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ゆるがぬ礎

 早朝、まだ空が白んだばかりの東京・青南(あおなみ)地区。高層ビルが立ち並ぶ一角に、老舗の小売チェーンを中核とする〈リュウセイグループ〉本社がそびえ立つ。 総務部の一員である松浦沙織(まつうら さおり)は、澄んだ空気を一息に吸い込み、出勤前の雑踏を掻きわけるようにエントランスを目指した。いつもなら、始業ぎりぎりに飛び込む彼女だが、ここ数日ばかりは早めに会社へ来ていた。理由ははっきりしている。急遽改訂された「カスタマーハラスメント(以下カスハラ)対応マニュアル」の普及にむけた準備が山ほどあるからだった。

 リュウセイグループが業績拡大を遂げる中、店舗や通販の窓口に寄せられるクレームは右肩上がりに増えている。中には真摯に取り組むべき改善要望も多いが、“客”という立場を笠に着て不当な要求を続けたり、従業員の人格を否定する暴言を口にするカスハラが顕在化しはじめていた。 その実情を受け、経営陣が方針転換を打ち出したのはごく最近。カスハラへの毅然とした対処を打ち出すことで「従業員を守る」と宣言したのだ。その中核となるのが、松浦たち総務部が音頭をとって策定した対応マニュアルだった。

 灰色のオフィス街を抜け、白い大理石のロビーに足を踏み入れる。エレベーターで総務部フロアに到着すると、すでに数名の社員がバタバタと資料を抱えていた。コールセンターや店舗現場から集めた「カスハラ事例」を管理し、研修資料の取りまとめを行うべく大忙しだ。

 デスクにかけるや否や、松浦は朝イチのメールを開く。件名は「現場店舗からの相談」とある。差出人は、神奈川の郊外にある大型店舗のマネージャーだ。 ――最近、返品ポリシーとまったく関係のない返金要求が増えていて、対応が長時間化する。なかには差別的な言葉を投げてきたり、店員を脅迫する客もいる。若手のアルバイトが萎縮してしまい、退職を検討するケースが出てきた――という緊迫した内容だ。

「もう放ってはおけないわね……」 松浦は、重く息を吐き出す。これまで「お客様は神様です」といった風潮が根強かったせいで、従業員が相談しても曖昧な対応に終わってしまうことも多かった。しかし、新しいマニュアルでは“それを是正する”方針が明確に謳われている。さらに今回、経営トップが前面に立って「従業員の安全と健康を最優先にする」と公表したのだ。これは大きな転換点となるはずだ。

 マニュアルの最初のページには、こう書かれている。 ――「カスハラから従業員を保護し、心理的および身体的安全を確保する。従業員は安心して業務に従事できる権利を有する」 しかも、不当な要求や暴言、暴力はすべて明確にカスハラと定義され、もしそれらの行為があった場合、ただちに上司と法務部にエスカレーションし、必要なら専門機関(警察や弁護士)と連携できる体制を整える――と示されていた。

 その日の午前中、総務部内の小会議室では「カスハラ対応研修」に向けた最終打ち合わせが始まった。出席者は、現場店舗を統括するエリアマネージャー、人事部のメンタルヘルス担当、そして法務部の木村。松浦は資料係として、その様子をノートに取りまとめる。

 法務部の木村が口火を切る。「先週、関東近県の店舗で実際に警察沙汰となりかねない事案があったそうですね。顧客が店員に暴行をふるい、“大声でどなり散らしていた”と。それまでは店長がなんとか宥(なだ)めていたようですが、これも立派な犯罪行為に該当する可能性があります」 エリアマネージャーがうなずく。「そうなんです。今後は絶対に放置しない。法的手段が必要ならとるべきです。なにより、現場のスタッフが怯えていたり、相手の無理難題に付き合わざるを得ないと感じている現状が問題です」

 続いて人事部のメンタルヘルス担当が言う。「カスハラは精神的ストレスの要因になります。うつ症状や退職を検討する社員が出てもおかしくありません。弊社としては、メンタル不調につながる前にケアを届けるための仕組みを整えたいと思います」

 松浦は、そのやり取りを静かに見つめていた。これまではこうした会議でも「お客様側に配慮して、なるべく事を荒立てないでね」という空気が漂っていたが、今は違う。法務も人事も、従業員の側に立ち、場合によっては警察へ通報することも辞さないと言っている。彼女は内心で小さく安堵した。

***

 午後、松浦はあの相談メールを寄せてきた店舗マネージャー・立花に電話を入れた。「もしもし、総務の松浦です。先ほどのご相談の件、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?」「はい、ありがとうございます。実は最近、“返品無制限”だと勘違いされているお客様がいて、何度説明しても同じ主張を繰り返されるんです。さらに“お前らは詐欺師だ”などと侮辱的な言葉も使われて……」

 これまでなら、“お客様に逆らえない”と考え、ひたすら頭を下げてしまうケースが多かった。しかし松浦は、マニュアルに基づいて方針を伝える。「わかりました。まずはしっかり記録をとってください。具体的な発言のメモや録音も残せるなら残す。そして、その行為が“不当”だと判断できるのであれば、毅然と対応し、理不尽な要求には応じられないと伝えてください。暴言がエスカレートするようであれば、その段階で上司や法務部へエスカレーションを。必要があれば警察にも通報できる体制をとります」「やはり、いいんですね……そこまでやって。これまでは、ちょっとでも強く対応したら店の評判が落ちるんじゃないかって気が引けてました」 立花の声に安堵がにじむ。「大丈夫ですよ。社員を守るのも、評判を守るのも会社の責任ですから。新しいマニュアルに書いてあります。それに、私たちがいます」「……ありがとうございます。これでスタッフにもしっかり説明できます」

