すみれの咲く森で
- 山崎行政書士事務所
- 4月4日
- 読了時間: 11分

第一章 春の木漏れ日
高校二年生の幹夫は、春の午後の柔らかな日差しの中、ゆるやかな山道を一人で登っていた。制服のネクタイを緩め、上着を脱いで腕にかけている。いつもの帰り道を外れ、町はずれの小さな森へ足を向けていた。木々の間から降り注ぐ木漏れ日が、足元の落ち葉を黄金色に照らしている。
風はそよそよと頬を撫で、遠くで小鳥たちが楽しげにさえずっていた。春を迎えた森は、生き生きとした新緑に包まれ、どこか懐かしい土の匂いが漂っている。幹夫は鞄から一冊の文庫本を取り出しかけた。表紙には『宮沢賢治詩集』とある。しかし、ふと手を止めた。こんな美しい午後には、本を読むのさえ惜しいように感じられた。静かな森の息づかいを感じながら歩くと、胸の奥に静かな喜びが染み渡ってくるようだった。
ふと足を止め、幹夫は目を細めて周囲を見渡した。木立の隙間から差し込む陽光が、まるでスポットライトのように森のあちこちに明るい円を描いている。その光の円舞台に、小さな紫の花がいくつも顔を覗かせていた。幹夫の唇に、思わず微笑みが浮かぶ。菫の花だ——森のあちこちで、野生のすみれが可憐に咲き始めている。彼はそっと近づき、膝を折ってその小さな花々を間近に眺めた。
第二章 菫の花影
幹夫は静かにしゃがみ込み、掌をそっと地面についた。目の前には薄紫色の小さな花弁がいくつも開いている。菫の花々は背丈十センチにも満たないが、精いっぱいに春の光を受けて輝いていた。ひんやりとした土の上に広がる葉は丸みを帯び、可愛らしい花を支えている。幹夫は息を詰め、その繊細な美しさに見入った。
花びらはまるで絹でできているかのように柔らかそうで、指先で触れれば壊れてしまいそうだった。彼はそっと指先を伸ばし、一輪の花に触れないよう、その傍らの草を撫でてみた。小さな花は微かに揺れ、陽だまりの中で影を落とす。その影はか細く儚げで、見ているそばから消えてしまいそうだ。幹夫の胸に、きゅっと切ない思いが広がった。
「なんて綺麗なんだろう」と彼は心の中で呟いた。しかし同時に、この美しさが永遠でないことを知っている自分がいた。春の間だけ咲き、やがて花は萎れて土に還ってしまうだろう。あの落ち葉の下には、昨年咲いて散った菫の名残が眠っているのかもしれない。生命はこんなにもはかなく、美しいものほどすぐに失われてしまうように思える。
幹夫は自分の指先を見つめたまま、小さく息を吐いた。17歳という自分の今も、いつか振り返れば一瞬の輝きだったと思う日が来るのだろうか。今年も春が巡ってきて、こうして菫を見ることができた。でも来年の春、自分はどこで何をしているだろう?再来年の春にはもう高校生ではなく、違う世界に踏み出している。時間は静かに流れているのに、自分は焦るような寂しいような不思議な気持ちに揺れていた。
森の静けさに耳を澄ませると、遠くで風が木々を揺らす音がした。幹夫は顔を上げて辺りを見回した。木々の葉擦れが囁き合う声のように聞こえてくる。見上げると、木漏れ日の中を細かな塵が舞っているのが見えた。ふと彼は思った——この小さな菫たちがもし言葉を持っていたなら、自分に何を伝えてくれるだろうか、と。
第三章 森の囁き
「……こんにちは。」幹夫は誰にともなく、小さな声で言ってみた。森の静けさの中、その声は意外にはっきりと耳に届いた。少し照れくさくなりながらも、彼は目の前の菫の花に向かって微笑みかける。「君たちは毎年ここで咲いているの?」心の中の問いを、そっと言葉にしてみる。
