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ハンコはナポリタンより赤かった

―草薙・山崎行政書士事務所、未来の昭和事件簿―

 西暦二〇五〇年。

 静岡市清水区草薙の朝は、昔より少しだけ静かになった。

 草薙駅前を走るバスは無人運転で、車内アナウンスは富士山の見え具合まで教えてくれる。商店街の上空には、宅配ドローンがミツバチみたいに低く飛び、電柱には「本日の花粉・黄砂・宇宙線指数」が表示されていた。

 それでも、草薙の坂道を少し上がったところにある「山崎行政書士事務所」だけは、時代の針が昭和五十四年あたりで遠慮がちに昼寝している。

 ガラス戸には金色の文字で、

「許認可・相続・遺言・まちの困りごと 山崎行政書士事務所」

 と書かれている。

 入口には、赤い丸ポストの形をした傘立て。待合には花柄のビニールソファ。壁には、いつから貼ってあるのかわからない「交通安全は心のブレーキ」というポスター。黒電話は現役で、事務所の隅では羽根の欠けた扇風機が、未来に抗議するように首を振っていた。

「先生、また黒電話が鳴ってます」

 若い補助者の望月ひかりが、タブレット端末を片手に言った。

 山崎幸太郎、七十二歳。白髪まじりの角刈りに、丸眼鏡。行政書士歴四十年。電子申請全盛の時代に、いまだに朱肉の状態で朝の吉凶を占う男である。

「黒電話はいいぞ、ひかり君。鳴った瞬間に人情がこぼれる」

「先生のスマート端末、昨日から充電切れですけど」

「それもまた人情だ」

 山崎は受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所でございます」

 電話の向こうから、しわがれた女性の声が飛び出した。

『先生! たいへん! 赤いものが消えたの!』

「赤いもの?」

『商店街の代表印よ! あの大事なハンコ!』

 山崎は、持っていた湯のみを静かに置いた。

 事件である。

 そして事件は、たいていお茶が熱いうちにやってくる。

    *

 電話の主は、喫茶こだまの女将、堀ミツエ、八十六歳。

 草薙で六十年以上続く喫茶こだまは、昭和レトロを売りにしているわけではない。ただ本当に昭和のまま生き残っている店だった。

 赤い合皮の椅子。銀色の灰皿。星占いの小さな機械。壁に貼られた「アイスコーヒーあります」の短冊。ナポリタンは鉄板で出て、玉子が下に敷かれている。

 喫茶こだまを含む一帯は今、「草薙未来環状モール計画」という再開発の波に飲まれかけていた。だが、ミツエたちは店を丸ごと守ろうとしているわけではなかった。

 古い看板、内装、商店街の共同井戸跡、祭りの道具、そして人のつながり。

 そういうものを「地域生活文化資産」として登録し、補助金を受けながら新しい街の中に残す。その申請書類を整えていたのが、山崎行政書士事務所だった。

 提出期限は、今日の午後五時。

 ところが、商店街連合会の代表印と、同意書一式が消えた。

「先生、電子署名じゃだめなんですか?」

 ひかりが尋ねた。

「だめではない。ただ、今回の申請は古い共同体資料の原本確認が必要でね。最後に代表印の押された同意書を添付する。未来の役所も、昔の紙には弱いんだ」

「未来なのに」

「未来だからこそだよ」

 山崎は古い革鞄を持ち上げた。

「ひかり君、出動だ」

「先生、探偵みたいに言ってますけど、行政書士ですからね」

「まちの書類が消えたら、行政書士は半分探偵になる」

「残り半分は?」

「お茶くみだ」

    *

 喫茶こだまに着くと、店内はいつもの倍にぎやかだった。

 たい焼き屋の源さん、駄菓子屋の久美子さん、元印鑑店の島田さん、町内会長の杉山さん。みんな眉間にしわを寄せているのに、テーブルの上にはナポリタンが五皿も並んでいる。

