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ベルトポールの先にある小さな飛行場――空港の長い列で起きたこと

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月15日
  • 読了時間: 4分
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出発ロビーに入った途端、床を転がるキャスターの音がコロコロと重なり合い、コーヒーと消毒液の匂いが混ざった。出発案内板はひらひらと数字をめくり、チェックインの島には黒いベルトポールが迷路みたいに伸びている。私はスーツケースの持ち手を握り、列の最後尾に合流した。前の男の子はリュックの尻尾を揺らし、後ろのカップルは同じ色のパスポートカバー。空港という場所は、違う目的の人が同じ速度で進む珍しい場所だといつも思う。

最初の“やらかし”は、三回目の折返しで起きた。スーツケースのジッパーの引き手がもげたのだ。指でつまめない。焦って爪でこじっていると、背後の青年が「Need a zip tie?」と声をかけて、結束バンドをひとつ差し出した。さらに「八の字で」にわか工作までしてくれる。輪にしたバンドが立派な引き手になって、ジップは嘘みたいにスムーズ。私は親指を立て、「Thanks」。彼は「No worries」と笑って、また自分の列へ戻っていった。行列にも、工具箱みたいな人がひとりはいる。

しばらく進むと、係員が荷物の簡易計量を促している。「預け入れは23kgまででーす」。私のスーツケースは23.8kg。わずかに赤い数字。心臓が小さく跳ねる。前のご婦人が「ここへどうぞ」と薄いエコバッグを差し出し、「重いものだけ移せば?」と囁く。私はガイドブックとお土産の瓶詰を移し替える。係員が「もう一度どうぞ」。計りの数字が22.9に落ちて、周囲から小さな拍手。ご婦人は「次はあなたが誰かに貸して」と笑って、そのエコバッグを置いていった。

列の真ん中でベビーカーが止まり、乳児が眉間にしわを寄せてぐずり始める。母親が慌ててミルクの温度を確かめていると、前の青年がペットボトルの冷たい水をボトルの外側にかけて即席クーラーを作る。私はバッグから小さなガーゼを出して渡した。数分後、赤い頬が落ち着き、ベビーカーの車輪がまたコロコロと音を立てる。列はゆっくり進むけれど、こういう手当ては不思議と速い。

折返しの角で、係員が透明のジップロックを配っていた。「Liquids 100ml まで」。私のポーチからリップクリームが出てきて、危うく置き忘れるところを、後ろのカップルが「落ちましたよ」と指さしてくれる。ついでに彼女が予備の袋を一枚くれた。「余ってたから」。空港では、たいてい誰かの余白が誰かの救いになる。

やっと自分の番。カウンターの係員が「Where are you heading today?」と明るい声を出す。行き先を告げると、彼女はタグをカシャと印刷し、ベルトの取っ手にくるりと巻きつける。最後に**“FRAGILE”の赤いステッカーを一枚。「気持ちが心配性そうだったから」と言って、目だけでウインクした。私は笑ってうなずき、受託手荷物はベルトの上でどんぶらこ**と運ばれていく。

搭乗券はスマホ。ところが、いざ提示しようとすると電池が2%。画面が暗くなる予感がする。横の女性が「You can use mine」とポータブル充電器をさっと差し出してくれた。ケーブルをつないだ数十秒のあいだ、私たちは無言で画面のバッテリーアイコンを見守る。3%、4%、5%――受付のバーコードリーダーがピッと鳴り、搭乗券が登録された。私は深く頭を下げ、彼女は「Safe travels」とだけ言って、ストラップを肩に掛け直した。

保安検査を抜けると、世界の速度が少し変わる。ゲート前の椅子に座ると、隣の老夫婦がビスケットの袋を開けた。奥さまが一枚を半分に割り、私の方へ差し出す。私はポケットからのど飴を同じく半分にして返す。「Half for luck」。二人は楽しそうに頷いた。やがてアナウンスが流れ、列はグループ順に整列していく。さっきまで一緒に進んだ人たちが、今度はそれぞれの飛行機へ散っていく。

機内に入る直前、係員がベビーカーを折りたたむのを手伝い、青年はまたペットボトルでミルクを冷やす。結束バンドの引き手はまだ元気だし、エコバッグは肩にぴったり馴染む。私はバッグの中の予備のジップロックを確認して、スマホのバッテリーが少しずつ増えるのを見届けた。

離陸の少し前、私は思った。旅の記憶は、目的地の壮大さよりも列の中で直し合った細部で残るのだと。壊れたジッパーを即席の引き手で整え、重さの赤い数字をエコバッグで緑に変え、熱いミルクを水の輪で冷まし、乾きかけた電池を手のひらのバッテリーで満たす。誰かの余白と余りが、見知らぬ誰かの旅立ちを支える。

シートに腰を沈めると、窓の外の夕陽が滑走路の端に細くのびた。シートベルトを確かめ、胸の中でそっと結ぶ――八の字の結び目。機体が前へ動き出す。列の速度がようやく飛行機の速度へ変わる。背中に小さな拍手みたいな振動を受けながら、私は次に自分が何を半分こできるかを考えていた。

 
 
 

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