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ひかりの預かりもの

 六月の蒲原は、昼のあいだに集めた熱を、夕方になるといっせいに吐き出します。駿河湾の上をのぼってきた湿り気のある風が、みかん畑の葉をいちまいずつ撫で、撫でられた葉は、ぬるい水を含んだ布みたいに、しずかに光りました。畦道の土はまだ黒く、踏むとふむ、と柔らかい息を返します。

 幹夫は八つ。下校の列がほどけたあとも、ランドセルの重さが肩に残っていました。重さは本当は革と教科書の重さなのに、胸の奥の空洞と結びついて、今日はいつもよりずん、と深く感じられます。

 教室では、夕方の窓がうす橙に透けていました。板張りの床には、誰かの濡れた靴の跡がまだ、かすかに残っています。先生が、連絡帳の最後にぽつりと言いました。

「裏の用水に、蛍が出たそうですよ。とるときは、いじめないこと。あれは夜の手紙みたいなもんですからね」

 “夜の手紙”という言い方が、幹夫の胸をちょん、と叩きました。父のことを思い出したからでもありますし、俊のことを思い出したからでもありました。手紙は、遠い人に届くもの。遠い人は、帰ってこないわけじゃないのに、すぐそこにもいない。

 こういちが、席を立つとき、袖の先が机に軽く触れて、かさ、と音がしました。幹夫はその音を聞いて、「もう慣れた」と思った自分に気づいて、ほんの少し、胸の底が冷たくなりました。

 ――慣れる、って、なんだろう。

 慣れることが悪いわけじゃないのに、慣れると何かが薄くなる気がする。薄くなるのは俊の影で、薄くなるのは寂しさで、薄くなるのは痛みで。薄くなってほしいのに、薄くなると、なぜだか裏切った気分になる。

 校門を出て、こういちが言いました。

「蛍、見に行ってもいい?」 声は小さいのに、目だけが少し明るい。「……うん」と幹夫は答えました。答えながら、胸の中の釘が、少しだけまっすぐ立つのを感じました。約束の釘。

 二人は畦道をのぼり、みかん畑の端を通って、用水のほうへ降りました。夕暮れの水は、昼の光をいちど飲みこんだあとで、まだ返しきれていない色をしていました。水面は、薄い錫(すず)の板みたいに鈍く、そこへ風が触れるたび、ちりちり、と細い波紋が走ります。

 その用水のそばに、草が密に生えていて、草の根元には、湿った土の匂いと、青い茎の匂いがまざっていました。幹夫は鼻でその匂いを吸い、肺の奥にしまいました。こういう匂いは、笑ったり泣いたりするより先に、心の奥へ入っていきます。

「いるかな」とこういちが言いました。

 幹夫は、少し得意な気持ちになりました。これは蒲原の夜で、幹夫の夜です。蛍の出る場所を知っているのは、ここにいる者の特権みたいに思えました。けれど得意な気持ちがふくらむと、すぐ、その下に別の気持ちが顔を出しました。

 ――俊も、ここを歩いた。 ――俊に教えたかった。

 教えたかった、という思いが、今はこういちと並んで歩く足を、ちくりと刺しました。刺されると、ふくらみかけた得意がしぼんで、代わりに、妙な焦りが出ました。焦りは、心を早足にさせます。

 用水の草むらの影が、いちだん濃くなったころ、最初の光が見えました。

 ぽっ。

 小さな灯が、草の根元でひとつ点いて、すぐ消えました。消えたあとに、消えた場所だけが、目の裏に残りました。

「……見えた?」と幹夫が小声で言うと、こういちは息を止めて、こくりとうなずきました。

 ぽっ。ぽっ。

 次の灯は二つ。二つは同時に点いたわけではなくて、まるで互いの肩をたしかめるように、少しずれて点きました。点くたび、草むらの闇が、ほんのわずか薄くなります。闇は広くて重いのに、小さな灯が点くだけで、闇は「全部ではない」と分かります。

 幹夫は、祖母が縁側に吊るした青いガラスの星のことを思い出しました。からり、と鳴るあれ。あれも灯じゃないのに、夜に居場所を作る。

 幹夫は、ポケットから小さな瓶を出しました。ジャムの瓶を洗って持ってきたのです。蓋には、祖母が釘で開けてくれた小さな穴がいくつもあります。穴があるのは、息のため。息がないと、灯は消える。

「これに入れたら、持って帰れる?」とこういちが言いました。「……少しだけ。すぐ返す」と幹夫は言いました。自分でも、言い方が少し硬いのが分かりました。

 幹夫は、蛍を追いかけるとき、追いかける力を半分にするように気をつけました。追いかけすぎると、灯は驚いて消える。驚かせないようにするのは、捕まえるためじゃなくて、触れないため。触れないで近づく、というのは、子どもには難しい技でした。

 こういちは、草に手を入れるたび、袖をまくって手首を出しました。手首は白く、細い骨がひとつ、ふっと浮いて見えました。幹夫はその手首が、転校してきた日に机の角に触れて震えていたのを思い出しました。今は震えていない。代わりに、慎重さがある。

