マンホールの星座――幹夫青年、流すことを覚える雨――
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

雨の日の静岡は、音が少しだけ丸くなる。 車の走る音も、人の足音も、信号待ちの沈黙も、濡れたアスファルトに一度吸い込まれてから、やわらかく戻ってくる。
幹夫(みきお)は、その「丸さ」に助けられていた。 普段の街は角が多い。看板の文字、時間割の数字、締切の線、正しい手順の箇条書き。 角ばったものに囲まれていると、幹夫の胸の内側もいつの間にか固くなる。
でも雨の日は、世界がほんの少しだけ、「急がなくていい」と言う。 そう聞こえてしまう。 幹夫は、そういうふうに聞こえる自分の感受性を、相変わらず少し怖がりながらも、どこかで信じてもいた。
その朝は、夜中の雨がまだ地面に残っていた。 空は薄い灰色、山の稜線はふわりと霞み、駿河湾のほうから湿った匂いが流れてくる。 幹夫の手には、点検表と、ゴム手袋と、短い棒の付いたフック。
――排水桝(ます)点検。 ――冠水(かんすい)報告地点、重点確認。
書かれている文字は冷たいのに、紙を持つ幹夫の手は熱かった。 「水が溜まって困っている」という声が、いつもよりリアルに思える日だった。
1 溜まる水、溜まる言葉
最初の現場は、商店街の端の小さな交差点だった。 歩道の一角に、浅い水たまりができている。 それは深刻な冠水ではない。けれど、放っておけば、誰かが滑るかもしれない。小さな子どもなら、靴の中が濡れて、帰り道がつらくなるかもしれない。
幹夫は水たまりの縁にしゃがみ、排水の格子蓋を見た。 枯れ葉と、小さなビニール片と、泥。 「溜まる理由」は、だいたいこういう小さなものだ。
幹夫は手袋をはめた。 ゴムが指に沿って、少しだけきつい。 その“きつさ”が、今日はありがたかった。心が勝手に広がりすぎないように、身体が輪郭を保ってくれる。
格子の隙間にフックを差し込み、葉を掻き出す。 水は、すぐには動かない。 しばらく抵抗して、それから、ようやく小さく渦を巻いた。
ぐる、ぐる、ぐる。
渦ができた瞬間、幹夫の胸の中でも、何かが少しだけ動いた。 「流れる」という現象が、こんなに安心をくれることを、幹夫は知っている。 だけど自分のこととなると、なぜかうまく流せない。 言葉も、涙も、怒りも。 溜めたまま、表面だけを平らにして、何事もないふりをしてしまう。
ふと、携帯が震えた。 姉からのメッセージ。 ――「実家のこと、来週までに返事ちょうだい」
幹夫の喉が、小さく締まった。 実家を手放すかどうかの話が、止まったままになっている。 返事ができないのではなく、返事の仕方が分からない。 手放すのは正しいのかもしれない。維持は大変だ。 でも、手放すと言った瞬間、父と母の記憶まで捨てるみたいで怖い。
幹夫は携帯をポケットに戻した。 いまは仕事だ、と自分に言った。 言い訳のように。
水たまりは少しずつ薄くなっていく。 流れる音が、目に見えないのに「いま動いた」と分かる。 そのときだった。
格子の縁に、何かが、ちょん、と乗った。
最初は雨粒だと思った。 けれど、それは落ちない。 小さな丸い体で、まるで息をしているみたいに震えている。 透明なのに、中心だけほんのり光る。
その丸いものは、幹夫を見上げた。 ――見る、というより、気配が合う。
幹夫は、思わず瞬きをした。 「……雫?」
雫は、こくりと首を傾げた。 そして、幹夫の耳ではなく、胸の奥のほうへ、ひどく静かな声が届いた。
「ありがとう。ここ、息できる」
幹夫は、声を出せなかった。 驚いたのに、怖くない。 こういう不思議が起こるとき、幹夫の中の“固いところ”が、少しだけ溶ける。 溶けたところから、世界がほんの少し、やさしく見える。