「なんで事件現場にナポリタンがこんなに?」

 ひかりが小声で言う。

 ミツエが鼻息荒く紙を差し出した。

「これが届いたのよ。ファックスで!」

 紙には、子どもっぽい字でこう書かれていた。

『赤いものはあずかった。 夕方までにナポリタンを三さら用意せよ。 あと、ピーマンは少なめに。』

 山崎は眼鏡を押し上げた。

「……犯人は、なかなか味のわかる人物ですな」

「感心してる場合ですか!」

 ひかりが突っ込んだ。

 ファックス。二〇五〇年にファックス。

 それだけで山崎は胸が熱くなった。だが、事件は事件である。

「まず状況を確認しましょう。代表印と書類を最後に見たのは?」

「今朝九時、ここで町内会長が押した。その後、先生の事務所に持っていく予定で、紙袋に入れてカウンターの上へ置いたの」

 ミツエが言った。

「それで?」

「私が裏で玉子を焼いている間に、消えた」

「店内にいた人は?」

「商店街のみんな。それから……」

 ミツエの表情が曇った。

「再開発会社の人」

 その名が出た瞬間、店の空気がケチャップより濃くなった。

 草薙未来環状モール計画を進める会社の担当者、青島涼。三十代半ばの男で、最新式の透明端末を持ち歩く、いかにも未来側の人間だった。

 源さんが腕組みした。

「あいつだよ。店を壊したいんだから、ハンコを隠したに決まってる」

「いやいや、決めつけはよくありません」

 山崎は穏やかに言った。

「行政書士は、書類と人間を疑いながら、最後は人間を信じる仕事です」

「それ、名言っぽいけど先生、先月も領収書なくしましたよね」

 ひかりが言った。

「あれは領収書が私から旅立っただけだ」

    *

 山崎たちは聞き込みを始めた。

 たい焼き屋の源さんは言った。

「俺は見てない。ただ、銀色のやつがカウンターの前を通った」

「銀色のやつ?」

「ほら、宅配ロボだよ。丸っこいやつ」

 駄菓子屋の久美子さんは言った。

「私は見たよ。子どもが店の外にいた。赤いランドセルみたいなリュック背負って」

「子ども?」

「うん。でも今どきの子はランドセルじゃなくて、学習ドローン連携バッグとか言うんだってさ。長いんだよ名前が」

 元印鑑店の島田さんは、ナポリタンをすすりながら言った。

「ハンコはな、逃げるんだよ」

「逃げません」

 ひかりが即答した。

「いや、ハンコには魂がある。押されるべき紙を選ぶんだ」

「先生、この証言採用します?」

「情緒として採用しよう」

 最後に、再開発会社の青島涼が店に現れた。

 背が高く、紺色のスーツ。腕時計は空中に予定表を映している。店内の昭和感とは、まるで冷蔵庫に入れた焼き芋のように噛み合わなかった。

「僕が疑われているんですよね」

 青島は静かに言った。

「商店街を壊す人間だと思われていますから」

 ミツエは目をそらした。

「違うのかい」

「計画では、喫茶こだまの外観と内装の一部を保存できます。むしろ登録申請が通れば、保存の根拠になる。僕は今日、その追加資料を持ってきました」

 青島は鞄から封筒を出した。

「僕の母が、昔この店で働いていました。父と出会ったのもここです。だから、壊したいわけじゃない」

 店内が少し静かになった。

 だが、ミツエは頑固に唇を結んだ。

「だったら、なぜ最初にそう言わないの」

「言いました。説明会で三回」

「未来語で言われたって、わかんないよ。『レガシー空間のリデザイン』だの『情緒資本の再配置』だの」

 源さんがうなずく。

「あれは呪文だったな」

 青島は気まずそうに咳払いした。

「すみません。会社の言葉でした」

 山崎は、二人の間に割って入った。

「言葉の書類も、心の書類も、翻訳が必要ですな」

「先生、今ちょっといいこと言いましたね」

「今のはメモしてくれ」

「自分でしてください」

    *

 時間は午後三時を過ぎた。

 提出期限まで二時間。

 ひかりはタブレットで店内の防犯ログを確認した。しかし喫茶こだまの防犯カメラは、ミツエが「顔がはっきり映ると恥ずかしい」と言って、昭和の角度に固定していた。映っているのは、客の頭頂部と、ナポリタンの湯気だけだった。