 ぽっ。

 蛍が、こういちの袖の上にとまりました。灯が、袖の布の上で点きます。灯の下にある布の繊維が、いちどだけ金色になって、それから元の色に戻りました。

「わ……」とこういちが言って、思わず笑いました。

 その笑いにつられて、幹夫も笑いました。笑いは腹の奥から、ふっと軽く出ました。自分でも驚くほど、自然な笑いでした。笑い声は、用水の水音に溶けて、すぐ消えました。

 消えた瞬間、幹夫の胸の底が、ぎゅっと縮みました。

 ――笑った。 ――俊のこと、忘れたみたいに。

 忘れていないのに、忘れたみたいに感じる。 感じることが、罪みたいに思える。

 幹夫は笑いの続きを、喉の奥で止めました。止めた笑いは、胸の中で重くなって、空洞へ落ちました。空洞は、落ちたものを受けとると、ひやりと鳴ります。音のない音。

 こういちは、瓶に蛍を入れようと、そっと袖を瓶の口へ寄せました。蛍は瓶の中へ、ふわりと落ちました。瓶の中で、ぽっ、ぽっ、と灯が点いたり消えたりします。瓶のガラスが、その灯を少しだけ大げさにして、夜の闇に小さな部屋を作りました。

「すごいね……星みたい」とこういちが言いました。

 星、という言葉が出たとき、幹夫は窓辺の青い星と、ブリキ箱の割れた貝の星座を思い出しました。星はきれい。きれいなものは、すぐに持って帰りたくなる。持って帰ると、きれいなままではいられなくなる。

 幹夫は、瓶を見つめました。瓶の中の灯が点くたび、幹夫の胸の中にも、何かが点く気がしました。でもその灯は、安心の灯ではありませんでした。むしろ、見えたくないものを照らす灯でした。

 ――ぼくは、こういちと笑ってしまう。 ――それは、俊を裏切ることだろうか。 ――裏切りたくない。 ――でも、笑いたい。

 笑いたい、という欲のようなものがあるのが恥ずかしくて、恥ずかしさが熱になって、目の奥がじんとしました。

 帰り道、二人は瓶を持って歩きました。瓶の中の灯が、歩くたび揺れます。揺れる灯は、まるで「ここにいるよ」と合図しているみたいでした。合図は、嬉しいときもあります。けれど今日は、合図が胸を締めました。合図は「持っている」ことの証拠だからです。

 家に着くと、祖母は縁側で洗濯物を取りこんでいました。夕方の光はもう薄く、青いガラスの星は、暗さの中で静かに待っています。

「おや、蛍かい」と祖母が言いました。「かわいそうに、狭いところに入れたね」 その言い方が、責めではなく、ただの事実のようで、幹夫の胸にすっと入りました。

 幹夫は、瓶を窓辺に置きました。青い星の隣に、瓶の灯。瓶の中の蛍は、ぽっ、ぽっ、と点いては消え、消えては点きました。そのたび、ガラスの星の中の青も、ほんの少しだけ濃く見えました。

 幹夫は座り、膝の上で手を組みました。指先が、落ち着きなく擦れます。

 ――この灯を、持っていていいのか。 ――俊の灯も、父の灯も、持っていられないのに。 ――持っていられないのに、持ちたい。

 持ちたい、という気持ちは、幼いくせに重たく、重たいくせに形がありません。形がないから、どこにも置けない。置けないから、ずっと握ってしまう。握ると疲れる。疲れると、優しくできない。

 幹夫は瓶を見ました。瓶の中の灯は、点くたび、少しだけ弱く見えました。弱いのは気のせいかもしれません。それでも幹夫の胸には、「弱る」という言葉が浮かんで、浮かんだ言葉が罪悪感の種になりました。

「……返してくる」と幹夫は言いました。

 祖母は驚いた顔をせず、「そうしな」とだけ言いました。言い方が、風が畦道を通るのと同じでした。止めもしないし、押しもしない。通り道をあける。

 外に出ると、夜はもう、ちゃんと夜になっていました。薩埵峠の影は深く、海は黒い硝子の皿みたいで、遠くに漁火がぽつぽつ浮いていました。踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車の窓の灯が、夜の中を通っていきました。灯は通り過ぎるから美しい、と幹夫は思いました。通り過ぎるのに、目の奥には残る。

 用水のほうへ歩いていくと、後ろから足音がついてきました。こういちでした。息が少し上がっていて、袖の先が夜露で湿っています。

「……幹夫、返しに行くの?」「うん」「ぼくも……行く」

 二人は並んで歩きました。並んで歩くと、歩幅の違いが出ます。幹夫は少しだけ歩幅を小さくしました。それが優しさなのか、自分の胸の釘を守るためなのか、よく分かりませんでした。どちらも本当でした。

