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グレイのベストと、雲の地図

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月6日
  • 読了時間: 6分

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朝の事務所に、墨いろの静けさがあった。新しく貼られたりなのポスターが、壁の一角で凛と微笑んでいる。

「クラウドの専門的な技術支援、確かな知識でお手伝いします」

ベストにパンツ。赤縁のメガネ。その前を通りかかったみおが、わざとらしく溜息をついた。「“できる女”ってこういうことだよねえ~。サインください」「まずは議事録にサインして」りなは涼しい顔で、タブレットをトントン。「今日は構成レビューの日。和菓子屋『三日月堂』さんのオンライン進出、クラウド構成から契約、運用手順まで一気に整える」

「春らしく、あたたかくいきましょう」あやのがコーヒーを配り、さくらが花瓶の水を替える。受付のカウンターには、ゆいの“ゆっくりボタン”がぽふっと置かれた。ふみかはスマホで一枚。「“頼れる技術×やさしい言葉”の回、はじまります」

1. 依頼のヒアリング

やってきたのは『三日月堂』の三代目、若旦那の月岡さん。「昔ながらの最中を、ネットでも売りたくて……でも、サーバとか個人情報とか、何から手をつければ」言葉は素朴だが、眉間に力が入っている。

「大丈夫。一緒に“雲の地図”を描きましょう」りながホワイトボードに三つの丸を描く。守るもの(データ)/入る人(アイデンティティ)/通る道(ネットワーク)。「ぜんぶを一度に考えると混乱します。三つに分け、矢印でつなぐ」丸と矢印が整うたび、月岡さんの顔から曇りが消えていった。

「まずは“鍵”をまとめましょう」りながペンを走らせる。「パスワード、APIキー、証明書。鍵は鍵穴に、つまり鍵管理の箱へ。アクセスは最小権限。合言葉は“必要な人が、必要なときに、必要な分だけ”」「合言葉……覚えられそうです」「それから二段階認証。スマホが鳴らないときは“ゆっくりボタン”を押してから時刻と通知設定を確認」りながチラとゆいを見る。ゆいは親指を立てた。

「データの守りは“三色だんごルール”がわかりやすいかもしれません」あやのがやわらかく続ける。「3つのコピーを、2つの違う場所に、1つは遠くへ」「三色だんご……なるほど!」月岡さんが笑った。

2. りな、熱くなる

レビューが進むうち、りなの声に温度が乗ってくる。原因は命名規則の話題だ。

「商品の画像ファイル、matsunaga_anzu_final_final2.jpgは、最後に誰も幸せにならない名前です」りなはホワイトボードの端に、淡々と書き出す。「<カテゴリ>-<商品>-<撮影日>-v<番号>.jpg。日付はYYYYMMDD。桁揃えは正義。ハイフンはダッシュではなくハイフン。アンダースコアは使わない。全角禁止。全角禁止です」最後の二回が、ほんの少し早口だった。

みおがニヤニヤしながら耳打ちする。「ここ、りなの“熱くなるスイッチ”なんだよね~」ゆいがこくこく。「命名で迷子になったファイルを見ると、りなさんの保護本能が発動するんです~」

「……熱が入りました。失礼」りなが咳払いして、いつもの速度に戻る。「でも、名前は検索の地図。将来の自分と同僚への親切です」

3. 事件:油性ペン

一息入れようと、月岡さんが持参した最中を皆で頬張る。再開――の矢先、ゆいがホワイトボードに近づいて「“発送”の漢字、ちょっと太くしますね~」と、油性ペンを取り出した。

「ストップ!」りなの声が、珍しく一段高くなる。「それは油性。ホワイトボードに使うのは水性。油性は、消えません」ゆいの手が空中で固まり、事務所に一瞬の静寂。「……ごめんなさい~~」ぽふ、と自分の“ゆっくりボタン”を押すゆい。

「慌てないで」りなは落ち着きを取り戻し、油性で書かれた“発”の一画に、水性マーカーで上書きしてから布で拭き取った。「原理は**“油性の上に水性を重ね、溶かして一緒に落とす”**。つまり、“間違いの上に正しい手順を重ねて、そっと剥がす”」「わあ、消えた……!」ゆいが目を輝かせる。「すごい、りなさん」「手続きも同じ。誤った設定の上に、正しいルールを重ねる。そして、無理にこすらない。順番が大事」

月岡さんも笑った。「なんだか、最中の皮をはがす話みたいですね」みおがくすり。「“あんこは守って、皮だけ取り替える技”~」

4. 小さなトラブルと“既定の否認”

午後。いよいよ運用手順の仕上げ。りなは付箋を整理しながら言う。「最後に**『既定の否認(デフォルト・デナイ)』**。知らない相手は門前払い、“開けると決めた場所だけ開ける”。これを忘れがちです」

その直後、事務所のWi‑Fiに見慣れない端末が接続を試みたという通知が鳴った。「おや?」りなが管理画面を開く。「近所の方かな。SSIDが見えて、間違って押しただけでしょう」「じゃあ、このボタンを」みおがラベルライターを取り出して、棚のケーブルボックスに貼る。

“既定の否認:ここは開けません”「わかりやすさ大事~」

「“既定の否認”、お菓子箱にも貼っておく?」さくらがいたずらっぽく言う。「“既定の否認:会議後のみ開封可”」りなは珍しく声を立てて笑った。「それは賛成です。クッキーの権限も最小限に」

5. 雲の地図、完成

夕方。構成図は、線が迷わず行き交う一本の地図になっていた。

  • 鍵管理の箱にすべての秘密を集約

  • 最小権限二段階認証

  • 三色だんごルールのバックアップ

  • 既定の否認を基本に、開ける場所は申請→記録

  • 命名規則で未来の自分を助ける

「最後に、“もしも”カードを渡します」りなが名刺サイズのカードを三枚並べる。

  1. もしスマホが鳴らなかったら → “ゆっくりボタン” → 時刻と通知を確認。

  2. もし支払いが通らなかったら → 決済側のメンテ情報を確認 → 代替手段を準備。

  3. もし名前が迷子になったら → 命名規則へ戻る → “未来の自分”宛てにメモ。

「どれも、落ち着けば解ける定型の困りごとです」りなはメガネをクイッ。「不安を手順に変えるのが、私の仕事」

月岡さんは深くうなずいた。「今日来て本当によかった。うちの最中みたいに、中身が崩れない包み方がわかりました」紙袋を差し出す。「お礼に“雲最中”、よかったら」袋には、ふわっとした雲の刻印が押されている。

6. そして少し可笑しく、温かく

帰ったあと、ふみかがポスターの前で最後の写真を撮る。キャプションは、短く。

論理は冷たくない。迷わないための、やさしさだ。

そこでみおがラベルライターをもう一度カチリ。りなのタブレットの裏に、細いテープがぺたり。

“できる女(本体)”「……だれが貼ったの」「匿名で~す」みおが上目遣いで逃げ、ゆいが慌てて追いかける。「ま、待って~。“既定の否認:人の背中には貼らない”です~!」

りなはラベルを指で押さえ、少しだけ笑みを深くした。「貼る場所は、正しい面に。手順は、正しい順番に。――それが守られれば、今日も雲はきれいです」

窓の外に薄い雲が流れる。あやののコーヒーの湯気、さくらの花の匂い、ふみかのシャッター音、ゆいの“ぽふ”、みおの笑い声。そのぜんぶを背に、りなはグレイのベストをととのえた。

明日もまた、雲の地図を描く。誰かの“難しい”を、やさしい手順に変えるために。

 
 
 

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