「ええ、毎年春になると……」ふいに、誰かの返事が聞こえた。澄んだ小さな声だった。幹夫は驚いて顔を上げたが、周りには誰の姿もない。ただ、柔らかな風が吹き抜け、花々が一斉に揺れているだけだった。今のは風の音だろうか、それとも……彼の胸がどくどくと高鳴る。
「聞こえたのは、君……?」幹夫はおそるおそる、目の前の菫に尋ねた。すると、不思議なことに頭の中にはっきりと言葉が浮かんできた。「ええ、私よ。」それは確かに花からの声だった。幹夫は驚きつつも、なぜだか自然に受け止めている自分に気づく。夢を見ているのかもしれない、と一瞬思ったが、この森の匂いも土の感触も生々しく現実そのものだ。
「君は…菫の精?」幹夫は静かに問いかけた。頭の中に響く声はクスッと笑ったようだった。「精と言えるかは分からないけれど、私たちの声があなたに届いているのね。」透明な声が答える。その響きには不思議な暖かさがあった。「美しい春をありがとう。あなたがそう言ってくれたのが嬉しくて、つい声をかけてしまったの。」幹夫の頬が熱くなる。自分の心の内を見透かされたような気がした。
「こちらこそ……君たちが咲いてくれて、僕は…嬉しい。」幹夫は正直な気持ちを返した。胸の奥がじんと温かくなり、目の奥が少し潤んだ。「でも…君たちはすぐ散ってしまう。それが悲しいんだ。」そう言うと、花の精は静かにさざめくように囁いた。「儚いからこそ、美しいのよ。わたしたちは短い春を精いっぱい生きて、そしてまた土に還る。でもまた来年、新しい命としてここに戻ってくるわ。」
幹夫ははっと息を呑んだ。その言葉は彼の心に真っ直ぐ届いた。「また…会えるの?」思わず問い返すと、花の精は優しく答えた。「ええ、春が巡るかぎり何度でも。だから今はただ、この瞬間を喜んで。」その声は次第に風に溶けるように小さくなっていった。
気がつくと、周囲は先ほどよりもひっそりと静まり返っていた。木々の梢がざわめき、どこからか鳥が羽ばたく音が聞こえる。幹夫は静かに立ち上がった。心なしか森の光景が少しだけ違って見える。先ほどまであれほど鮮やかだった日差しは、傾きかけて柔らかな金色に変わり始めていた。
そのとき、ふと背後から気配を感じた。人の気配——はっとして振り向くと、少し離れた木立の陰に誰かが立っているのが目に入った。幹夫は息を呑んだ。こんな森の奥に、人がいるなんて……。夕方の斜光を浴びて佇むその人物は、灰色の外套のような上着を着て、中折れ帽をかぶっているように見えた。年配の男性だろうか?森の静寂の中、その姿だけがぽつんと現実離れして浮かび上がっている。
「……誰ですか?」幹夫は緊張しながら声を張り上げた。すると、その人物は静かに帽子を取って、幹夫に向かって柔らかく微笑んだようだった。次の瞬間、木々の陰からゆっくりとこちらへ歩み出てくる。それは、どこかで見覚えのある顔だった。幹夫の心臓が高鳴る。「まさか——」彼の喉が渇き、言葉が続かなかった。
第四章 幻の対話
幹夫の目の前に立っていたのは、彼が写真で見知っている人物だった。まさかと思いながらも、幹夫はその名を口にせずにいられなかった。「……宮沢、賢治、さん……ですか?」自分の声が震える。灰色の外套を纏い、帽子を手に持ったその男性は、優しく微笑んでうなずいた。
「はい。こんばんは。」どこか懐かしい響きの声が答える。その瞬間、幹夫の胸に温かな波紋が広がった。あり得ないことだ。しかし、この森では先ほどから不思議なことばかり起こっている。幹夫は夢中で問いかけた。「どうして……ここに?」宮沢賢治は軽く首を傾げ、「あなたが呼んでくれたんですよ」と穏やかに言った。「君がこの森と、菫の声に耳を澄ませていたから、私も来てしまいました。」