雫は、格子の中を指すように揺れた。
「地下にも川がある。街の下の、見えない川。 詰まると、苦しくなる。 流れると、息ができる」
幹夫は、喉の奥で小さく息を吸った。 地下の川。 それは、胸の内側にもある気がした。 詰まると苦しく、流れると息ができる場所。
幹夫は、雫に小さく頷いた。 「……そっか。流れたほうが、いいんだな」
雫は、ふわりと震えて、格子の隙間へ落ちていった。 落ちたのに、消えた感じがしない。 むしろ“帰った”感じがした。
その瞬間、排水の音がほんの少しだけ澄んで聞こえた。
2 怒りの奥に、濡れた靴がある
次の現場は住宅街だった。 玄関先に水が溜まりやすい家があり、住民から苦情が来ているという。 幹夫が到着すると、門のところに中年の女性が立っていた。 顔には疲れと苛立ちが混ざっている。
「またですか? うち、何回言えばいいんです?」
幹夫は胸の内側が反射的に縮むのを感じた。 怒りは、幹夫にとっていつも“自分の失敗”に見える。 たとえ直接の原因が自分じゃなくても。
でも、さっきの雫の声が、胸の奥に残っていた。 詰まると苦しくなる。 怒りも、溜まった苦しさの形かもしれない。
幹夫は、できるだけ柔らかい声で言った。 「……ご迷惑かけて、すみません。まず状況見ます。原因、探します」
女性はまだ硬い顔をしていたけれど、幹夫が道具を出してしゃがみ込むと、少しだけ息を吐いた。 怒りの矛先が、“人”から“詰まり”へ移った感じがした。
排水桝を開けると、泥と落ち葉がかなり溜まっていた。 幹夫が掻き出すと、濁った水が一気に吸い込まれていく。 ごぼ、ごぼ、と喉を鳴らすように。
女性がぽつりと言った。 「……子どもの靴がね、毎回濡れるんです。朝から」
その一言で、幹夫は女性の怒りの奥に“濡れた靴”が見えた。 濡れた靴の不快さ。 濡れた靴で一日過ごす小さな惨めさ。 そういう小さな痛みが積もると、人は怒りになる。
幹夫は、掻き出した葉の束をゴミ袋に入れながら言った。 「……すみません。今日の分は通りました。 また溜まりやすいなら、近所も含めて一度、落ち葉の状況見直します」
言いながら、幹夫は思った。 自分もこうやって、溜まったものを“言葉”にできたらいいのに。姉のメッセージに、濡れた靴みたいな気持ちを添えて返せたらいいのに。 “正しさ”だけで返事をしたくない。 でも感情を出すのが怖い。
女性は少しだけ表情を緩め、家の中から小さな保温ボトルを持ってきた。 「寒いでしょう。お茶」
幹夫は、受け取る瞬間に胸がきゅっとした。 受け取るのが苦手だ。 “借り”を作るようで、怖い。 でも前に、片方の手袋のことで学んだ。 受け取らないと、相手のやさしさが行き場を失うことがある。
幹夫は両手でボトルを受け取った。 「……ありがとうございます」
湯気は見えない。でも温かさが手のひらに伝わってきた。 その温度が、幹夫の胸の内側の詰まりを、少しだけほどいた。
3 紙の舟を、流していい場所へ
三つ目の現場は、小学校の近くの歩道だった。 雨上がりの水たまりに、子どもたちが紙の舟を浮かべていた。 先生が「そこ危ないよ、濡れるよ」と言いながらも、どこか止めきれない顔をしている。 紙の舟は、子どもたちの“今しかない遊び”だからだ。
幹夫は、水たまりの端で、紙の舟が溜まっていく様子を見た。 舟が悪いのではない。 ただ、流れる場所がない。 だから、溜まる。
幹夫は先生に「排水、少し見ますね」と伝え、格子を確認した。 ここも落ち葉が詰まっている。 幹夫は子どもたちに声をかけた。
「ねえ、舟、流したい?」
子どもたちは一斉に頷いた。 その目のまっすぐさに、幹夫の胸が少し痛んだ。 自分も昔は、こんなふうに迷いなく“流したい”って言えたのだろうか。
