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シュチェパンカ(Štěpánka)展望塔


夕方のイゼラ山地は、光が先に冷えていく。車を降りた瞬間、頬の表面がきゅっと縮んで、肺の奥に乾いた冬が入り込んだ。吐く息は白く、音もなくほどける。足元の雪は深くない。けれど踏むたびに「ぎゅっ」と硬い鳴き声をあげ、日中の寒さがここまでしっかり残っていることを教えてくる。針葉樹の樹脂の匂いが混ざった冷気は、嗅ぐほどに頭が澄んで、考えごとまで薄まっていくみたいだった。

森の道を抜けていくと、木々の隙間から、ひとつだけ異質な縦の線が立ち上がった。シュチェパンカ(Štěpánka)展望塔。灰色の石の胴体に、赤い帯がきゅっと巻かれ、その上に木の回廊が乗っている。屋根は小さな帽子みたいに尖って、てっぺんが空の青を切っている。冬の森の色は深い緑と黒に寄りがちなのに、夕日が当たる側だけが淡く金色を帯び、塔の輪郭がやわらかく浮かび上がっていた。

塔のふもとには小さな東屋があり、ベンチの周りに人が点々といる。子どもが走って雪を蹴り、誰かが手袋を直し、カメラのストラップを首にかけ直す。声は小さい。寒いと、人は自然に声量を落とすのだと思う。笑い声さえ、丸くなって空気に吸い込まれていく。その静かな賑わいに混ざりながら、私は少しだけ安心した。山の冬は美しいけれど、ふとした瞬間に怖い。広さと静けさが、人の心の奥の声を大きくしてしまうから。でもここには、同じ景色を見に来た誰かの体温がある。

扉を押して中へ入ると、空気が少しだけ変わった。外の冷気は鋭いのに、塔の内部は石の匂いと木の匂いが混ざって湿り気を帯び、時間が溜まっている感じがする。足音が石に反響して、自分の存在がやけに大きく聞こえる。狭い階段を一段ずつ上るたび、壁の隙間の小窓から森が切り取られて見えた。針葉樹の濃い影、薄く雪をかぶった地面、夕日で赤く染まる枝先。断片なのに、それだけで胸が満ちていく。

最上部に出た瞬間、風が顔を撫でた。冷たい、はずなのに、夕日の光が混じっているせいか、どこか温度を感じる。頬の片側だけがじんわり暖かく、もう片側はきりっと冷える。その境目がくっきりしていて、私は「いま、日が沈もうとしている」と身体で分かった。

見下ろすと、森は黒緑の波のように広がり、その縁に霜をまとった落葉樹の帯が淡いピンク色に光っている。枝先が砂糖衣のように白く、夕日を受けた部分だけが、ほのかに桃色へ変わる。雪が少ない場所もある。土の色が透ける場所があるからこそ、白の眩しさが際立つ。雪はただ白いだけじゃなく、光の角度で銀にも青にもなるのだと改めて気づく。

さらに遠くへ目をやると、谷が開けて、畑や草地がパッチワークのように続く。薄く雪をまとった平らな面が、夕日の斜めの光でふわりと明るくなり、そこに集落の屋根が小さな点として散る。人の暮らしはこんなにも小さいのに、ちゃんと見える。道も見える。川なのか、谷のくぼみなのか、地形の柔らかな皺が見える。そして左手の山の稜線に、沈みかけた太陽が触れていた。光は強いのに、刺々しくない。金色が空気を薄く染め、遠景の山々は紫がかった影になって層を作る。冬の夕方の色は、派手さよりも「深さ」で心を揺らす。

私はしばらく、何も考えずに眺めていた。旅に出る前の私は、いつも“見逃したくない”という焦りを抱えている。時間を割り振り、効率を計算し、次の予定を頭の片隅で鳴らしている。けれど、ここではその焦りが急に恥ずかしくなる。景色が大きすぎて、私の予定なんて薄い紙切れみたいだ。それでも、景色は私を叱らない。急げとも、立ち止まれとも言わない。ただ、光が沈み、影が伸び、森が呼吸する。私がどうしていようと、世界は自分の速度で進む。その当たり前が、なぜか救いだった。

隣で誰かが小さく息を呑む音がした。同じ瞬間に、同じ色を見ている人がいる。その事実だけで、胸の奥の孤独が薄くなる。旅先の孤独は寂しさというより、余白だと思う。余白があるから、景色がそのまま入ってくる。余白があるから、自分の気持ちの形が分かってしまう。私はその分かってしまう感じが怖いのに、同時に、ずっと求めていた気もする。

太陽が山の向こうへ沈むと、光は一段階柔らかくなった。森の影が濃くなり、雪の青みが増し、空の上部は透明な青のまま残る。さっきまで金色だった霜の帯は、淡い灰桃色に変わり、やがて静かに消えていく。美しいものが消える瞬間は、なぜかいつも胸が少し痛い。手に入れられないと分かっているからだろうか。だから私は、見えるうちに見ようとして、瞬きを忘れる。

やがて寒さが遅れてやってきた。指先が冷え、耳の奥が痛くなり、身体が「そろそろ降りよう」と現実を促す。私は最後にもう一度、谷の明かりのない広さを胸に刻み、ゆっくり階段を下りた。塔の中の石の匂いが、外の空気へ溶けていく。足音の反響が小さくなり、扉を開けると、森の冷気がすっと戻ってきた。

帰り道、ふもとの東屋にはまだ人がいた。誰かが帽子を深く被り、誰かが子どもの手を引き、誰かが振り返って塔を見上げている。みんな、言葉少なに歩き出す。夕暮れの山では、言葉よりも息が大事になる。私もコートの襟を立て、雪の上に自分の足跡を刻みながら森へ戻った。

振り返ると、シュチェパンカはまだ、夕の光の名残を薄くまとって立っていた。あの塔は、何もしてくれない。ただ、上へ登れば、景色が開ける。それだけの単純さが、今の私にはいちばんありがたかった。

冬のイゼラ山地の夕日が残したのは、感動の叫びではなく、胸の奥に静かに生まれた“余白”だった。私はその余白を抱えたまま、冷たい森の道をゆっくり下っていった。

 
 
 

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