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もしもし昭和、こちら草薙ゆる行政書士事務所です

―黒電話と、ひいおじいちゃんの味噌汁―

2040年、静岡市清水区草薙。

山崎行政書士事務所の入口には、少しだけ色あせた看板が掛かっていた。

「相続・契約書・許認可・クラウド法務 困ったら、まずお茶でも。」

最後の一行だけ、どう見ても行政書士事務所らしくなかった。

ただ、草薙の人たちはそれを気に入っていた。

困った顔で来た人が、帰るころには少し笑っている。怒って来た人が、帰るころには「まあ、まず家族と話してみるか」と言う。そして、ときどき何の相談か本人もわからないまま来た人が、なぜか人生相談をして帰っていく。

そんな、ちょっと不思議な事務所だった。

その日も、事務所の中には平成レトロ感が漂っていた。

受付の棚には、なぜかMDプレーヤー。壁には「平成最後の夏」と書かれた古い観光ポスター。打ち合わせ机の横には、誰が持ってきたのか、ガラケー型の置時計。そして応接スペースでは、山崎先生が湯呑みを片手に言った。

「やっぱり、平成の家電って丸みがあっていいんですよね」

事務員のふみかが、書類を整理しながら冷静に返す。

「先生、それは行政書士事務所の経営方針ですか?」

「いえ、人生哲学です」

「もっと心配です」

そのときだった。

チリリリリリリリリリリリリリリ――。

事務所の奥から、古い電話のベルが鳴った。

今の時代、電話の着信音はほとんどが柔らかい電子音だ。それなのに、その音だけは違った。金属の鈴が、机の中で跳ね回るような、懐かしくて少し怖い音。

ふみかが目を丸くした。

「先生、今の音、何ですか?」

山崎先生は、棚の下から黒い物体を引っぱり出した。

ずっしりと重い、昔ながらの黒電話だった。丸いダイヤル。受話器は分厚く、コードはくるくると巻かれている。

「昨日、近所の高齢のお客様から預かったんです。蔵を整理していたら出てきたそうで」

「なぜ事務所で鳴るんですか」

「そこが、私にもわかりません」

ベルはまだ鳴っている。

チリリリリリリリリリ――。

ふみかは一歩下がった。

「先生、出ない方がいいですよ。令和以降、怪しい電話はだいたい出ないのが正解です」

「でも、ここは行政書士事務所です。電話が鳴ったら出るのが基本です」

「それ、昭和の業務マニュアルでは?」

山崎先生は真面目な顔で受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

一瞬、ザザッという砂嵐のような音がした。次に聞こえてきたのは、しわがれた、けれど妙に明るい女性の声だった。

『もしもし? もしもし? 聞こえるかねえ?』

山崎先生は眉を上げた。

「はい、聞こえます。どちら様でしょうか」

『ああ、よかった。電話がつながった。こちらは草薙の山崎……いや、山崎じゃないねえ。ええと、うちは望月だけど』

ふみかが小声で言った。

「先生、怪しいです」

山崎先生は受話器を押さえて答えた。

「怪しいですが、声が優しいです」

電話の向こうで、女性は言った。

『哲央さんはいるかね?』

山崎先生の手が止まった。

「……私が山崎哲央ですが」

『あらまあ。ずいぶん声が大人になって』

ふみかが目を細めた。

「先生、親戚ですか?」

山崎先生は首を横に振る。

電話の向こうで、女性が笑った。

『わたしは、あんたのひいばあちゃんだよ』

事務所が静まり返った。

エアコンの音だけが、ふわりと響いた。

ふみかが口を開けたまま固まる。山崎先生は、ゆっくり受話器を持ち直した。

「……申し訳ありません。私のひい祖母は、かなり前に亡くなっています」

『そりゃそうだろうねえ』

電話の向こうの女性は、まるで天気の話でもするように言った。

『そちらは未来なんだろう?』

ふみかが、無言で書類を一枚落とした。

山崎先生は、恐る恐る聞いた。

「そちらは……昭和何年ですか?」

すると、向こうで遠くから男性の声がした。

『おーい、ミツ! 電話代がかかるぞ!』

女性が叫ぶ。

『ちょっと黙っててくださいな! 未来とつながってるんだから!』

それから、受話器の向こうに別の声が入った。太くて、少し照れくさそうな男の声。

『もしもし。こちらは昭和三十八年だ。そちらは、ええと……未来か?』

山崎先生は、思わず背筋を伸ばした。

「はい。こちらは2040年です」

『にせん……?』

向こうで沈黙があった。

『ミツ、電話が壊れてるぞ』

