もしもし昭和、こちら草薙ゆる行政書士事務所です
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 10分

―黒電話と、ひいおじいちゃんの味噌汁―
2040年、静岡市清水区草薙。
山崎行政書士事務所の入口には、少しだけ色あせた看板が掛かっていた。
「相続・契約書・許認可・クラウド法務 困ったら、まずお茶でも。」
最後の一行だけ、どう見ても行政書士事務所らしくなかった。
ただ、草薙の人たちはそれを気に入っていた。
困った顔で来た人が、帰るころには少し笑っている。怒って来た人が、帰るころには「まあ、まず家族と話してみるか」と言う。そして、ときどき何の相談か本人もわからないまま来た人が、なぜか人生相談をして帰っていく。
そんな、ちょっと不思議な事務所だった。
その日も、事務所の中には平成レトロ感が漂っていた。
受付の棚には、なぜかMDプレーヤー。壁には「平成最後の夏」と書かれた古い観光ポスター。打ち合わせ机の横には、誰が持ってきたのか、ガラケー型の置時計。そして応接スペースでは、山崎先生が湯呑みを片手に言った。
「やっぱり、平成の家電って丸みがあっていいんですよね」
事務員のふみかが、書類を整理しながら冷静に返す。
「先生、それは行政書士事務所の経営方針ですか?」
「いえ、人生哲学です」
「もっと心配です」
そのときだった。
チリリリリリリリリリリリリリリ――。
事務所の奥から、古い電話のベルが鳴った。
今の時代、電話の着信音はほとんどが柔らかい電子音だ。それなのに、その音だけは違った。金属の鈴が、机の中で跳ね回るような、懐かしくて少し怖い音。
ふみかが目を丸くした。
「先生、今の音、何ですか?」
山崎先生は、棚の下から黒い物体を引っぱり出した。
ずっしりと重い、昔ながらの黒電話だった。丸いダイヤル。受話器は分厚く、コードはくるくると巻かれている。
「昨日、近所の高齢のお客様から預かったんです。蔵を整理していたら出てきたそうで」
「なぜ事務所で鳴るんですか」
「そこが、私にもわかりません」
ベルはまだ鳴っている。
チリリリリリリリリリ――。
ふみかは一歩下がった。
「先生、出ない方がいいですよ。令和以降、怪しい電話はだいたい出ないのが正解です」
「でも、ここは行政書士事務所です。電話が鳴ったら出るのが基本です」
「それ、昭和の業務マニュアルでは?」
山崎先生は真面目な顔で受話器を取った。
「はい、山崎行政書士事務所です」
一瞬、ザザッという砂嵐のような音がした。次に聞こえてきたのは、しわがれた、けれど妙に明るい女性の声だった。
『もしもし? もしもし? 聞こえるかねえ?』
山崎先生は眉を上げた。
「はい、聞こえます。どちら様でしょうか」
『ああ、よかった。電話がつながった。こちらは草薙の山崎……いや、山崎じゃないねえ。ええと、うちは望月だけど』
ふみかが小声で言った。
「先生、怪しいです」
山崎先生は受話器を押さえて答えた。
「怪しいですが、声が優しいです」
電話の向こうで、女性は言った。
『哲央さんはいるかね?』
山崎先生の手が止まった。
「……私が山崎哲央ですが」
『あらまあ。ずいぶん声が大人になって』
ふみかが目を細めた。
「先生、親戚ですか?」
山崎先生は首を横に振る。
電話の向こうで、女性が笑った。
『わたしは、あんたのひいばあちゃんだよ』
事務所が静まり返った。
エアコンの音だけが、ふわりと響いた。
ふみかが口を開けたまま固まる。山崎先生は、ゆっくり受話器を持ち直した。
「……申し訳ありません。私のひい祖母は、かなり前に亡くなっています」
『そりゃそうだろうねえ』
電話の向こうの女性は、まるで天気の話でもするように言った。
『そちらは未来なんだろう?』
ふみかが、無言で書類を一枚落とした。
山崎先生は、恐る恐る聞いた。
「そちらは……昭和何年ですか?」
すると、向こうで遠くから男性の声がした。
『おーい、ミツ! 電話代がかかるぞ!』
女性が叫ぶ。
『ちょっと黙っててくださいな! 未来とつながってるんだから!』
それから、受話器の向こうに別の声が入った。太くて、少し照れくさそうな男の声。
『もしもし。こちらは昭和三十八年だ。そちらは、ええと……未来か?』
山崎先生は、思わず背筋を伸ばした。
「はい。こちらは2040年です」
『にせん……?』
向こうで沈黙があった。
『ミツ、電話が壊れてるぞ』
『壊れてないよ。あんたの頭が昭和で止まってるんだよ』