幹夫は言った。 「じゃあ、流せる道、作ろう。 でも、手は濡れるから、ここから先は先生と一緒」
子どもたちは歓声を上げた。 幹夫が詰まりを取ると、水たまりの水がゆっくり傾き、細い流れができた。 紙の舟が一つ、また一つ、動き出す。
その瞬間、幹夫の胸の奥でも、何かが動いた。 詰まりが取れたときの、あの小さな渦。 心の中にも、渦ができる。 溜めていたものが、少しだけ流れる。
子どもたちの舟は、流れて、流れて、排水の先へ消えていった。 消えたのに、失った感じがしない。 むしろ、ちゃんと行くべき場所へ行った感じがした。
幹夫は、ふと自分の携帯を思い出した。 姉のメッセージ。 返事を“溜めている”状態。 詰まっている状態。
——流せ。 ——流していい場所へ。 雫の声が、胸の底で小さく鳴った。
4 夕暮れ、胸の中の排水口
一日の点検が終わって、空が少しだけ明るくなってきた。 雲の切れ間から、薄い夕日が差す。 濡れた道路が、その光を受けてきらきらする。 幹夫は、そのきらきらを見ていると、泣きたくなることがある。 美しいから、というより、 “こうやって世界は勝手に続いていく”のが、少し寂しいからだ。
朝の交差点へ、幹夫はもう一度戻った。 水たまりは消えている。 格子の周りも乾き始めて、何事もなかった顔をしている。 でも幹夫は知っている。 ここには一度、溜まった。 そして流れた。 その“流れた事実”が、確かに残っている。
幹夫はポケットから携帯を出した。 姉のメッセージを開く。 指先が少し震える。 震えは、恐怖だけじゃない。 自分が動こうとしている震えだ。
幹夫は、短く打った。
――「返事遅くなってごめん。 手放すのが正しいのは分かる。でも、怖い。 俺、思い出まで流しちゃうみたいで」
送信ボタンを押すとき、幹夫は息を止めていた。 押した瞬間、息が戻った。 胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ下へ落ちていく感じがした。 排水口が開く感じ。
返事はすぐ来なかった。 でもそれでいい、と幹夫は思えた。 流れ始めたら、あとは水の都合もある。 焦って掻き回すと、また濁る。
ふと、格子の端に、小さな光がちょんと現れた。 朝の雫だった。 いまは雨粒というより、小さな星の粒に見える。
雫は、幹夫を見て、ほんの少しだけ揺れた。
「流れたね」
幹夫は小さく笑った。 「……うん。まだ少しだけど」
「少し、でいい。 街も、心も。 一気に流すと、壊れる」
幹夫は頷いた。 雫は、格子の隙間へ帰っていった。 帰り際、排水の奥から「ごぼ」と小さな音がした。 それはまるで、地下の川が「了解」と言ったみたいな音だった。
終わりに
帰り道、幹夫はマンホールの蓋を見た。 濡れた鉄の円に、街灯の光が落ちて、丸い星みたいに見える。 マンホールの模様が、星座の線みたいに見える。 ――街の下には川がある。 ――胸の中にも、川がある。
幹夫は、自分がその川を怖がりすぎていたことに気づいた。 流れると、何か大事なものまで流れてしまう気がして。 でも本当は、流れないほうが、もっと苦しい。 詰まったままの言葉は、腐ってしまう。 腐った匂いは、いつか誰かを傷つける。
だから幹夫は、今日は少しだけ誓った。 詰まらせない。 少しずつでいいから、流す。 必要なら、助けを借りる。 お茶を受け取るみたいに。
雨はまた降る。 街はまた濡れる。 そのたびに、溜まる場所が出てくる。 でも、そのたびに流せばいい。 詰まったら、取ればいい。
幹夫は空を見上げた。 雲の隙間に、薄い青がある。 その青は、今日の幹夫の胸の内側と同じ色だった。 澄みきってはいない。 でも、ちゃんと“息ができる”色だった。





コメント