 用水に着くと、草むらは昼よりも濃い闇を抱えていました。その闇の中で、別の蛍が、ぽっ、と点きました。点いた灯は「瓶の外にも灯がある」と教えました。

 幹夫は瓶を両手で持ちました。蓋に指をかけると、手のひらが少し汗ばんでいるのが分かりました。汗は怖さの水です。怖いのは、放すこと。放すと消える気がする。消えないのに、消える気がする。

「……こういち」と幹夫は言いました。 声は小さく、けれど夜の空気が、声を遠くまで運んでくれそうでした。「今日、ぼく、変だったろ」「……うん」とこういちは言いました。「でも、ぼくも変だった」

 その「ぼくも」が、幹夫の胸を少しだけゆるめました。

「こういちと笑ったら……俊のこと、忘れるみたいで……いやだった」 幹夫は言ってしまいました。言うと胸が痛いのに、言わないともっと痛い言葉。「忘れたくない。忘れたら、裏切るみたいで……でも、笑いたいのも本当で……」

 言葉を言い終える前に、喉の奥が熱くなり、目の奥がじわっとしました。涙はまだ出ません。涙が出る前に、胸がいっぱいになってしまうあの感じが、また来ました。

 こういちは、しばらく黙っていました。草むらの蛍が、ぽっ、ぽっ、と点いては消えます。沈黙は、蛍の点滅に縫われて、穴のない布みたいになりました。

「……ぼくも」とこういちは言いました。「前の川のそばの友だちのこと、忘れたら……いけないって思ってた。忘れたら、その子が、ひとりになるみたいで」

 ひとりになる、という言い方が、幹夫の胸に深く落ちました。俊がひとりになる。父がひとりになる。そう思うと、苦しくなる。苦しくなるのに、実際には、俊も父も、ひとりではないはずなのに。ひとりにしているのは、自分の想像で、その想像が優しさにもなり、鎖にもなる。

 幹夫は瓶の蓋を、そっと回しました。金属がかすかに鳴って、夜の中で小さくひびきました。蓋が外れると、瓶の中の空気が、ふわりと草の匂いと混ざりました。

「返すよ」と幹夫が言いました。「うん」とこういちが言いました。

 幹夫が瓶を傾けると、蛍はすぐには出ませんでした。瓶の口のところで、ぽっ、と一つ点いて、消えて、それから、ふわりと浮きました。浮いた灯は、ひとつ、またひとつ、草むらへ戻っていきました。

 蛍が出ていくたび、幹夫の胸の中の何かが、少しずつ軽くなりました。軽くなるのは寂しさが減るからではありません。寂しさが“握らなくてもよい形”になるからです。

 最後の一匹が出ていくとき、蛍は瓶の口で一度だけ長く点きました。まるで「預かってくれて、ありがとう」と言うみたいに。言葉じゃないのに、合図のしかたがやさしい。

 幹夫は瓶を元に戻し、蓋を閉めました。空になった瓶は、さっきまで灯を入れていたのに、今はただの透明でした。透明なのに、幹夫は不思議と寂しくありませんでした。透明には、返した、という確かな手触りが残っていたからです。

「……忘れるのってさ」と幹夫が言いました。言いながら、自分の言葉が幼いと思いました。でも、幼い言葉しか出ませんでした。「忘れるんじゃなくて……薄くなるのかな」「薄くなるけど……なくならない」とこういちが言いました。 その言い方が、祖母の言い方に似ていて、幹夫は少しだけ笑いそうになりました。笑いそうになって、今度は止めませんでした。小さな笑いが、ふっと出ました。

 笑った瞬間、胸の底がちくりとしました。けれどそのちくりは、さっきより柔らかい針でした。針は痛いけれど、縫いものをするときに必要な針みたいに思えました。心は、針で縫っていくものなのかもしれない、と幹夫はぼんやり考えました。

 帰り道、蛍の灯が背中の方でぽっぽっと点き、みかん畑の葉の上に、小さな星屑が落ちたようでした。踏切が遠くで鳴り、汽車の灯が夜を渡りました。灯はみんな、通り過ぎていく。でも通り過ぎるたび、胸の中に「通った跡」が残ります。

 家に着くと、窓辺の青いガラスの星が、からり、と鳴りました。隣には、ブリキ箱の割れた貝の星座が、月の光で控えめに光っていました。蛍の瓶は空だけれど、空のまま、そこに置くと、何かがちゃんと並んだ気がしました。

 幹夫は布団に入り、胸の上で両手を重ねました。空洞はまだあります。空洞の底は、ときどき冷たい。けれど今夜は、その空洞のふちに、ぽっ、と小さな灯がひとつ点くのを感じました。

 その灯は、俊の灯でも、こういちの灯でも、父の灯でもなくて――幹夫が「返せる」ことを知った灯でした。預かったものは返せる。返しても、胸の中に、光の通った跡は残る。

 幹夫は目を閉じました。外で、蛍がもう一度、ぽっ、と点きました。点いた灯はすぐ消えましたが、消えたあとも、暗闇が少しだけ怖くなくなっていました。

 
 
 

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