「昭和三十八年……」
ふみかがスマートグラスに向かって検索しようとして、手を止めた。
「先生、検索しても答えは出ません。これは検索以前の問題です」
山崎先生は、受話器に向かって言った。
「ひいおばあちゃん……で、よろしいのでしょうか」
『そうそう。あんた、哲央さんでしょ?』
「はい」
『じゃあ聞くけどね。未来では、うちのぬか床は生きてるかい?』
最初の質問が、それだった。
山崎先生は、思わず目を閉じた。
「申し訳ありません。ぬか床については確認できません」
ふみかが小声で言う。
「相続より難しいですね」
電話の向こうで、ひいおじいちゃんらしき男性が言った。
『未来なら、空飛ぶ自動車くらいあるんだろう?』
「自動車はあまり飛んでいませんが、書類はだいぶ電子化されました」
『書類が飛ぶのか』
「そういう意味ではありません」
『じゃあ、未来も大したことないな』
ふみかが吹き出した。
そこへ、事務所のドアが開いた。
入ってきたのは、近所の和菓子屋の三代目、望月春子だった。昨日、黒電話を持ってきた本人である。
「山崎先生、すみません。昨日の黒電話、やっぱり気になって……」
その瞬間、受話器の向こうの女性が叫んだ。
『春子? 春子なのかい?』
春子は固まった。
「……え?」
山崎先生は受話器を差し出した。
「おそらく、春子さんのご親族です」
「おそらくで済む話ですか?」
春子は震える手で受話器を取った。
「もしもし……」
電話の向こうの女性が、少し泣きそうな声になった。
『春子。あんた、大きくなったねえ』
春子の顔がみるみる崩れた。
「……ひいおばあちゃん?」
『そうだよ。ミツだよ。あんた、ちゃんとごはん食べてるかい?』
春子は、40代半ばのしっかり者だった。店では従業員に指示を出し、町内会では誰よりも声が大きく、法事では親戚全員をまとめる人だった。
その春子が、子どものように泣いた。
「食べてるよ……食べてるけど、最近、朝はプロテインだけで」
『何だい、そのぷろていんってのは。米を食べなさい』
「うん……」
『味噌汁も』
「うん……」
『あと、人に頼るんだよ。春子は昔から、何でも自分で背負う顔をしてる』
春子は何も言えなかった。
山崎先生とふみかは、そっと視線を外した。
しかし、感動だけでは終わらないのが、山崎行政書士事務所である。
向こうでひいおじいちゃんが割り込んだ。
『未来の先生に聞きたいんだが』
山崎先生は受話器を戻された。
「はい、何でしょう」
『土地の境界で隣と揉めそうなんだ。口約束で畑を貸しているんだが、書面にした方がいいか?』
山崎先生の目が、行政書士の顔になった。
「結論から言うと、書面化した方がよいです」
ふみかがすかさずメモを取り始める。
「昭和三十八年向けの契約書助言、前例ありません」
「前例はありませんが、基本は同じです」
山崎先生は落ち着いた声で続けた。
「誰が、どの土地を、いつからいつまで、何の目的で使うのか。賃料の有無。返すときの条件。これを曖昧にしないことが大切です」
電話の向こうで、ひいおじいちゃんが唸った。
『未来でも、人間はそこでもめるのか』
「はい。かなりもめます」
『未来も大したことないな』
「おっしゃる通りです」
ふみかがまた吹き出した。
すると、ひいおばあちゃんが言った。
『じゃあ、未来の先生。ついでに聞くけど、うちの旦那は酒を控えた方がいいかね?』
山崎先生は一瞬迷った。
「それは医師ではないので断定できませんが、一般論として飲み過ぎは避けた方がよいです」
向こうで、ひいおじいちゃんが慌てた。
『おい、未来の法律家まで敵に回すな』
『法律家じゃなくても、みんな言ってるよ』
春子が泣き笑いをした。
「ひいおじいちゃん、本当にそんな感じだったんだ」
ふみかが小声で言った。
「家系の説得材料として、未来の行政書士が使われています」
電話は不思議なほど自然につながっていた。まるで、時間という川の両岸で、家族が世間話をしているようだった。
けれど、黒電話のベルの下に置かれた古いメモ帳に、山崎先生は気づいた。
そこには、薄い鉛筆でこう書かれていた。
「三分だけ」
山崎先生は時計を見た。
もう二分半が過ぎていた。
「春子さん」
山崎先生は静かに言った。
「時間が限られているかもしれません」
春子は受話器を両手で握りしめた。
「ひいおばあちゃん」
『何だい』
「私、お店を閉めようか迷ってた」
受話器の向こうが静かになった。
春子は続けた。