 山崎はファックスの紙をじっと見つめた。

「ひかり君、この紙、裏を見なさい」

 裏には、学校のプリントが印刷されていた。

『草薙小学校 未来道徳 テーマ:古いものは、なぜ大切なのか』

 ひかりが目を丸くした。

「子どもですね」

「しかも、ピーマンが苦手」

「かなり絞れますね」

 そのとき、店の奥から小さなくしゃみが聞こえた。

「へっくしょい」

 全員が振り向いた。

 カウンター下の古い足踏みミシンの陰から、男の子が顔を出した。赤いリュックを背負っている。手には、赤い布袋。

 青島が声を上げた。

「蓮!」

 男の子は、青島の息子だった。

「お父さん……」

 ミツエも驚いた。

「その子、あんたの?」

「はい。息子の蓮です」

 蓮は唇を尖らせた。

「だって、おばあちゃんのお店、なくなるって聞いたから」

「おばあちゃん?」

 山崎が尋ねると、青島は苦笑した。

「ミツエさんは、僕の母の恩人です。血はつながっていませんが、蓮は小さいころから“草薙のおばあちゃん”と呼んでいて」

 蓮は赤い布袋を胸に抱えた。

「ハンコがなければ、みんな話し合うと思った。大人は、書類がないと集まるんでしょ?」

 店内の大人たちは、誰もすぐには怒れなかった。

 あまりにも図星だったからである。

「でも、なんでナポリタン三皿?」

 ひかりが聞いた。

 蓮は小さな声で言った。

「お父さんと、おばあちゃんと、ぼくで食べたかったから」

 ミツエの目元が、ふっと柔らかくなった。

 青島は息子の前にしゃがんだ。

「蓮、ハンコは大切なものだ。勝手に持っていったらいけない」

「ごめんなさい」

「でも、話し合ってほしかったんだな」

 蓮はうなずいた。

 ミツエがぽつりと言った。

「私も、あんたのお父さんの話、ちゃんと聞いてなかったかもしれないね」

 山崎はにこりと笑った。

「では、三皿のナポリタンは、必要経費ですな」

「先生、経費にはなりません」

 ひかりが即座に言った。

    *

 だが、ほっとしたのも束の間だった。

 赤い布袋の中には、代表印だけが入っていた。

 同意書一式がない。

「えっ」

 蓮は青ざめた。

「書類も一緒に入ってたはず……」

 午後四時十五分。

 残り四十五分。

 店内の空気が再び固まった。

 山崎は静かに目を閉じた。

「赤いものは戻った。しかし白いものが消えた」

「先生、詩みたいに言ってる場合じゃないです」

 ひかりが端末を操作する。

「同意書の控えは事務所にあります。でも原本確認用の署名欄と印影が必要です。再作成して全員に押印してもらうには、時間が足りません」

 山崎は店内を見回した。

 ナポリタンの皿。湯気。銀色の宅配ロボ。古いカウンター。足踏みミシン。丸い灰皿。赤いリュック。

 そして、窓際に置かれた自動清掃ロボ。

 昭和の店に、妙に不似合いな白く丸い機械だった。

「ひかり君、あの掃除機のログを見られるかね」

「店内清掃ロボですか?」

 ミツエが言った。

「それ、孫がくれたのよ。名前は“おそうじ太郎二世”。よくサボるけど」

 ひかりが端末で接続した。

「ログに記録があります。午前九時四十二分、“紙状異物を検知。食品汚れあり。衛生保管モードへ移行”」

「食品汚れ?」

 山崎はナポリタンの皿を見た。

「ケチャップだ」

 蓮が思い出したように言った。

「ぼく、袋を持ったとき、書類を一枚落としたかも。ナポリタンのお皿の横に」

 ミツエが叫んだ。

「おそうじ太郎二世!」

 清掃ロボは、悪びれもなく「ピロリン」と鳴った。

 ひかりが本体の収納ボックスを開ける。

 中には、折りたたまれた同意書一式が入っていた。端に赤いケチャップの丸い跡があるが、署名も印影も無事だった。

 山崎は胸をなでおろした。

「ケチャップは、時に証拠を隠し、時に証拠を守る」

「今日の先生、名言が多いですね」

「ナポリタン効果だ」

    *

 午後四時三十七分。

 山崎行政書士事務所では、最後の作業が始まった。

 ひかりが同意書を高精細スキャンし、電子申請データに添付する。山崎は代表印の印影を確認し、添付理由書を手書きで仕上げた。

 理由書の最後には、こう書いた。

『本件文化資産は、単なる古建築または内装物ではなく、地域住民の交流、記憶、生活文化を継承する拠点である。再開発との対立を目的とせず、新旧が共存するまちづくりの基礎資料として提出する。』

