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トンボは空の座標を縫う

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月23日
  • 読了時間: 6分

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 駿府城公園の蓮池は、昼になると水の表紙が一枚ひらかれて、青い文字がすこしだけ透けて見えます。蓮のつぼみは鉛筆の先をやわらかくしたみたいな形で、風が来るたび、紙の角を折る要領でひと呼吸分だけ傾きます。 幹夫はベンチに座って、いつもの地図帳をひらきました。 一ページ目——風の地図。 二ページ目——森の水の字。 三ページ目——海の拍子。 四ページ目——砂のアルバム。 五ページ目——光の地図(ひまわりの天文台)。 六ページ目——黄昏の綴じ糸。 七ページ目——梅の酸の暦。 八ページ目——潮の手紙の宛名。 そして、まだ空いている九ページ目の上に、鉛筆で題を書きます。〈トンボ——空の座標〉。

 そのとき、つぼみの先に薄い琥珀色の影がとまりました。翅は細い血管の地図で、光を通すと赤い格子になります。昆虫の目は小さな窓をいくつも並べて、池全体を万華鏡みたいに抱え込んでいました。「やあ、幹夫くん」 トンボが、翅の付け根を一度だけカチンと鳴らして言います。「きみ、地図帳の綴じ方がずいぶん上手になったね。今日は座標を足そうか」「座標?」「うん。空を歩くには、目印の交点がいる。ぼくたちはホバリングで交点を縫うけれど、地上の**杭(くい)**は人に打ってもらうのがいちばん確かだ」

 幹夫は方位磁針と短い糸、チョークと割りばしで作った簡単な枠を取り出しました。「どこに杭を立てればいい?」 トンボは複眼の無数の窓をすこし暗くして、池の端を指しました。「まず北東の角の石灯籠。その影が正午に一度だけ細くなる。そこを原点にする。次に、橋のまん中——欄干の剥げた赤が一番濃い場所。そこを東の標。三つめは、この蓮のつぼみ。花びらが開く前にしか使えない季節の標だよ。最後が西の木立のすき間、夕方に風が抜ける拍子の標。四つそろえば、空の碁盤の目がちゃんと立つ」

 幹夫は一つずつ杭を打つように、チョークで石に小さく点をつけ、ノートに同じ点を写しました。池の水面では、薄い金属の粉のような光が揺れて、点のまわりに目に見えない丸い輪を作ります。「座標は、何のためにいるの?」「帰るためだよ」とトンボ。「風は地図、君はその地図を読める。でも空の道はいつもずれている。座標があれば、ずれた分だけ、そっと縫い直せる」

 トンボはつぼみのてっぺんからふわりと浮き、目に見えない糸を一本引っぱるみたいに、同じ場所で静止しました。翅が細かい音でタタタタと鳴ります。「これが交点のだ」「どうして止まっていられるの?」「拍子を分解して足し合わせるのさ。きょうの池は四拍子——タン・タン・タン・タン——だけど、ぼくはその間に薄い三を差し込む。四と三を重ねると、音は消えて、針だけ残る」 幹夫はページの端に〈四+三=静止〉と小さく書きました。

 風が、堀の方から新しい匂いを運んできました。用宗の浜で嗅いだ潮の端切れと、駅前のアスファルトの温度がまざった匂いです。「風の地図がページをめくった」とトンボ。「標の位置が半目ずれる」「じゃあ、どう縫い直す?」「きみの糸を貸して。ぼくが空で『—』、きみが地上で『|』を引く。交わったところが臨時の座標になる」

 幹夫は割りばしの枠に糸を張り、石灯籠から橋へ向けて小さな白い線を引きました。トンボは空で、蓮のつぼみから木立へ向けて目に見えない横線をすっと引きます。「交点、ひとつ」とトンボ。 幹夫はその地点に小石を置き、ノートに丸で書き入れました。丸の横に〈風=東南→〉〈波=二行〉〈影=短〉と耳の注を添えます。