「お客さんも減って、材料費も上がって、昔みたいに草薙の商店街に人も多くなくて。父さんの味を守らなきゃって思ってたけど、しんどくて」
『そうかい』
「でも、閉めたらご先祖様に申し訳ない気がして」
ひいおばあちゃんは、少し笑った。
『春子。店は、墓じゃないよ』
春子は息をのんだ。
『守るっていうのは、形を凍らせることじゃない。あんたが笑って続けられる形に変えることだよ』
『そうだぞ』
ひいおじいちゃんも言った。
『うちは昔、みかんも米もやった。時代で変えた。変えなきゃ食えなかった。でもな、手を抜いたことはない』
ひいおばあちゃんが続けた。
『店を続けるなら、あんたの味にしなさい。閉めるなら、ありがとうと言って閉めなさい。どっちでも、ご先祖は怒らないよ』
春子の目から、涙がぽろぽろ落ちた。
「ありがとう……」
そのとき、電話の向こうで、遠くから汽笛のような音がした。昭和三十八年の草薙の空気が、少しだけ事務所に流れ込んだ気がした。
味噌汁の湯気。土間の湿り気。夏みかんの皮の匂い。ラジオから流れる古い歌。
ひいおばあちゃんが急いで言った。
『哲央さん』
「はい」
『春子を頼むね。あと、未来の事務所さん』
「はい」
『お茶は濃いめに出すんだよ。その方が、人は本音を話すから』
山崎先生は、深くうなずいた。
「心得ました」
最後に、ひいおじいちゃんが言った。
『未来の先生』
「はい」
『昭和三十八年の俺に、未来から一つだけ助言をくれ』
山崎先生は少し考えた。
法律でも、相続でも、土地でもない。もっと大事なこと。
「奥様に、今より少し多めに『ありがとう』と言ってください」
向こうで沈黙があった。
それから、照れたような声。
『……そんなこと、急に言えるか』
ひいおばあちゃんが笑った。
『聞こえてるよ』
『聞こえるように言ったんじゃない』
『じゃあ、今言いなさい』
『ミツ、いつも……その……』
チリリ、と小さな音がした。
『ありが――』
ザザッ。
電話は切れた。
黒電話は、もう鳴らなかった。
事務所には、静かな余韻だけが残った。
春子はしばらく受話器を抱えたまま座っていた。ふみかはそっと湯呑みを置いた。山崎先生は、何も言わずに濃いめのお茶を淹れた。
やがて春子が、涙を拭いて笑った。
「先生」
「はい」
「店、すぐ閉めるのはやめます。でも、昔のまま続けるのもやめます」
「よい判断だと思います」
「草薙どら焼き、2040年版を作ります」
ふみかが聞いた。
「どんな味ですか?」
春子は少し考えて言った。
「味噌汁に合うどら焼き」
山崎先生は真剣な顔で言った。
「それは攻めていますね」
ふみかが首を振る。
「平成レトロを超えて、昭和逆輸入です」
三人は笑った。
その翌週、望月和菓子店の店先に新商品が並んだ。
「ひいばあちゃんの草薙どら焼き ―ありがとうは、熱いうちに―」
中には、ほんの少しだけ味噌の香りをきかせた白あん。最初は町内の人が面白がって買い、次に高校生が動画に上げ、なぜか平成レトロ好きの若者に刺さり、最後には草薙名物になった。
ただし、山崎行政書士事務所では、その後しばらく困ったことが起きた。
黒電話の噂を聞いた人たちが、次々に相談に来たのである。
「亡くなった祖父に聞きたいことがありまして」
「昔の自分に注意したいんですが」
「昭和の父に、株を買うよう伝えられますか」
山崎先生は、そのたびに丁寧に答えた。
「申し訳ありません。当事務所では、時空を超えた通信業務は取り扱っておりません」
ふみかは受付に新しい張り紙を出した。
「相続・契約書・許認可のご相談は承ります。 黒電話による昭和接続は、現在、再現性が確認できません。」
それでも、ときどき夕方になると、黒電話はかすかに鳴った。
チリ……。
チリリ……。
けれど、山崎先生はすぐには出なかった。まずお茶を淹れた。濃いめに。
そして受話器を取る。
「はい、山崎行政書士事務所です」
その向こうには、昭和かもしれない。平成かもしれない。あるいは、誰かの心の中で言いそびれた「ありがとう」かもしれない。
2040年、草薙。
未来の街の片隅で、古い黒電話は今日も黙っている。でも、誰かが本当に困ったときだけ、少し照れくさそうに鳴る。
チリリリリリリリリ。
まるで、時間の向こうから。
「ごはん、ちゃんと食べてるかい?」
と、聞いてくるみたいに。





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