幹夫は何と言っていいか分からず、ただ相手の瞳を見つめた。深い優しさと静かな光を宿した目だった。彼は昔の文学者そのままの姿で、しかしそこに立っていることに少しも違和感がない。夕方の光に照らされたその姿は、現実と幻の境目に佇んでいるようだった。
「あなたは……本物の賢治さんなんですか?」幹夫は恐る恐る聞いた。賢治はにこりと笑みを深くした。「さあ、どうでしょうね。私自身にもわからないのです。ただ、こうしてあなたとお話しできるのは確かですよ。」その声は風に溶けるように静かだが、確かな存在感があった。
幹夫は胸の内に渦巻く思いを、思い切ってぶつけてみることにした。「僕は……綺麗なものが消えてしまうのが怖いです。春が終われば菫も散ってしまう。僕だっていずれ大人になって、今日感じたこの気持ちを忘れてしまうんじゃないかって……それが怖いんです。」言葉にしながら、自分の中の本当の不安に気づいていく。声が震え、最後は消え入りそうになった。
賢治は静かに頷き、足元に咲く菫の花を一瞥した。「そうですね……儚いものが消えてしまうのは、確かに寂しいことです。」彼は柔らかな声でゆっくりと語り始めた。「でも、見てごらんなさい。」そう言って、近くの一輪の菫にそっと手を伸ばした。摘み取るのではなく、その花に触れずに周りの草を軽く払うような仕草をする。すると、花の間に小さな芽が顔を出しているのが見えた。「この芽は、来年咲く花の命です。今年咲いた花が落とす種から、新しい命がもう育ち始めている。」
幹夫は地面に目を凝らした。言われてみれば、確かにいくつもの小さな双葉が土の上に点々と芽吹いている。「命は巡っているんです。」賢治は続けた。「花が散っても、その命は終わりではなく、形を変えて続いてゆく。美しさも同じこと。今日あなたが感じた感動は、消えてなくなるのではなく、あなたの心の中で次の何かの種になるでしょう。」
幹夫は黙って耳を傾けた。賢治の言葉は静かな森に染み渡り、一本一本の木々までもが耳を傾けているかのようだった。「大人になることを怖がる必要はありませんよ。」賢治は優しく微笑んだ。「あなたが今日、菫の美しさに心を動かされたという事実は決して失われません。それはあなたの中で生き続け、これからのあなたを支えてくれるでしょう。たとえ忙しい日々に追われても、春がくればきっと思い出すはずです。森の静けさと、菫の香りを。そしてまたここに帰って来ればいい。」
「また…帰ってきてもいいんでしょうか。」幹夫は小さな子供のような声で尋ねた。賢治は軽く笑った。「森はいつでもあなたを歓迎しますよ。あなたがその優しい心を忘れない限り。」そう言って、彼は空を見上げた。幹夫もつられて見上げると、木々の梢の向こう、西の空が茜色から紫紺へと移ろうところだった。その深い空に、ぽつりと一番星が瞬いている。
「綺麗…」幹夫は思わずつぶやいた。賢治は静かに頷いた。「ええ、本当に。星もまた、永遠と瞬間が交差する不思議な光です。遠い昔に放たれた光が、今こうして私たちの目に届いている。それを人は瞬きと感じるけれど、その裏には気の遠くなるような時間が流れているんです。」彼は少年に目を戻した。「時間は不思議なものですね。一瞬一瞬は儚いけれど、その積み重ねが永遠にも繋がっている。」
幹夫は賢治の言葉を噛み締めた。胸のつかえが少しずつほどけていくようだった。「僕…忘れません。今日感じたこと、絶対に忘れません。」力を込めてそう言うと、賢治は満足げに目を細めた。「ええ。それが何より大事なことです。」夕闇が森を包み始め、賢治の姿は少しずつ薄れていくように見えた。
