ただいまの音
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 7分

「帰る」を書いた紙は、畳の隅で夜を越えた。 紙は薄いのに、そこに文字が残っているだけで、部屋の一角だけ少し重くなる。重くなるのに、嫌じゃない。重さは、ここにある、という証拠だからだ。
朝、祖母が障子を開けると、光がすべりこんできた。 光は昨日の続きを知らない顔をして、畳の目に沿って広がった。幹夫は布団の中で目を開け、光の形を見た。光の形は毎朝少しずつ違う。違うのに、同じように「今日が来た」と言う。
台所のほうから、湯の鳴る音がした。 母が湯を沸かしている。湯呑みに入る湯気の匂いが、家の空気を先に整える。整ってしまうと、言えないことが言えないまま隠れていく。
幹夫は上着を探し、内ポケットの鉛筆を指で確かめた。 竹を足したところが、指にひっかかる。ひっかかるのが嬉しい。嬉しいのに、その嬉しさを声にすると軽くなる気がして、幹夫は黙った。
「今日、外、騒がしいら」
祖母が味噌汁をよそいながら言った。 母は「そう」とだけ返した。返し方が硬い。硬い返し方は、聞きたくないことを聞いた返し方だ。
幹夫は箸を持ち、味噌汁の湯気を見た。 湯気は白い。白いのに、昨日の角砂糖の白とは違う。湯気の白はすぐ消えるから、安心に似ている。消えるから、怖くない。
外の道を、誰かの足が早足で通り過ぎた。 草履の音が、いつもより軽い。軽い音は、いい知らせを運ぶことがある。
「帰ってくるって」
祖母が言った。 母の手が、一瞬だけ止まった。止まったのは、箸じゃない。母の呼吸だ。呼吸が止まるとき、家の中の空気が少しだけ固まる。
「……誰が」
母の声は低かった。低い声は、怒りじゃなく、触れたら崩れるもののそばの声だ。
「向こうの……川端んとこ。旦那が」
祖母は淡々と言った。淡々と言えるのは、泣く人じゃないからだ。泣く人の分まで淡々と言う人が、この町にはいる。
幹夫は「帰ってくる」という言葉を、口の中でそっと転がした。 帰る。 昨日、母が教えてくれた字。 紙の上でじっとしていたのに、今日は音になって、台所の湯気と一緒に漂っている。
母は何も言わなかった。 ただ、上着のポケットのあたりに指を当てた。白い石の場所を確かめるみたいに。確かめる指が、ほんの少しだけ震えた。
幹夫はその震えを見てしまって、目を逸らしたくなった。 逸らしたら、震えがなかったことになる。なかったことにしたら、母の中の何かがひとつ増える気がして、幹夫は逸らせなかった。
朝ごはんを終えるころ、外がざわつき始めた。 声が遠くから近づいてくる。笑い声。呼び声。誰かの名前。名前は、呼ばれると生き物になる。紙の上の名前より、ずっと速く動く。
母が立ち上がった。
「……ちょっと、見てくる」
祖母は「行ってき」とだけ言った。 幹夫は母の背中を見て、胸の中の小さな警報が鳴るのを感じた。鳴ると、体が勝手に母の後ろへついていく。
「ぼくも」
幹夫が言うと、母は一瞬だけ迷った顔をした。迷うのは、危ないからじゃない。痛いものを見せるかどうかで迷う顔だ。
「……離れるなよ」
母はそう言って、幹夫の手を取った。 握り方は強くない。強くないのに、放せない握り方だった。
旧街道のほうへ出ると、人が集まっていた。 集まっている人の肩が、みんな同じ方向を向いている。肩の向きが揃うと、風の流れまで変わる。風が人の間をすり抜ける音が、波みたいに聞こえた。
幹夫は背伸びをした。 背伸びをすると首が痛い。首が痛いのは、大きなものを見上げた証拠だ。
遠くに、ひとりの男が見えた。 帽子をかぶり、荷物を持っている。歩き方が少しぎこちない。ぎこちないのに、止まらない歩き方。止まらない歩き方は、帰り道の歩き方だと幹夫は思った。
誰かが叫んだ。
「おーい!」
叫び声が空に当たって、すぐ落ちてくる。蒲原の空は高いのに、声はちゃんと戻ってくる。戻ってくる声は、届く声だ。
男が立ち止まった。 立ち止まって、周りを見た。見回す目が、まだ「外」の目だった。外の目は、家の目と違う。家の目は、探すより先に受け取る。
そこへ、女の人が駆け寄った。 女の人の手が男の胸に触れ、次に男の腕に触れ、それからようやく抱きついた。抱きつく順番が、確認みたいだった。本当にいるか。ここにいるか。骨があるか。体温があるか。
人が、ふっと息を吐いた。 ひとつの息じゃない。町全体が息を吐いたような音だった。
「ただいま」
男が言った。 声は大きくなかった。 大きくないのに、幹夫の胸の奥まで届いた。届いて、胸の中の小さな警報を一瞬だけ黙らせた。
