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ブルーグレーの盾

 朝、鏡に映る自分の顔色が少しよくない。そう感じるのは、このところ続く悪夢のせいかもしれない。私は通信販売会社〈ジョイテック〉でカスタマーサポートを担当する24歳。日々、顧客からのクレーム対応に追われている。

 少し前までは、「お客様の不満を解消してこそ、真のサービスだ」なんて言われ、毎日背筋を伸ばして電話を取っていた。夜遅くにメールボックスを開いては、返金要求や人格否定の言葉が並ぶ苦情メールに心が沈む。それでも、私たちは「お客様は神様」という古い慣習にどこか縛られていた。

 ――そんな風景が突然変わったのは、「カスタマーハラスメント対応マニュアル」が会社から配布された春の日。表紙には、やわらかいブルーグレーの背景と、金色の文字が施されていた。

 そのマニュアルには、こう書かれている。 「従業員が安心して働ける環境を守るために、理不尽な要求や暴言を認めない」 「不当な要求は毅然と拒否し、必要があれば専門機関(警察・弁護士)に連絡する」 「記録を取り、上司へ報告することで、被害を一人で抱え込まない」

 研修室でその文章を見たとき、私の胸には不思議な温かさが生まれた。まるで、長いこと冷え切っていた体を誰かがぽんと抱きしめてくれたような感覚だった。

    ***

 マニュアルが導入されて1か月。最初のころは、「本当にそんなに強気になっていいの?」「お客様が離れてしまうんじゃ?」と、皆が戸惑っていた。私もその一人。会社が言う“毅然とした対応”が、実際にうまくいくのか半信半疑だったのだ。

 だけど、本当に追い詰められたとき、「会社が守ってくれる」という安心感は驚くほど大きかった。

 ある午後、私が受けた電話はとても厳しいものだった。想定外の使い方で商品を破損した客が「返品しろ、返金しろ」と怒鳴り、取り付く島もない。正直、ただ謝っても解決しないとわかっているのに、声を荒らげる相手に言葉を失いそうになった。すると、ふとマニュアルの文言が頭をよぎる。

 ――「不当な要求に応じる義務はない。毅然と伝え、それでもなお暴言が続くときは対応を中断して上司にエスカレーションする」

 そうだ、私はもう何も一人で抱える必要はないんだ――。電話を握る手が、僅かに震えながらも落ち着きを取り戻すのを感じた。

「恐れ入りますが、そちらのご要望は弊社の規定を超えております。追加の無償対応はできかねます」 この言葉を口にするのは、これまでの私ならひどく怖かった。でも意外なほど、すっと出てきた。それでも相手の怒号はやまない。私は自然と通話を記録するアプリを起動し、きっぱりと続ける。「大変申し訳ありませんが、このまま不当に罵声を浴びせられるようでしたら、対応を終了させていただきます。改めて、上席を通じてしかるべき手続きについてご案内いたします」

 電話口の相手はしばらく何やら罵声を続けていたが、最終的にはガチャン、と一方的に切れた。受話器を置いてしばらく、耳鳴りのような感覚が残る。でも恐怖よりも、「伝えるべきことをちゃんと伝えられた」という安堵が大きかった。

 すぐに上司へ報告すると、「よくやったね。念のため内容を詳しく記録して。万が一また連絡が来たら、今度は法務部を通して対応しよう」と言われた。その言葉に私は、今まで感じたことのない心強さを覚えた。

    ***

 そうした小さな勝利が積み重なり、社内の空気は変わっていった。これまでなら、「お客様だから逆らえない」とうつむくだけだったスタッフが、少しずつ声を上げるようになった。

 同僚の山本さんは、長時間クレームに悩まされていて、ずっと胃薬を手放せなかったという。マニュアル導入後、最初の研修で「そんなの我慢する必要ないよ」と言われて、涙を浮かべていた。今では、「おかげで睡眠薬を飲まなくても眠れるようになったんだ」と、ほっとした顔を見せる。

「だって、聞きたくない暴言を無理やり浴びせられて、それでも謝るしかないって、おかしかったんだよね。やっと気づけた感じがするよ」

 彼女はそう言って、新しいシフト表を確認しながら微笑む。私はその微笑みを見て、ずっと張り詰めていたものがほぐれるのを感じた。

    ***

 実際、理不尽な客がゼロになるわけではない。それどころか、導入初期には「こんな態度をとるなら、もう利用しない」と捨て台詞を吐く客もいたと聞く。でも会社側は、「不当な要求を受け入れてまで取引したくはない。従業員の安全と健康を最優先する」と声明を出している。これは、売り上げ優先だった旧来の価値観を大きく転換する出来事だ。

 その一方で、真摯に意見をくれる客には丁寧な対応をし、建設的なクレームなら社内で真剣に検討する仕組みも同時に強化された。いわば、“理の通った苦情”は積極的に改善に生かしていく、という姿勢だ。それが社内でも理解されはじめ、むしろ「会社のサービス品質を上げるチャンス」と捉える動きが出てきた。

    ***

 先日、ふと会社のロゴが入ったブルーグレーのマニュアル表紙を眺めていたら、なんだか自分の気持ちが写し絵のように感じられた。灰色に近い青――どちらかといえば地味で落ち着いた色合いだが、その中には確固たる静かな決意がこもっているような気がする。

 “カスハラは許さない。従業員を守る。” ――それは言葉にすれば当たり前の主張だが、多くの人が長らく口にできなかった“当たり前”だ。

 私はこの色が好きになった。まるで“盾”のように私たちを守ってくれるイメージがあるから。

    ***

 週末、久しぶりにゆっくり眠ったせいか、起きると外はすでに朝日が眩しい。休日の陽光がベランダの小さな鉢植えにあたっている。その明るさを見て、かつては「明日も仕事だ……クレーム対応、どうしよう」と憂鬱になった自分を思い出す。けれど今は違う。正直、クレームが怖くなくなったわけではない。それでも、一人じゃないと実感できるだけで、こんなにも前向きになれる。

 支度を整え、玄関を出るとき、ふとあのブルーグレーのマニュアルが頭に浮かぶ。そして、会社に向かう私の足取りは以前より少しだけ軽い。ドアを閉め、エレベーターに乗り込むまでの数秒間、わずかながら自分の肩から力が抜けていることに気づく。

 ――守られるって、こういうことだったんだな。

 電車に揺られながら窓の外を見つめると、景色は忙しなく流れていく。けれど、心のどこかがしんと落ち着いている。ブルーグレーの盾がある。そう思うと、私は今日も笑顔で電話の受話器を取れる気がした。

 
 
 

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