オールの音で時間を合わせる――ヴェネツィア・ゴンドラの午後
- 山崎行政書士事務所
- 9月15日
- 読了時間: 6分

サンタ・ルチーア駅を出た瞬間、光が水に跳ね返って目が細くなった。石畳の匂いと、煤けた木の匂い。地図ではまっすぐなのに、角を曲がるたび水の色が変わり、空が近くなる。橋を三つ渡ってようやく大運河に出ると、黒い細身の船が、静かなナイフみたいに水を割って進んでいく。ゴンドラだ。艶のある船体の先端に、金属の櫛のようなフェッロが光る。
本格的に乗る前に、私はひとつ勘違いをした。運河の横に“ゴンドラで横断2€”の札。安い、と思って飛び乗ると、「トラゲット(渡し船)だよ。向こう岸まで、まっすぐ。座らなくてOK、立ってね」と船頭が笑った。片道一分、立ったまま揺れに身を任せて、対岸の市場へ着地。乗客はみんな「グラツィエ」と言いながら散っていく。短すぎる。だが、船底の平らな響きとオールの水音に、体がほんの少し“運河の速度”に慣れた気がした。
夕方、いよいよ本物のゴンドラに乗ることにした。柄の長いオールを握るゴンドリエーレはストライプのシャツに麦わら帽子。名前はマルコ。「どこから?」と訊くので、日本だと答えると「じゃあ、今日は“静かな道”で行こう。ラ・ビオンディーナ・イン・ゴンドレータ(ベネチアの古い歌)を鼻歌でね」と肩をすくめる。鼻歌と言いつつ、彼の口笛は驚くほど音程が良い。ジャケットを守るために座席に赤いブランケットを敷き、私は深く腰を沈めた。
出航してすぐ、私は自分の帽子の紐を締め直した。さっき橋の上で買った安物のパナマ。マルコはちらりと見て、「よくやった、風は友だちだけど、気まぐれだから」と笑う。オールは右側一本、船はわずかに左に傾いている。ゴンドラが左右非対称だという話を思い出し、ほんとうに右へ漕いでもまっすぐ進む。カン、カン、とフォルコラ(木のオール受け)にオールが当たる音が、角を曲がる合図みたいに響く。
細い運河に入ると、上の窓辺から洗濯物が風をはらんで揺れていた。ちょうどバスケットをロープで下ろしているおばあちゃんがいて、下の鮮魚店の青年がパンとトマトを入れて結び直し、合図もなくするすると上がっていく。マルコが「まだやってる家、少なくなったけどね」と言う。私たちはロープに引っかからないよう、船をそっと寝かせる。ほんの十秒、運河の空が一枚、薄くなった。
橋の下をくぐるたび、水面が低く息をする。対向のゴンドラとすれ違うとき、マルコは「オーエ!」「ペルメッソ!」と短く声をかける。相手のゴンドリエーレも同じ調子で返す。ぶつかりそうに見えて、ゆっくりと隙間ができる。すれ違いざま、相手の船の先端のフェッロに私の帽子がかすり、ひやりとする。するとマルコはオールではなく、足もとから木のフックを取り出して軽く持ち上げ、帽子の位置をほんの数センチずらしてくれた。「この街で上手くやるコツはね、少しずらすこと」。彼の言葉の“少し”が、今日の合言葉みたいに胸に残った。
曲がり角でちょっとしたハプニングもあった。前の座席にいたカップルの彼女のスカーフが、風にふわりと運河へ。私は反射的に手を伸ばしたが、距離が足りない。マルコは「任せて」と言ってボートの横をすっと滑らせ、オールの先で水を押して渦を作る。スカーフはくるりと回って近くに寄ってきて、彼はフックで引き上げた。拍手が起き、彼女は「グラツィエ」を何度も繰り返す。マルコは笑って、「風のいたずらは、風に返す」と肩をすくめた。スカーフは少し濡れたけれど、夕陽でじきに乾くだろう。