『壊れてないよ。あんたの頭が昭和で止まってるんだよ』

「昭和三十八年……」

ふみかがスマートグラスに向かって検索しようとして、手を止めた。

「先生、検索しても答えは出ません。これは検索以前の問題です」

山崎先生は、受話器に向かって言った。

「ひいおばあちゃん……で、よろしいのでしょうか」

『そうそう。あんた、哲央さんでしょ?』

「はい」

『じゃあ聞くけどね。未来では、うちのぬか床は生きてるかい?』

最初の質問が、それだった。

山崎先生は、思わず目を閉じた。

「申し訳ありません。ぬか床については確認できません」

ふみかが小声で言う。

「相続より難しいですね」

電話の向こうで、ひいおじいちゃんらしき男性が言った。

『未来なら、空飛ぶ自動車くらいあるんだろう?』

「自動車はあまり飛んでいませんが、書類はだいぶ電子化されました」

『書類が飛ぶのか』

「そういう意味ではありません」

『じゃあ、未来も大したことないな』

ふみかが吹き出した。

そこへ、事務所のドアが開いた。

入ってきたのは、近所の和菓子屋の三代目、望月春子だった。昨日、黒電話を持ってきた本人である。

「山崎先生、すみません。昨日の黒電話、やっぱり気になって……」

その瞬間、受話器の向こうの女性が叫んだ。

『春子? 春子なのかい?』

春子は固まった。

「……え?」

山崎先生は受話器を差し出した。

「おそらく、春子さんのご親族です」

「おそらくで済む話ですか?」

春子は震える手で受話器を取った。

「もしもし……」

電話の向こうの女性が、少し泣きそうな声になった。

『春子。あんた、大きくなったねえ』

春子の顔がみるみる崩れた。

「……ひいおばあちゃん?」

『そうだよ。ミツだよ。あんた、ちゃんとごはん食べてるかい?』

春子は、40代半ばのしっかり者だった。店では従業員に指示を出し、町内会では誰よりも声が大きく、法事では親戚全員をまとめる人だった。

その春子が、子どものように泣いた。

「食べてるよ……食べてるけど、最近、朝はプロテインだけで」

『何だい、そのぷろていんってのは。米を食べなさい』

「うん……」

『味噌汁も』

「うん……」

『あと、人に頼るんだよ。春子は昔から、何でも自分で背負う顔をしてる』

春子は何も言えなかった。

山崎先生とふみかは、そっと視線を外した。

しかし、感動だけでは終わらないのが、山崎行政書士事務所である。

向こうでひいおじいちゃんが割り込んだ。

『未来の先生に聞きたいんだが』

山崎先生は受話器を戻された。

「はい、何でしょう」

『土地の境界で隣と揉めそうなんだ。口約束で畑を貸しているんだが、書面にした方がいいか?』

山崎先生の目が、行政書士の顔になった。

「結論から言うと、書面化した方がよいです」

ふみかがすかさずメモを取り始める。

「昭和三十八年向けの契約書助言、前例ありません」

「前例はありませんが、基本は同じです」

山崎先生は落ち着いた声で続けた。

「誰が、どの土地を、いつからいつまで、何の目的で使うのか。賃料の有無。返すときの条件。これを曖昧にしないことが大切です」

電話の向こうで、ひいおじいちゃんが唸った。

『未来でも、人間はそこでもめるのか』

「はい。かなりもめます」

『未来も大したことないな』

「おっしゃる通りです」

ふみかがまた吹き出した。

すると、ひいおばあちゃんが言った。

『じゃあ、未来の先生。ついでに聞くけど、うちの旦那は酒を控えた方がいいかね?』

山崎先生は一瞬迷った。

「それは医師ではないので断定できませんが、一般論として飲み過ぎは避けた方がよいです」

向こうで、ひいおじいちゃんが慌てた。

『おい、未来の法律家まで敵に回すな』

『法律家じゃなくても、みんな言ってるよ』

春子が泣き笑いをした。

「ひいおじいちゃん、本当にそんな感じだったんだ」

ふみかが小声で言った。

「家系の説得材料として、未来の行政書士が使われています」

電話は不思議なほど自然につながっていた。まるで、時間という川の両岸で、家族が世間話をしているようだった。

けれど、黒電話のベルの下に置かれた古いメモ帳に、山崎先生は気づいた。

そこには、薄い鉛筆でこう書かれていた。

「三分だけ」

山崎先生は時計を見た。

もう二分半が過ぎていた。

「春子さん」

山崎先生は静かに言った。

「時間が限られているかもしれません」

春子は受話器を両手で握りしめた。

「ひいおばあちゃん」

『何だい』

「私、お店を閉めようか迷ってた」

受話器の向こうが静かになった。