 ひかりがそれを読んで、少しだけ笑った。

「先生、真面目な文章も書けるんですね」

「私は行政書士だよ」

「さっきまでハンコ探偵でしたけど」

「兼業はしていない」

 青島は、会社側の追加資料に署名した。

「喫茶こだまの看板、カウンター、椅子、星占い機、ナポリタンの鉄板提供を、新施設内で継承する計画案を出します」

 ミツエが腕を組んだ。

「星占い機も?」

「はい」

「じゃあ、あの壊れてる扇風機も」

「安全基準を満たせば」

「満たさない場合は?」

「展示で」

「なら許す」

 蓮は三皿目のナポリタンを食べながら言った。

「お父さん、未来の言葉、もっと短くして」

 青島はうなずいた。

「わかった。これからは、“残せるものは残す”って言う」

 ミツエが鼻を鳴らした。

「最初からそう言いな」

 午後四時五十八分。

 申請データが送信された。

 午後四時五十九分。

 画面に表示が出た。

『受付完了』

 事務所に拍手が起きた。

 その瞬間、黒電話が鳴った。

 山崎が受話器を取る。

「はい、山崎行政書士事務所でございます」

 相手は静岡市の担当者だった。

『申請、受け付けました。添付理由書、拝見しました。いい文章ですね』

 山崎は照れたように背筋を伸ばした。

「ありがとうございます」

『ただ、ケチャップの跡もスキャンされています』

「それも地域生活文化の一部です」

 電話の向こうで、担当者が笑った。

『なるほど。では、資料として残しておきます』

    *

 夕方の草薙に、少しだけ涼しい風が吹いた。

 喫茶こだまの前では、商店街の人たちが集まり、なぜか事件解決祝いのナポリタン会が始まっていた。

 源さんはたい焼きを配り、久美子さんは駄菓子を広げ、島田さんは久しぶりに朱肉の手入れ講座を始めた。

 蓮はミツエの隣に座り、ピーマンを一つだけ食べた。

「えらい」

 ミツエが言うと、蓮は少し得意げに笑った。

 青島は、店の古い看板を見上げた。

「この看板、残します」

「当たり前だよ」

 ミツエは言った。

「でもね、あんたの新しい街も、ちょっとだけ楽しみにしてやる」

 青島の目が少し潤んだ。

「ありがとうございます」

 山崎はその光景を眺めながら、お茶をすすった。

 ひかりが隣で言う。

「先生、今日は結局、誰が犯人なんでしょう」

 山崎は考えた。

「犯人は、たぶん“言葉足らず”だな」

「人じゃないんですか」

「人と人の間にできる、ちょっとした隙間だ。そこに不安が入り込む。今日は蓮君が、その隙間にハンコを置いてしまった」

「でも、ナポリタンで埋まりましたね」

「うむ。ナポリタンは偉大だ」

 ひかりは笑った。

「先生、明日から事務所の看板に書きましょうか。“許認可・相続・遺言・ナポリタン相談”って」

「悪くない」

「冗談です」

「いや、まちの困りごとは、だいたいお茶かナポリタンでほどける」

 山崎は赤い代表印を布で包み、丁寧にミツエへ返した。

「ハンコというのはね、未来を止めるために押すものではありません。未来に、手触りを残すために押すものです」

 ミツエはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

「先生、今日いちばんいいこと言ったね」

「メモしておきます」

 ひかりが端末を掲げた。

「録音してます」

「いや、そこは手書きで」

 黒電話がまた鳴った。

 山崎が受話器を取る。

「はい、山崎行政書士事務所でございます」

 今度は近所の八百屋からだった。

『先生、うちの配達ドローンが、カボチャと一緒に隣町へ飛んでっちゃってさ』

 山崎は静かにうなずいた。

「ひかり君」

「はい」

「次の事件だ」

「先生、だから行政書士ですって」

 草薙の空を、夕焼け色の宅配ドローンが一機、ふらふらと飛んでいった。

 その下で、昭和みたいな喫茶店の看板が、未来の風にカランと鳴った。

 山崎行政書士事務所の一日は、今日も人情と朱肉と少しのケチャップで、無事に暮れていくのだった。

 
 
 

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