しばらく進むと、古い木組みの**造船所(スケーロ)**が見えた。黒く塗られた船体が斜めに干され、職人がピッチを刷毛で塗っている。マルコは小さく帽子のつばを上げた。「あそこで船が生まれて、ここで日常が続く」。彼はゴンドラの小さな装飾を指でたたき、「これは祖父の代の職人の仕事」と教えてくれた。船も人も、“修理しながら続いていく”が前提らしい。
運河から小さな広場(カンポ)に抜けると、子どもがボールを蹴って遊んでいた。ボールが一度、水際に転げ、少年が息を呑む。岸に寄せられない位置だったが、マルコがオールの平らな面で静かに水を押すと、ボールは岸へ寄っていく。少年が「グラッツィエ、シーニョレ!」と手を振り、母親が遠くから拍手した。私は笑いながら気づく。彼は何度も人や帽子やボールを“救って”いるが、そのどれもがささやかで、でも確かだ。
夕方、青の時間。大運河に戻ると、船の往来が増え、オールの音がそこかしこで重なる。水面に灯りが伸び、橋のアーチがゆっくり黄金色に染まっていく。マルコはふっと鼻歌をやめ、遠くの鐘の音に合わせてオールを動かし始めた。音のリズムで船がすっと滑る。きっと何百年も前から、同じ音がここで時間を刻んでいるのだ。
桟橋に戻ると、私は思い切って「おすすめのバーカロ(立ち飲み酒場)は?」と尋ねた。マルコは人差し指を斜めに立てて、「ここから二本目の橋を渡って右。小さな店、オムブラ(グラスワイン)が冷えてる。チケッティは“バッカラ・マンテカート”と“サルデ・イン・サオール”を」。半分覚えきれないまま礼を言うと、彼は「迷ったら匂いを探せ」と笑った。
言われた通りの角を曲がると、ほんとうに人だかりの小さな店があった。カウンターの上に揚げ物とパン、白いクリームの鱈、玉ねぎとレーズンの酢漬けの鰯。コップの赤ワインをひとつ頼み、カウンターの端に寄りかかる。隣の老夫婦が「ブオン・アッペティート」と声をかけ、私は「グラツィエ」と返す。おじいさんは「ゴンドラは?」「最高でした」と答えると、彼はニヤリとしてポケットから古い切符を取り出した。二十年前のヴァポレット(水上バス)の回数券。「昔は穴を開けたんだよ」と見せてくれる。記念にと一枚くれた。「修理しながら続ける」話がまたひとつ増える。
店を出ると、風が少し冷たくなっていた。運河沿いを歩いていると、窓辺の猫がこちらをじっと見ている。私が立ち止まると、どこからともなくアコーディオンのゆるいワルツが流れてきた。音に合わせて、昼間マルコが言っていた言葉を心の中で繰り返す。「少しずらす」。急がず、角で一呼吸置く。橋の上で写真を撮る人の後ろを焦らず待つ。道を塞ぐ荷車には笑って「プレーゴ」と言う。街も私も、少しずつ角を落として丸くなる。
ホテルへ戻る前、私は桟橋に立ち寄って、暗くなりかけた水面を覗いた。あの赤いブランケット、フェッロの光、鼻歌、フックの手際。どれも大事件じゃないのに、胸の奥にちゃんと灯りを残している。ポケットには、老夫婦にもらった古い回数券が薄く温かい。
旅の記憶は、景色の豪華さよりも手の動きで残るのかもしれない。オールを押す角度、帽子の紐を結ぶ指、ロープを引くおばあちゃんの手、フックで救う一瞬、ボールを寄せる平らな面。ベネチアは、そういう手つきが行き交う街だった。
夜、窓を開けると、どこか遠くでまたオールがカンと鳴った。私はその一拍に合わせて深呼吸し、ベッドに横になる。明日もきっと、風は気まぐれだ。でも、少しずらして、少し待てば、ちゃんとこっちを向いてくれる。ベネチアの水は、そうやって誰にでも、ゆっくりの乗り方を教えてくれる。





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