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モンマルトルの空の音

  • 山崎行政書士事務所
  • 2月2日
  • 読了時間: 4分


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 パリのモンマルトルの丘には、夕暮れが似合う。カフェのテラスからはかすかなアコーディオンの調べが聞こえ、坂道を上る人々の笑い声が重なる。まだ少し冷たい春先の風が肌を撫でていくが、その風さえもどこか陽気で、街全体を包む色彩の一部となっているかのようだった。

 そこに、モニカという名の少女がいた。彼女はギターケースを背負い、丘の階段を一段ずつ踏みしめていく。ケースに貼られたステッカーを見る限り、いろいろな国を回ってきたらしい。しかし、モニカの顔には不安げな表情が浮かんでいた。 ――どうしても歌が出ない。 彼女は最近、歌声を失ってしまったのだ。原因はわからない。舞台で突然声が出なくなり、それから何度トライしても喉の奥が閉ざされてしまう。世界中を旅してきたはずなのに、どうして自分は歌えないのか――そんな自問を抱えながら、モンマルトルの風に助けを乞うようにここへ来たのだ。

 頂上へ到着すると、白い外壁が美しいサクレ・クール寺院がそびえている。寺院の前には広場があり、そこからはパリの街並みが一望できる。薄い紫とオレンジが混ざり合う夕空を背に、街の光が少しずつ灯りはじめる風景は、まるで大きなパレットに絵の具をこぼしたみたいだ。

 モニカは広場の縁に腰かけ、ギターケースをそっと置いた。周りには、観光客や地元の人が思い思いに過ごしている。遠くでアコーディオンを演奏する老紳士、似顔絵を描く画家、恋人たちの笑い声――どれもがパリの夕暮れを音と色で彩っていた。

 「ねえ、お嬢さん。何か弾いてみれば?」 近くに座っていた初老の男性が声をかけた。昔はジャズバンドをやっていたという彼は、モニカのギターケースに目を留めたのだ。 彼女は少しだけかすかに微笑み、「……ありがとう。でも、まだ気持ちの整理がつかなくて」と首を振る。男性は「そうかい」と頷き、モニカを不思議そうに見つめた。

 周囲の喧騒を横目に、モニカはギターを取り出し、そっと弦を鳴らしてみる。静かなアルペジオの響きが夕暮れの空気に溶けていく。指先から生まれる音は、やわらかくもどこか儚い。 ――歌いたい。でも声が出ない。 ギターの響きに合わせて唇を動かそうとすると、心の奥で何かがこわばってしまう。頭が真っ白になって、言葉が出てこないのだ。

 そんなとき、一人の少女が近づいてきた。十歳くらいだろうか、黄色いワンピースが夕陽に映えている。好奇心に満ちた瞳でモニカのギターをじっと見つめている。「きれいな音……ねえ、お姉さんはどうして歌わないの?」 少女の素直な疑問に、モニカはうつむいてしまった。どう答えればいいのだろう? 自分でもわからないまま、喉の奥がまたきゅっと縮こまる。

 すると、少女は悪戯っぽく笑った。「じゃあ、わたしが歌ってあげる。お姉さんが弾いてよ!」 そう言って勢いよく手拍子を始める。あまりに自然な提案に、モニカも思わずクスっと笑ってしまった。自分が伴奏して、少女が歌う――そんな発想はなかった。 モニカは構え直し、少女が即興で口ずさむ歌に合わせてギターを弾きはじめる。子どもらしい素直な旋律が、ギターのコードと重なってどこかあたたかな雰囲気をつくり出す。まわりの人々も振り返り、興味深そうに耳を傾けている。

 ギターの音が広場に広がるにつれ、モニカの胸の奥に滞っていた何かが溶けていくのを感じた。歌えなくても、音楽はそこにある。人がいて、耳を傾けてくれる人がいて、そして景色がある。その全部が一体となって、モンマルトルの空気を震わせている。

 最後のコードを鳴らしたあと、少女が楽しそうに手を叩いた。「ありがとう、お姉さん! すっごく楽しかった!」 少女はそう言って、駆け足で立ち去ってしまった。 モニカは思わず「ありがとう」はこっちのセリフだ、と心の中でつぶやく。自分のほうが、よほど救われた気分だった。

 やがて空は朱色から紺色へと移ろい、パリの街に夜が訪れる。サクレ・クール寺院に明かりが灯り、広場の喧騒もゆっくりと落ち着いていく。 モニカはギターをしまい、立ち上がった。喉の奥に生じていた重い塊は、少しだけ軽くなった気がする。今はまだ歌葉(うたば)が出ずとも、いつかまた、その言葉とメロディが自然に溢れてくる日がくるはず。

 階段を下る途中、ふと夜風が頬をかすめた。どこからともなく、アコーディオンの音色が聞こえる。遠ざかる音に耳を澄ませながら、モニカは小さく鼻歌を口ずさんだ。まだ声はしゃがれたままだけれど、ほんのかすかな音が唇から漏れた。それは確かな“歌の芽”のようにも感じられる。

 ――モンマルトルの坂道は、音楽と希望をはこぶ風が吹く。 この街でまた一歩、新しい始まりが訪れそうな予感がした。月が昇りはじめた夜空の下で、白亜の寺院は静かに見守っている。パリの煌めく街灯を眺めながら、モニカは明日もきっとギターを抱えて、この街を歩こうと思った。声を取り戻す日はすぐそこかもしれないと、そんな確信にも似た予感を胸に抱いて。

(了)

 
 
 

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