春子は続けた。

「お客さんも減って、材料費も上がって、昔みたいに草薙の商店街に人も多くなくて。父さんの味を守らなきゃって思ってたけど、しんどくて」

『そうかい』

「でも、閉めたらご先祖様に申し訳ない気がして」

ひいおばあちゃんは、少し笑った。

『春子。店は、墓じゃないよ』

春子は息をのんだ。

『守るっていうのは、形を凍らせることじゃない。あんたが笑って続けられる形に変えることだよ』

『そうだぞ』

ひいおじいちゃんも言った。

『うちは昔、みかんも米もやった。時代で変えた。変えなきゃ食えなかった。でもな、手を抜いたことはない』

ひいおばあちゃんが続けた。

『店を続けるなら、あんたの味にしなさい。閉めるなら、ありがとうと言って閉めなさい。どっちでも、ご先祖は怒らないよ』

春子の目から、涙がぽろぽろ落ちた。

「ありがとう……」

そのとき、電話の向こうで、遠くから汽笛のような音がした。昭和三十八年の草薙の空気が、少しだけ事務所に流れ込んだ気がした。

味噌汁の湯気。土間の湿り気。夏みかんの皮の匂い。ラジオから流れる古い歌。

ひいおばあちゃんが急いで言った。

『哲央さん』

「はい」

『春子を頼むね。あと、未来の事務所さん』

「はい」

『お茶は濃いめに出すんだよ。その方が、人は本音を話すから』

山崎先生は、深くうなずいた。

「心得ました」

最後に、ひいおじいちゃんが言った。

『未来の先生』

「はい」

『昭和三十八年の俺に、未来から一つだけ助言をくれ』

山崎先生は少し考えた。

法律でも、相続でも、土地でもない。もっと大事なこと。

「奥様に、今より少し多めに『ありがとう』と言ってください」

向こうで沈黙があった。

それから、照れたような声。

『……そんなこと、急に言えるか』

ひいおばあちゃんが笑った。

『聞こえてるよ』

『聞こえるように言ったんじゃない』

『じゃあ、今言いなさい』

『ミツ、いつも……その……』

チリリ、と小さな音がした。

『ありが――』

ザザッ。

電話は切れた。

黒電話は、もう鳴らなかった。

事務所には、静かな余韻だけが残った。

春子はしばらく受話器を抱えたまま座っていた。ふみかはそっと湯呑みを置いた。山崎先生は、何も言わずに濃いめのお茶を淹れた。

やがて春子が、涙を拭いて笑った。

「先生」

「はい」

「店、すぐ閉めるのはやめます。でも、昔のまま続けるのもやめます」

「よい判断だと思います」

「草薙どら焼き、2040年版を作ります」

ふみかが聞いた。

「どんな味ですか?」

春子は少し考えて言った。

「味噌汁に合うどら焼き」

山崎先生は真剣な顔で言った。

「それは攻めていますね」

ふみかが首を振る。

「平成レトロを超えて、昭和逆輸入です」

三人は笑った。

その翌週、望月和菓子店の店先に新商品が並んだ。

「ひいばあちゃんの草薙どら焼き ―ありがとうは、熱いうちに―」

中には、ほんの少しだけ味噌の香りをきかせた白あん。最初は町内の人が面白がって買い、次に高校生が動画に上げ、なぜか平成レトロ好きの若者に刺さり、最後には草薙名物になった。

ただし、山崎行政書士事務所では、その後しばらく困ったことが起きた。

黒電話の噂を聞いた人たちが、次々に相談に来たのである。

「亡くなった祖父に聞きたいことがありまして」

「昔の自分に注意したいんですが」

「昭和の父に、株を買うよう伝えられますか」

山崎先生は、そのたびに丁寧に答えた。

「申し訳ありません。当事務所では、時空を超えた通信業務は取り扱っておりません」

ふみかは受付に新しい張り紙を出した。

「相続・契約書・許認可のご相談は承ります。 黒電話による昭和接続は、現在、再現性が確認できません。」

それでも、ときどき夕方になると、黒電話はかすかに鳴った。

チリ……。

チリリ……。

けれど、山崎先生はすぐには出なかった。まずお茶を淹れた。濃いめに。

そして受話器を取る。

「はい、山崎行政書士事務所です」

その向こうには、昭和かもしれない。平成かもしれない。あるいは、誰かの心の中で言いそびれた「ありがとう」かもしれない。

2040年、草薙。

未来の街の片隅で、古い黒電話は今日も黙っている。でも、誰かが本当に困ったときだけ、少し照れくさそうに鳴る。

チリリリリリリリリ。

まるで、時間の向こうから。

「ごはん、ちゃんと食べてるかい?」

と、聞いてくるみたいに。

 
 
 

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