「ただいま」は、汽笛より近い。 サイレンより優しい。 命令しない。押しつけない。 ただ、帰ってきた、という事実だけを置く。
「おかえり」
女の人が言った。 その言い方は、泣いているのに泣いていない言い方だった。泣くと壊れるから、泣かないで言う。言うだけで壊れそうなものを、声の端でどうにか支える。
幹夫は、そのやり取りを見ながら、急に手が冷たくなった。 手が冷たいのに、額が熱い。熱いのに、汗は出ない。胸の中だけが熱くなって、どこに逃げたらいいのか分からない。
隣で、母の手が少しだけ強くなるのを感じた。 強くなるとき、母は何かを堪えている。堪えているのが怒りなのか、羨ましさなのか、祈りなのか、幹夫には分からない。分からないのに、分からないまま胸が痛い。
母の指が、上着のポケットにまた触れた。 白い石の位置を確かめるように。 確かめるときの指が、さっきより少しだけ震えていた。
幹夫は、自分の内ポケットの鉛筆に触れた。 硬い。 硬さは、支えになる。 支えがあると、見ていられる。見ていられるだけで、逃げないでいられる。
人々は、男に触れ、声をかけ、笑ったり泣いたりした。 幹夫はその中で、何度も「帰ってきた」という言葉を聞いた。 帰ってきた。 帰る。 帰。 昨日、母が教えた黒い形が、今日は肉になって歩いている。
幹夫は、嬉しいと思った。 誰かが帰ってきたことは、嬉しい。町が少し軽くなる。人の肩が少し下がる。湯気が少し甘くなる。 嬉しいのに、その嬉しさの裏で、別の気持ちが動く。動くのが分かるのに、触れたくない。触れたら、母の眉間が固くなる気がするからだ。
母は最後まで、輪の中に入らなかった。 入らないまま、遠くから一度だけ頭を下げた。下げ方が丁寧だった。丁寧に下げることで、自分の中の形を崩さないようにしているみたいだった。
「帰ろ」
母が言った。 今日の「帰ろ」は、少し早かった。 早い「帰ろ」は、まだ見ていられない「帰ろ」だ。
幹夫は頷いて、母の手に自分の手を重ねた。 重ねると、母の手の冷たさが分かった。冷たさは正直だ。正直な冷たさは、嘘より優しい。
家へ戻る道、母は何も言わなかった。 何も言わないまま、歩幅だけが少し速い。速い歩幅は、心が追いつかない歩幅だ。
家の戸を開けると、祖母が台所で湯を沸かしていた。 湯の鳴る音が、さっきの「ただいま」の余韻を薄めていく。薄めていくのに、消えない。消えないものがあると、人は少しだけ苦しくなる。
「帰ってきたか」
祖母が言うと、母は「うん」とだけ答えた。 「うん」の中に、町の喜びと、家の沈黙が一緒に入っている気がした。
その晩、母は縫い物を早めに畳んだ。 針の音が消えると、家は急に広くなる。広くなると、空いた場所に言えないものが座ってしまう。
幹夫は、布団に入る前に、新聞紙の裏を広げた。 竹をつないだ鉛筆を手に取る。 芯の黒は、今日も夜より黒い。夜より黒いのに、怖くない黒。
幹夫は、昨日書いた「帰」を見た。 見て、今日聞いた「ただいま」を思い出した。 思い出すと、胸の奥がまた熱くなる。熱くなるのに、泣きたいわけじゃない。泣いたら、その熱がどこへ行くのか分からなくなるからだ。
幹夫は、紙に「帰」をもう一度書いた。 線をゆっくり。 母の針みたいに、入って、出る。 入って、出る。
次に、「ただ」と書こうとして、止まった。 分からない。 分からないのに、書きたい。 書きたいのに、形がない。
幹夫は鉛筆を置いて、掌を見た。 今日は誰かの「ただいま」が届いた日だった。 届いたからこそ、届かないものの輪郭がはっきりする日だった。
幹夫は、小さく息を吐いて、紙の端に丸をひとつ書いた。 丸は字じゃない。 でも丸は、ここにいる、という形だ。形があると、胸の中の音が少しだけ静かになる。
隣の部屋から、母の寝返りの音がした。 布が擦れる音。 その音は「ただいま」じゃない。 けれど「いる」が分かる音だった。
幹夫は鉛筆を内ポケットに戻し、紙を丁寧に畳んだ。 丁寧に畳めば増えるわけじゃない。 けれど丁寧に畳むと、今日という日の角が、ほんの少し丸くなる気がした。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 その代わりに、届く音がある。 「ただいま」の音。 「いる」の音。 そして――届かないものに、手を伸ばしてしまう幹夫の胸の、小さな警報の音。





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