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ママリーガ。トカニツァ


カルパチアの稜線が夕方の光にほどけていくころ、私は小さなバスを降りた。舗装の端は砕け、泥がまだ湿っている。雨上がりの土の匂いに、薪の煙が細く絡みついて、鼻の奥がくすぐられた。道路脇の家々は低く、屋根の赤茶が濡れて暗い。庭先には薪が几帳面に積まれ、柵の向こうから犬が一度だけ短く吠え、すぐ黙った。見慣れない国の黄昏の静けさは、いつも少し残酷だ。そこに立っているだけで、自分がどれだけよそ者かを思い知らされる。

宿は「ペンション」と呼ぶには素朴すぎる、家の延長みたいな建物だった。玄関を開けると、暖気が頬に当たった。煮込みの匂い、炒めた玉ねぎの甘い焦げ、胡椒の立った香り。壁には刺繍の布が飾られ、木の梁には長い年月の脂が薄く光っている。窓ガラスには結露がたまって、外の暗さがぼやけた。奥のテーブルでは、年配の男たちがカードを叩き、笑い声の合間にグラスが乾いた音を立てる。私は何も持たない手を少し居心地悪く見つめながら、空いている席に腰を下ろした。

店の女性が、何か聞き返すように首を傾げた。私は覚えたての言葉を、舌の上で慎重に転がす。

「…ママリーガ。トカニツァ…?」

通じたのかどうかは、彼女の笑い皺でわかった。頷いて、短く「ポフタ・ブナ(召し上がれ)」と、まだ料理が来てもいないのに言った。肩の力が少し抜けた。異国の言葉が通じる瞬間は、ドアの鍵が一本外れるみたいに気持ちが軽くなる。

ほどなくして、白い大皿が運ばれてきた。目に飛び込んできたのは、まず黄色だった。澄んだ、濃い、太陽みたいな黄。半球形のママリーガが二つ、つややかに並び、表面には湯気がうっすらと汗のように滲んでいる。スプーンで成形したのか、輪郭はきれいで、けれど近くで見ると粒の粗さがわかる。とうもろこしの粉がしっかり息をしている質感だ。

その手前には、茶色い煮込みが山になっている。豚肉の角切りがごろごろと重なり、上からくたくたの玉ねぎが絡みつく。油が照明を跳ね返し、肉の縁には焼き目の名残がある。箸が恋しい国をいくつも歩いたけれど、こういう“重量感のある正直さ”を前にすると、道具の不便さなんてすぐ忘れる。

皿の右側には、雪みたいに白いチーズがふわりと積まれていた。細く削られた粒が一本一本立っていて、少し乾いた香りがする。さらにその隣に、光沢のある白い塊——サワークリーム(ルーマニアではスマントゥーナ)が、とろりと置かれている。丸みのある表面にスプーンの跡がわずかに残り、ひんやりした白さが料理全体の熱を受け止めるように見えた。左には、黄色いふわふわした一塊。卵を崩して火を入れたものだろうか。熱で立ち上る、あの甘い匂いがほんのりする。

私は、一度だけ深く息を吸った。湯気が目の前で揺れる。炭水化物の素朴な香り、肉の脂、玉ねぎの甘さ、乳製品の白い酸味。どれも単体では馴染みがあるのに、ここでは組み合わさって“この土地の輪郭”になっている。

スプーンをママリーガに入れると、表面がふっと割れた。柔らかいのに、崩れすぎない。粒が押し合いへし合いしながら、静かに形を変える。持ち上げると、黄色い塊が重たくスプーンに乗り、湯気が手首に触れた。最初の一口は、とうもろこしの香りが口いっぱいに広がった。甘いというより、土の近くの匂いだ。乾いた畑、秋の収穫、穀物倉の木の匂い。舌の上で粒がほどけ、喉に落ちるころには、体の奥で“温かい”がじわじわと増幅していく。

そこへ、豚の煮込みを絡める。肉はスプーンで簡単にほぐれるほど柔らかいのに、繊維がちゃんと抵抗を残している。噛むと、じゅっと脂が出て、玉ねぎの甘みが後から追いかける。香辛料は派手に前に出ない。寒い土地の料理がよく持つ、身体を内側からゆっくり温める方向性。私は一瞬、旅の疲れが“空腹”という形で浮かび上がっていたことに気づく。疲れは言葉にならないけれど、空腹は正直で、こうして料理に吸い取られていく。

白いチーズを指先で少しつまむと、さらさらと崩れた。ママリーガの熱に触れた瞬間、角が溶けて柔らかくなる。口に入れると、乳の香りがふわっと広がり、塩気がきっぱり立つ。そこへスマントゥーナを少し。冷たい酸味が、肉の脂を切ってくれる。重いはずの料理が、不思議と次の一口を呼ぶ。厚い毛布にくるまっているのに、窓を少し開けて夜風を吸うみたいな感覚。暖かさと清涼が同時にやってくる。

卵の塊も崩して混ぜると、全体が少しだけ“朝”の味になる。旅先の夜に食べているのに、どこか台所の朝の匂いがする。私は、知らない国の食卓に座っているはずなのに、ふと自分の幼いころの記憶に触れた。冬、ストーブの前で、何かを「もう少し食べなさい」と言われたときの、あの拒めない安心。人は遠くまで来ても、こういう部分だけは簡単に連れ戻されてしまう。

テーブルの向こうで、男たちがこちらをちらりと見た。視線が刺さるのかと思ったら、そうではない。ただ、よそ者がこの土地の料理を前にしているのが、少し面白いだけのようだった。彼らは何か冗談を言い合って、また笑った。私は、その輪の外側にいることを改めて感じながらも、さっきより胸が痛くないことに驚いた。皿の上の黄色と茶色と白が、私とこの場所の間に薄い橋を架けてくれている。言葉がうまく出なくても、何かを同じように「おいしい」と思えることが、こんなに心をほどくとは。

食べ進めるほど、ママリーガは少しずつ形を失い、煮込みのソースと混ざり合っていった。白いチーズが溶け、スマントゥーナが光を鈍くし、全体が“ひとつの鍋”みたいになっていく。見た目は素朴で、豪華さとは違う。でも、これ以上の贅沢があるだろうか、と私は思った。旅は、景色や歴史の前で立ち尽くす時間だけじゃない。こうして体の中に土地を取り込む時間が、いちばん確かに自分を変えていく。

最後の一口を迷うように口へ運んだとき、窓の外で遠くの教会の鐘が鳴った。金属の音が冷えた空気を震わせ、店内の暖気とぶつかって、少しだけ現実感が増した。私はスプーンを置き、指先についたチーズの粉を拭った。皿はほぼ空っぽで、油の艶だけが残っている。自分の中の寒さが、来たときより確実に薄まっている。

会計を済ませると、女性がまた笑って「ムルツメスク(ありがとう)」と言った。私も真似して、同じ言葉を返す。発音はきっと違う。それでも、彼女は頷いた。

外へ出ると、夜気が頬を刺した。空は深い紺色で、星が鋭く光っている。さっきまでの孤独が、完全に消えたわけではない。旅の孤独は、衣服の奥に染み込む冷えみたいに、簡単には抜けない。でも、私は確かに思った。今日の私には、あの黄色いママリーガの温度と、豚肉の煮込みの甘い匂いと、チーズの塩気と、白い酸味がある。知らない土地の夜を歩くための、小さな灯りがひとつ増えた。

その灯りを胸の内で確かめながら、私は宿へ続く暗い道をゆっくり歩き出した。

 
 
 

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