 この電話を終えたとき、松浦の胸に小さな達成感が広がった。まだ第一歩にすぎないけれど、“会社が従業員を守る”というメッセージを直接伝えることができた。これまでモヤモヤしたまま我慢を強いられてきた現場が、少しずつ変わっていくかもしれない――そう思うと、彼女の中に灯火のような希望がともる。

***

 翌週、リュウセイグループ本社の大会議室にて、カスハラ対応研修が開催された。全国の店舗管理者やコールセンターのリーダー格が集まり、場内は熱気に満ちている。スクリーンには「従業員を守るために――カスハラ対策の新時代」と銘打たれていた。

 壇上に立ったのは、法務部の木村。彼女はゆっくりと口を開く。「まずカスハラの定義から説明します。不当な要求、長時間拘束、暴言や侮辱、そして暴力行為です。これらは決して“サービスの範囲”ではありません。これは刑事法上も違法となり得る行為であり、容赦なく社員を傷つける行為です。許されるものではありません」

 会場の視線が一斉に木村へ注がれる。皆、その言葉に胸を抉られるような思いがあるのだろう。続けて、具体的な手順の説明へ入る。「万が一、これらの行為が認められた場合は、冷静に対応しつつ、エスカレーションを迅速に行ってください。対応できる限度を超えたと判断したら、その場しのぎはしない。そして、確実に記録を残し、必要があれば専門機関と連携をとる。会社として、その場のスタッフに責任を押しつけることはありません。私たちが全力でサポートします」

 木村が言い切ると、大きな拍手は起きなかったものの、その代わりに場内から静かな感嘆の吐息が漏れた。――この企業は、ついに“従業員を守る”と公式の場で明言したのだ。現場の人間にとって、その重みは計り知れない。

 研修の最後、人事部長がマイクを握る。「今回のマニュアル策定によって、私たちは企業の方向性を再定義しました。お客様を大切にすることと、従業員の健康を守ることは両立できます。カスハラのような行為を黙認していては、そのどちらも守れません。社内全体が力を合わせ、従業員が安心して働ける環境を築きあげましょう」

 拍手が起こる。もしかすると、これまでなら日和見的に「お客様優先」へと戻ってしまったかもしれないが、今日の会場にはそうならない確信が漂っている。松浦は隅でメモを取りながら、何度もうなずいていた。自分が携わったマニュアルと研修が、ようやく形として実を結ぼうとしているのだ――そう思うと、胸が熱くなる。

***

 研修終了後、ロビーで立花と再会した。彼女は先日の電話で相談を寄せた店舗マネージャーだ。「総務の松浦さんですよね? 今日の研修、とても助かりました」 少し頬を紅潮させながら、立花はまっすぐ松浦を見つめる。「こちらこそ、現場のお話、もっと聞かせてください。私たちは一歩先行してマニュアルを作っただけ。実際に使うのは皆さんですから」「ええ。正直、今でも“お客様を怒らせるわけにはいかない”って気持ちが完全に消えたわけじゃないんです。でも、それでも理不尽に頭を下げ続けるだけじゃ守れないものがある。店のスタッフだって、一人ひとりが会社の財産ですから」

 力強い言葉。かつて立花は、“お客様の機嫌を損ねないことが最優先”と必死に耐えていたそうだ。しかし、その先に待っていたのは、悩みを抱えて退職していくアルバイトたちの姿だった。「もうあんな思いはしたくないんです。店長として、仲間を守っていきたい」「私もそう思っています。会社が前面に立って、みんなをサポートする――今回のマニュアルはそのためのものです」

 二人はうなずき合った。静かなロビーに差し込む午後の日差しが、彼女たちの背筋をそっと押すように感じられた。

***

 夜、松浦はいつもより遅くに帰路についた。疲れたはずなのに、足取りは軽い。会社の方針が変わる、組織の空気が変わる――その兆しをまざまざと見たからだ。 もちろん、カスハラを完全に消し去ることは難しい。これから先も、不当な要求や暴言に立ち向かわなくてはならないだろう。けれど、会社として“従業員を守る”という決意を示したことは、何よりも強い後ろ盾になる。

 翌朝、いつもより少し早く目覚めた松浦は、カーテンを開けてベランダに出た。新鮮な朝の風が部屋に流れ込む。 ――自分が関わったマニュアルのもとで、仲間や後輩たちが安心して働けるなら、それが何よりも嬉しい。

 通勤路の空は早朝にもかかわらず、淡い光をまとっていた。マニュアルは一見ただの書類かもしれないが、その背後には会社の揺るぎない意思がある。ここからが本当の勝負だ。 松浦は胸いっぱいに朝の空気を吸い込み、まっすぐ姿勢を正した。背筋がしゃんと伸びる。心の奥に、まだ見ぬ明日への確信が微かに芽生えている。 まるで、ゆるがぬ礎が築かれたかのように――彼女は、そう信じていた。

 
 
 

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