「もう行ってしまうのですか?」幹夫は焦って一歩前に出た。賢治は静かに頷いた。「私は少しあなたに会いに来ただけですから。夕暮れと共に失礼しましょう。」幹夫の瞳に涙が浮かんだ。「ありがとうございました…!」精一杯の声でそう叫ぶと、賢治は帽子を胸に当てて恭しくお辞儀をした。「こちらこそ、素敵な春のひとときをありがとう。どうかお元気で。」そう言う声は次第にか細くなり、夕闇の中に溶けていった。
幹夫が瞬きをした刹那、そこにはもう誰の姿もなかった。ただ、茜色から群青へと移ろう空と、ひっそりと佇む木々、そして足元に咲く菫の花があるだけだった。
第五章 夕映え
森を見下ろす丘の上には、茜色の名残がほのかに空を染めていた。幹夫はゆっくりと歩き出した。さっきまで隣にいたはずの人物の面影を、心の中でそっと確かめる。まるで長い夢から醒めたような不思議な感覚だった。しかし指先に触れる冷たい花びらが、それがただの夢ではないことを物語っている。いつの間にか、一枚の菫の花びらが幹夫の手のひらに落ちていたのだ。
幹夫は立ち止まって、その小さな花びらを大切に掌で包んだ。淡い紫色はもうほとんど闇に溶けかけて見えない。それでも確かなぬくもりを感じる気がした。彼は鞄の中から先ほどの文庫本を取り出した。宮沢賢治の詩集——先ほど読もうとして読まなかった本だ。ぱらりと頁を繰ると、ある詩の一節が目に留まった。「……永遠なれ、瞬きの星よ。」薄明かりの中で文字を追い、幹夫は静かに微笑んだ。その短い一行が、先ほど聞いた言葉と響き合い、胸の奥でそっと溶け合った。
彼はそっと花びらをその頁に挟み、本を閉じた。春の冷たい夜気が、肌にひんやりと降りてくる。遠くでフクロウがホーホーと鳴いた。幹夫は肩に上着をかけ直し、森に向かって一礼した。「ありがとう。」声に出さず、唇だけがそう動いた。
坂道を下り始めると、木々の間からふもとの町の明かりがちらほらと見え始めた。いつもと同じはずの帰り道が、今日は少しだけ違って感じられる。胸の奥に小さな灯火がともったように暖かく、足取りは軽やかだった。幹夫の心には、一つの決意が芽生えていた。この静かな感動を、自分の言葉で書き留めておこう——そう思ったのだ。どんな些細な形でもいい、今日の菫の輝きと賢治との出会いを忘れないために。
見上げれば、夜空には無数の星がまたたき始めていた。空気は澄んで冷たいが、不思議と心は満たされている。幹夫は目を閉じ、深呼吸した。土と草の香り、菫の微かな匂い、それらが混ざり合った春の夜の空気が身体中に染み渡っていく。
「また来るよ。」心の中でそっと呟いて、幹夫は森に背を向けた。闇に沈みゆく森から、しかし確かな気配が彼を見送っている気がした。それは風の音や小さな動物の気配かもしれないし、あるいは菫の花たちの見えない笑顔かもしれなかった。幹夫はもう振り返らなかった。まっすぐに前を向き、自分が今来た道をたどって家へと歩き出した。
夜の静寂の中、遠くで川のせせらぎが微かに聞こえる。星明かりが彼の行く先を淡く照らしていた。幹夫の心には、春の森で交わした対話の響きがいつまでも消えずに残っていた。優しい哀しみも、静かな希望も、すべてが彼の一部となって歩き出している。17歳の少年は、大人への坂道を一歩ずつ登ってゆく。その足元には、来年もまたあの小さな菫が咲くだろう。そして今宵、森に輝いた星たちは、これから迎える未来の夜空でも変わらず彼を見守ってくれるに違いない。





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