「きみ、複眼のことは知ってる?」「たくさんの窓で景色を見る目、でしょ」「そう。ぼくらの窓は、それぞれ別の時間を映す。だから、未来の半分過去の半分を同時に見られる。座標の縫い目がほどけそうなら、未来の半分が先に揺れる。——今、ほら」 トンボの窓の奥で、橋の上にまだ来ていない人影が、うすく揺れました。数呼吸ののち、ほんとうの人が橋を渡り、欄干の剥げた赤に手を置きます。「未来の半分が来た。標は一度、黙る」 幹夫は〈黙=休符〉と記し、ページの余白に小さな四角を描いてそこへ斜線を一本引きました。

 池のほとりに、子どもが二人、しゃがみこんで何かを覗いています。バケツの水は星の欠片でいっぱいで、その上を蜷(にな)や小さな魚が、五拍子で行ったり来たりしています。「座標は、彼らにも必要?」「もちろん。捕まえないための座標だ。どこまで近づけば安全で、どこから先は水の家だと、目印がいる」「だったら……」 幹夫は杭をもうひとつ増やし、子どもの靴の少し手前に白い点を打ちました。「ここから先は、水の住所」 トンボは満足そうに頷き、翅の縁で光をひとすじ撫でて、その点を薄い金色で封じました。

 昼をすぎると、雲が一枚、城壁の上に掛かりました。池の光は少し青くなり、蓮のつぼみの輪郭がやわらかくほどけていきます。「黄昏の綴じ糸の予告だ」とトンボ。「そろそろ、きょうの座標をまとめよう」「どうやって?」「毎回同じさ。まず、余白を作る。余白は、人や風が言い足りなかったことを受け取る場所。次に、交点を二拍子で数え直す。——タン・タン。最後に、きみの名前の影を原点に一度だけ通す」

 幹夫はノートの九ページ目の下に余白を残し、チョークの点を二拍子でなぞりました。タン・タン。 そして立ち上がり、石灯籠の影の中へ、自分の影の中心をすっと重ねます。 ——カン。 胸の奥で小さな鐘が鳴り、池の表紙に波紋がゆっくり広がりました。蓮のつぼみは、その響きに合わせて、ほんの指の先ほど開きます。

「できたよ」とトンボ。「座標、縫い終わり」 トンボは空で弧を描き、交点から交点へ、糸を結ぶみたいにすばやく巡りました。線は透明で、しかし確かに存在し、池の上に見えない碁盤が一枚、敷かれます。「この格子は、夜の読者に渡しておく。月と、堀の鯉と、遠くの港灯。それから、駅前のひまわりの種の夢にも」

 別れ際、トンボはつぼみに戻って、翅脈の一本を幹夫に見せました。「きみの地図帳にも、この格子を少し移しておこう」 翅の朱い線が、ページの上を細くなぞり、九ページ目の端に小さな方眼が現れます。方眼の交点には、これまで歩いた場所——用宗の浜、広野の帯、安倍川の橋、浅間神社の石段、三保の岬——が、小さな星印で光りました。

 幹夫はページのまとめを書きます。〈座標=帰るための交点。空はトンボが縫い、人は地上の杭を打つ〉〈四と三を重ねて静止。黙は休符。余白を残し、二拍子で数え直す〉〈原点には一度だけ、名前の影〉 書き終えると、風がページをそっと撫で、梅の瓶で覚えた甘い時間の匂いが、遠い台所から薄く流れて来ました。

 夕方、幹夫は池を離れ、安倍川の橋を渡りました。川は三拍子で石を撫で、港のクレーンはゆっくり首を止めます。駅北口の三角地では、ひまわりが西の光を最後まで耳で受け取り、影の針は短くなっていました。 家へ帰って机に地図帳を置くと、窓から駿河の風が入ってきて、九ページ目の方眼を一度だけふくらませます。——風は道しるべ、水は文字、海は拍子、砂は配達、光は時刻、黄昏は綴じ糸、梅は暦、潮は宛名。 そしてトンボは、空の座標を縫う針。 ぼくは、その杭を打ち、糸を受け渡す、空と地上のあいだの測量士だ。

 
 
 

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