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タワー・ブリッジ、青の持ち上がる午後

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月14日
  • 読了時間: 5分
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ロンドンの朝は、テムズの水面がゆっくり呼吸しているみたいに見える。タワー・ブリッジの薄い水色とアイボリーが、雲の切れ間の陽に当たって少しだけミルクティー色を帯びる。欄干に手を置くと、金属が夜の冷たさをまだ残していて、手のひらに英国らしい目覚ましをくれる。

橋の中央で、黄色いベストの係員が笛を鳴らした。通行止めのバーが下り、いつもは律儀に車を飲み込んでいる橋が、今から一度だけ大きく息を吸うらしい。「船が通るよ」と隣のランナーが教えてくれる。彼は息を整えながら、スマホの画面を見せてくれた。橋の開閉予定が載っている。「ラッキーだね。観光客は閉じ込められたって言うけど、僕らは“持ち上げられた”って言うんだ」

確かに、ゆっくりと両側の橋桁が跳ね上がっていくと、足もとから体までふわりと浮いた気がした。風が巻き込み、バッグの中の紙袋がばさばさ鳴る。……その音に呼ばれたのか、一羽のカモメが急降下してきて、私のクロワッサンを半分もぎ取った。思わず「おい!」と日本語が出る。近くの作業服の女性が声を上げて笑い、「初めてならこれ、カモメ税よ」と、自分のフラップジャックを半分割って手渡してくれた。甘いオーツの香りが、船のディーゼルの匂いとまじって、思いがけず良い朝食になった。

持ち上がった橋の下を、白い観光船がゆっくり進む。乗客が手を振ると、こちら側でも自然に手が上がる。知らない人同士が「良い旅を」と無言で言い合う瞬間。橋がまた静かに閉じるころ、さっきのランナーが「いい一日を」と親指を立てて走り去った。

その勢いのまま、私はタワー・ブリッジの内部見学に向かった。ガラスの床がある“ウォークウェイ”までエレベーターで上がると、オレンジ色の上着を着た小学生の団体と一緒になった。先生が「押さない、走らない、下を見て驚きすぎない」と言うものだから、子どもたちは逆にわくわくが爆発している。私もそっとガラスの端に立ち、足もとを流れる二階建てバスを見送る。頭の中で“ミニカー”が本物になったみたいで、ちょっと世界が可笑しい。

一人の少年が、ポケットから取り出した赤いミニカーをガラスにそっと置いた。先生に気づかれて注意される前に、私は少年に目配せした。「写真だけ、撮って戻ろう」。少年は素早くミニカーの横にしゃがみ、下を走る本物のバスと並べて私のスマホにポーズ。撮った写真を見せると、彼は口元を引き結んで頷いた。先生に見つかった瞬間、「アートです」と肩をすくめると、先生も笑って「じゃあ、作品は作者が回収」とうまく収めてくれた。小さなイタズラと小さな赦し。橋の上に、温度がひとつ増える。

展示を抜けて、エンジンルームへ。油の匂いが薄く残り、緑に塗られた古い機械のボルトが渋い輝きを放っている。スタッフのサムが「ここが好きな人は、たいていコーヒーはブラック派」と笑わせた。理由を聞くと「だって、ミルクを入れるとパイプの色が分からなくなるからね」。冗談半分、職人半分の言葉が気に入って、出口の自販機で私は迷わずブラックを選んだ。サムは私の紙コップを受け取り、ふちに「Enjoy the lift. –Sam」とマジックで書いて返してくれた。liftには“持ち上がること”と“エレベーター”の二つの意味。さっきのランナーの言葉が、ここで二重に合流する。

外に出ると、陽が高くなり、対岸のバトラーズ・ワーフから魚のフライの匂いが流れてきた。屋台でフィッシュ&チップスを買うと、店主の女性が「酢は?」と聞く。うなずくと、彼女は瓶を傾けながら「これがね、カモメを呼ぶのよ」と悪戯っぽく笑う。私はガードレールに背中をつけ、指先に付いた塩を舐めた。そこへ、先ほどフラップジャックをくれた作業服の女性が通りかかる。「さっきのお礼」と言って、強くて短い握手を交わした。彼女は橋のペンキを塗り直す仕事をしているらしい。「この青、時々“空の色に合わせてるの?”って聞かれるの。逆よ。空がこの青を真似してくれるの」と言い残して、肩にブラシの束を担いで歩き去った。なんて粋な言い方だろう。

午後、雲が増えて風が冷たくなってきた。私はタワー・ブリッジのたもとのベンチで、紙コップの紅茶をすすりながら、対岸のガーキンの丸い背中を眺める。隣に腰掛けたのは、どこか港町の匂いがする年配の男性だった。黙っていると、彼がジャケットの内ポケットから小さな金属の輪を取り出した。「祖父さんの道具だよ。ドックでロープを束ねる輪。ここらの水の匂いと、油の匂いが染みついてるだろう?」差し出された輪は意外と軽く、冷たかった。彼は懐かしむように目を細めて言う。「橋が上がるのを見ると、今でも胸がちょっと上がるんだ。体が覚えてるんだろうね」

夕方、再び橋を渡ると、朝に比べて人の歩幅がゆっくりになっていた。会社帰りの人たち、観光を終えた家族、ベビーカーを押す若い父親。やさしい渋滞。欄干のそばで、バイオリンの音が揺れている。「Waterloo Sunset」を少し外しながらも、曲が進むにつれて音が合ってくる。ケースにコインがぱらぱら落ちる音が、バチのリズムに混ざる。私はポケットから1ポンドを出し、ケースに滑らせた。奏者が目で「サンキュー」と言い、最後のフレーズでわざと大きく持ち上げてみせる。橋も音も、一日の最後にもう一度だけ“持ち上がる”。

ホテルへ戻る道すがら、私はサムが書いてくれた紙コップを捨てられず、結局バッグにしまった。底に残った紅茶が少しだけこぼれ、バッグの中が英国の香りになった。いいや、今日はそれでいい。

タワー・ブリッジは、“開く橋”として有名だけれど、実は人の気持ちまで少し持ち上げてくれる場所だった。カモメに半分奪われた朝食、ガラス床でのミニカー撮影、ペンキ職人の青い冗談、祖父の輪っか、外し気味のバイオリン。どれも大事件じゃないのに、胸のどこかがふっと軽くなる。振り返ると、橋の青は夕暮れの雲をほんの少し明るく見せていた。

明日もロンドンのどこかで誰かが「持ち上がる」瞬間に出会うだろう。そのとき私は、紙コップの端に書かれた一言を思い出すはずだ。Enjoy the lift.

 
 
 

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