛍光灯の白い光が無機質に落ちている空間に通され、私は“カスハラ対策プロジェクト”リーダーの三浦佳織(みうら かおり)氏に話を聞いた。卓上には新しく作られたという「カスタマーハラスメント対応マニュアル」が置かれている。表紙には、ブルーグレーの地味な色合いの上に金属光沢の文字で「従業員を守る盾」とある。

「企業の目的は、お客様が快適に買い物ができる環境を提供すること――しかしそれによって従業員が犠牲になっていいはずがない。私たちは今年、決断を下しました。カスハラへの明確な“NO”を打ち出すことにしたんです」

 三浦氏の口調には熱がこもっていた。彼女が立ち上がったきっかけは、ある店舗スタッフが1時間以上罵倒され、人格否定までされて、体調を崩してしまった事件だったという。「お客様は神様です」という曖昧な慣習が、いつしか企業文化として根深く染みつき、歪みとなって爆発したのだ。

 目を落としたマニュアルには、具体例が示されている。 ――不当な返品要求、過度なサービスの強要。 ――何度も同じ話を繰り返し、相手を拘束する長時間クレーム。 ――「馬鹿」「クビにしろ」といった暴言、差別的発言。 ――さらには身の危険を感じさせる暴力。

 これらをカスハラと定義づけ、従業員の安全と健康を最優先に守る。それが基本方針だと明記されている。

「では、実際に対応はどう変わったのでしょう?」 私が尋ねると、三浦氏はファイルを開き、いくつかの項目を指さして説明した。「たとえば“初期対応”では、まず冷静に受け止めること。しかし要求が不当と判断できるなら毅然と拒否する。暴言や脅しが続くようであれば、対応を中断し、上司や法務部にエスカレーションします。そこからは必要があれば警察や弁護士と連携する。以前のように、スタッフ一人が精神をすり減らすまで耐える必要はもうないんです」

 話を聞くうちに、三浦氏のまなざしからかすかな光が浮かぶのがわかった。――企業として初めて“この問題に本気で臨もう”と決めた人の確信なのだろう。彼女自身も若い頃に“理不尽なクレーム”に晒されて鬱寸前になった経験があるという。だからこそ、この動きをただの「紙のマニュアル」に終わらせまいという気概が感じられた。

 私はそれから店舗に足を運んだ。都内の中心部にある賑やかな商業施設の一角に、彼らのチェーン店はあった。カスハラ対策研修を受けたばかりだという若手スタッフ、荒井夕子(あらい ゆうこ)さんが取材に応じてくれた。

「私、これまで理不尽なクレームが来ると全部自分のせいだと思い込んでいて……。お客様に少しでも怒りがあるなら、自分が頭を下げ続けるしかない、と。でも、今は不当な要求に“NO”と言っていい、と会社がはっきり示してくれました。上司も『困ったら必ず相談して』と、すぐ駆けつけてくれます」

 荒井さんの表情には安堵がにじんでいる。カスハラの電話を受けるときには録音をオンにし、相手が反社会的な言動をとれば即座に上司へ“SOS”を送れる。マニュアルに書かれたステップが具体的であるほど、彼女のような若いスタッフは無用な恐怖にとらわれずに済むという。

「お客様にも本当に親身に対応したいんです。それが仕事ですから。でも、私たちにも守られるべき権利がある、と知ったら、心が少し軽くなりました」

 彼女の声は、小さいながらもはっきりとした決意がこもっていた。

 そうは言っても、こうした取り組みを快く思わない声もあるだろう。実際、「お客様の怒りを買って、売り上げに悪影響が出るのではないか」と懸念する同僚や上司もいるという。

「確かにリスクはあるかもしれません」 翌日、再び本社に戻った私に、三浦氏はあくまでも冷静に語った。「ただ、理不尽なハラスメントを許容してまで会社を大きくする意味はあるのか。従業員が次々に心を壊して退職してしまうなら、結局のところ企業の存続も危うい。――その考えに経営陣も至ったんです。誠実なクレームには真摯に向き合い、理不尽な要求は法律に従って毅然と対応する。そこを徹底できれば、きっと企業の姿勢を理解してくれるお客様もいるはずです」

 私自身、世界の紛争地域で、声を上げることで命を失うリスクすらある人々を何度も取材してきた。そんな過酷な環境ほど、人間同士が互いの尊厳を守り合う大切さを痛感する。ここは戦場ではないが、見えない“言葉の砲弾”が飛び交う場でも、人が身を守る仕組みがなければならない。

 この企業が導入したマニュアルは、以下のように締めくくられている。

 「従業員の安全を最優先する。  カスハラは犯罪行為とみなす場合もある。  必要であれば遠慮なく警察や弁護士の知見を求める。  再発防止のために、研修と教育を継続的に行い、  メンタルケアを徹底する。 ――以上を忘れないよう、企業全体で取り組むこと」

 閉じたファイルの表紙に手を置くと、固く冷たい感触が指先に伝わってきた。まるで小さな盾のようだ、と私は思った。圧倒的な力を持つ“顧客”と呼ばれる存在に対して、か細い一人ひとりの従業員が、ここに来てようやく“自分を守る術”を手にしたのだ。

 取材を終え、ビルの外に出ると、夕暮れの街には人波が行き交っていた。その波の中には、まだ黙って不当な仕打ちに耐えている人たちが数えきれないほどいるだろう。だけど、こうして一つの企業が声を上げ、取り組みを始めた。何も変わらないよりは、はるかに前進したと言える。

 ――戦場とは違うこの地でも、命に直接関わらなくとも、「尊厳」が奪われる闘いは日々起きている。その事実を多くの人が知り、“企業が従業員を守る”という考えが広まるのならば、理不尽な言葉に傷つく人が少しずつでも減るはずだ。

 私は脳裏に焼き付いている難民キャンプの情景を思い返す。大人たちが怯えながらも、必死に子どもを庇い、言葉すら奪われた中で“尊厳”を死守していた姿――それと同じように、この都会の企業でも、人間の尊厳を守り抜こうと足掻いている人々がいる。境遇は異なれど、そこに共通するのは「生き抜くための声」だ。

 そう考えると、私はこの企業で見た“カスハラ対応マニュアル”を、単なる内部資料ではなく、“小さくも確実な戦いの証”として捉えたくなった。そこには紛れもなく、「人間同士が互いを潰し合わないために、自分と仲間を守る術」が示されているのだから。

 夕焼けの光がビルの窓に染み入り、周囲の高層ビルがオレンジ色に染まる。 ――暗がりが深まるほど、光が射せば影は鮮明になる。 私たちの社会には、まだまだ見えざる軋轢が蔓延している。けれど、こうした“光”が投じられたとき、その軋轢は初めて姿を現し、改善への道筋が描かれる。

 私は静かにシャッターを切る。そう、闇の中に沈んでいた痛みが、ようやく光に照らし出されるのだ。きっと誰かが、あの盾を手にとって前に進んでいく。その一歩が、確かな変化を呼び込むはずだ――そう信じながら、私はカメラを下ろした。

 
 
 

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