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しぶきの向こうの離宮――マッジョーレ湖・イゾラ・ベッラにて

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月15日
  • 読了時間: 4分
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朝のストレーザの湖畔は、ミネラルウォーターのボトルみたいに澄んでいた。桟橋の売店で**battello(遊覧船)**の切符を買い、「ボンジョルノ」と言って乗り込む。甲板のいちばん前に腰をおろしたのが、のちの“やらかし”の始まりだった。

エンジンが震え、船がぐっと顔を上げる。次の瞬間、ばしゃん。写真を撮ろうと身を乗り出した私の胸に、湖の水が気持ちのいい勢いで飛び込んだ。頬も前髪も、カメラのストラップまで、見事に洗礼。あわてる私に、操舵席のカピターノが「piano, piano(ゆっくり)」と笑い、足もとの箱から透明のビニール袋を一枚くれた。「カメラはこれ。しぶきはここでは拍手みたいなものだから」。袋にカメラを入れて口をねじると、不思議と心まで落ち着いた。向かいの席の男の子が、しぶきの回数を指で数えて見せる。私も真似をして、船が上がるたびに一緒に指を立てた。

やがて前方に、オレンジ色の屋根と白い宮殿が現れる。イゾラ・ベッラ――名前の通り「美しい島」。ガイドさんいわく、横から見ると船の形に見えるようにテラスが重なっているのだという。下船して石畳の小道を進むと、バロックのボッロメーオ宮殿が白くひかり、その裏には幾段もの庭園。壁の彫像は思いのほかお茶目な顔で、階段の手すりの先では白いクジャクがふわりと羽を引きずって歩いていた。

ここで二度目の“やらかし”。湖からの風に帽子がふわりと抜け、テラスの下の植え込みへ。駆け寄って身をかがめると、庭師のルイジがすっと現れ、長い熊手で器用に引き寄せてくれた。「Attento!(気をつけて)」「Grazie!」。彼は腰のポーチから細い麻ひもを取り出し、帽子の内側に八の字でちょんちょんと結び目を作ってくれる。「これで風の悪戯に耐えるよ」と片目をつむった。たぶん三十秒もかからなかったが、その手つきは職人の魔法だった。

庭の上段では、音の淡い噴水が静かに上がっていた。欄干にもたれて湖を眺めていると、隣のベンチで年配のご夫婦がピクニックを始める。奥さまが箱を開けて、小さなビスコッティを取り出し、ひとつを半分に折って私に差し出した。「Per te, metà.(あなたに半分)」私は胸ポケットからのど飴を出し、こちらも半分こ。たったそれだけなのに、庭の風が一段柔らかくなった気がする。イタリアには「un po’ per te, un po’ per me(少しはあなたに、少しは私に)」という顔の分け方があって、それがいちばん景色に似合う。

宮殿の内部は、石の床がひんやりしていた。壁には神話の絵、天井には海の泡みたいな漆喰。見上げすぎて首が痛くなったところで、係のシニョーラが肩に手を置いてRiposati qui(ここで休んでね)」と椅子を指す。座って深呼吸すると、外の庭から弦楽器の練習の音が微かに流れてきた。誰かの指が、ゆっくり音階をさがしている。さっきのカピターノの言葉が重なる――piano, piano。ゆっくりでいいのだ。

島の端の売店で、私はポストカードを選び、絵の白い余白に今日の出来事を走り書きした。帽子の八の字、しぶきの回数、ビスコッティの半分、弦の練習。レジの若いお姉さんがカードを見て「Che bello!(素敵)」と笑い、スタンプをぎゅっと押してくれた。彼女は奥から小さなリボンを持ってきて、「帽子のひもに結んでおくとBuona fortuna(幸運)」と教えてくれる。私は帽子の内側に、ルイジの麻ひもと並べて小さな結び目を作った。

帰りの船は、行きよりもずっと賑やかだった。誰かが買ったジェラートがゆっくり傾き、男の子はまた指でしぶきの数を数えている。私は隣の席の人にお願いされ、家族写真を一枚。風が強くて髪が顔にかかるお母さんに、さっきルイジから習ったひとねじりを実演すると、髪は嘘みたいにおとなしくなった。「Perfetto!」シャッターが鳴ると、カピターノが後ろから「Bravo」と短く声を飛ばした。船の上では、直し方も景色の一部になる。

ストレーザに戻ると、湖畔のベンチに腰を下ろした。靴の中で湖水がまだ小さく冷たい。売店で買ったアランチャータの栓を開け、炭酸を少し逃がす。さっきのポストカードを膝の上で乾かしていると、通りかかったシニョーラが「Asciuga, asciuga(乾け、乾け)」と冗談を言ってウチワであおいでくれた。私は笑って帽子のリボンを指さし、「Oggi, fortuna(今日は幸運)」と答える。彼女は肩をすくめ、「イタリアでは、幸運はたいてい誰かの手の形をしてるのよ」と言った。

夕方、湖はゆっくり深い色になっていく。桟橋に戻ってカピターノに「Grazie」と言うと、彼は指で輪を作って**“OK”の合図。「次に来るときは、最前列でも濡れないコツ**を教えるよ」とウインクする。私は「piano, piano」と返し、ポケットの中のポストカードをそっと押さえた。

イゾラ・ベッラの一日は、壮麗な宮殿よりも、しぶきを受けた手と、結び直された紐と、半分このビスコッティでできていた。旅の記憶は、景色の大きさより、そんな手つきで残る。次にもう一度ここを訪れたら、私はきっと最前列に座り、最初の一滴を受けながら、指でまたしぶきを数えるだろう。piano, piano――ゆっくり、でも確かに。湖はそのリズムで、今日も誰かを岸へ返している。

 
 
 

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