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ヤブロネー・ヴ・ポドイェシュチェディ


ヤブロネー・ヴ・ポドイェシュチェディ(Jablonné v Podještědí)の小さな停留所に降り立った瞬間、空気が“硬い”と感じた。息を吸うと、肺の内側がひやりと削られる。雪はもう降っていないのに、あたり一帯が薄い白に覆われていて、音という音が吸い込まれている。遠くで車が一台走ったはずなのに、耳に届くのは濡れたタイヤの擦れる低い気配だけだった。

城へ向かう道は、地図の線で見るよりもずっと静かで、ずっと生々しかった。アスファルトは黒く湿り、雪解けの水が薄い膜になって光を返している。路肩の雪は踏まれて灰色になり、靴底が触れるたび、しゃり、と短い音を立てて砕けた。冷えた泥がにじむ匂いに、どこかで焚かれている薪の煙が混じる。冬の匂いは清潔だと思っていたのに、こうして歩くと、土も木も、ちゃんと生活の匂いを持っているのがわかる。

目の前に、低い石の壁が現れた。崩れかけた石積みは、雪をうっすらとかぶり、ところどころ苔が黄緑に濡れている。石の隙間から伸びる枯れた草が、霜で白く縁取られ、指で触れたら粉のように崩れそうだった。古い煉瓦の赤が、雪の白と湿った石の褐色の間で妙に鮮やかに見える。時間が腐らずに、ただ堆積している場所——そんな感じがした。

左手には鉄の門があり、網の向こうの森が見えた。門は閉まっているのに、閉ざされた感じがしない。むしろ、この薄い境界線の向こうには、人の足音が少なくなっていく“別の濃度”の静けさがある、と直感した。私はその前で足を止め、手袋の上から指を握り直した。寒さで指先の感覚が鈍っていて、握ったはずの自分の手が、少し遠い。

そして、視線を上へ滑らせた瞬間、胸の奥がすうっと引き上げられた。

森の奥、雪をまとった枝の層の、そのさらに上に——緑青色の屋根が、ぽつんと浮かんでいた。鐘楼なのだろう、丸みを帯びた屋根が、冬の白の中でひときわ深い色をしている。緑は鮮やかというより、歳月に磨かれた金属みたいな、湿り気を含んだ落ち着いた緑。曇り空の下で、そこだけが“色を持った存在”として立っていた。

近づくにつれ、森は細部を見せ始める。枝の一本一本に雪が薄く乗り、重みでわずかに弓なりになっている。風が吹くたび、雪がさらさらと落ちて、粉砂糖みたいに舞った。落ちた雪がコートの肩に触れ、すぐ溶けて冷たい点になった。頬に当たる空気は痛いのに、その痛みが逆に、私がここにいることを確かめてくれる。旅先の冬は、歓迎ではなく、確認なのだと思う。「本当に来たのか」「本当に歩くのか」と、自然が淡々と問い続ける。

道は緩やかに曲がって、壁の切れ目から奥へ視界が開いた。雪に覆われた地面は起伏を隠し、森は白いレースをかけたように見える。その上に、レムベルク城(Lemberk)の建物が、ほんの少しだけ姿をのぞかせる。屋根の線、壁の淡い色、そしてあの緑の鐘楼。城はどっしりと構えているはずなのに、木々と雪の中では不思議と控えめで、むしろ“ここにずっと居続けた”という時間の重さだけが伝わってくる。

私は、写真で見た景色をなぞるような気持ちでここへ来た。けれど実際の冬景色は、写真よりもずっと湿っていて、ずっと冷たくて、そしてずっと優しい。雪が音を消してくれるから、心の中の小さなざわめきまで聞こえてしまう。旅に出てからずっと、自分の内側に巣食う焦りや、戻る場所の輪郭や、言葉にならない不安を、景色の騒がしさで誤魔化してきたのだと思う。ここでは誤魔化せない。白い森が、静かにそれを剥がしていく。

ふと、遠くで鳥が鳴いた。乾いた声で、短く。森の奥で枝が折れたのか、パキン、と小さな音がした。私は思わず肩をすくめ、笑ってしまった。怖いのではなく、ただ、自分があまりに“人間の音”に慣れていたことが可笑しかった。都市の音はいつも誰かの存在を保証してくれる。ここでは、保証はない。代わりにあるのは、雪の重み、木の呼吸、石の冷たさ——そういう、誰も嘘をつけないものだけだ。

門のそばまで戻り、網越しにもう一度、鐘楼の屋根を見上げた。緑の屋根は、雪の白と空の灰色の間で、じっと沈黙している。鐘の音は聞こえない。けれど、聞こえないことが、逆にこの場所の格を保っている気がした。音を鳴らさずとも、そこにあるだけで“人の時間”と“自然の時間”が交わっている。城というのは、ただの建物ではなく、積み重なった暮らしや祈りの器なのだろう。

私はポケットから指先を出して、石壁の上の雪に触れた。粉のように軽く、すぐ指の熱で溶け、冷たい水になって皮膚に染みた。冷たさが鋭くて、思わず息を止める。次の瞬間、胸の奥で、何かがほどけた気がした。旅の間ずっと抱えていた、名付けられない緊張——“どこかへ行かなければならない”という強迫のようなものが、少し薄くなった。

ここでは、急ぐ理由がない。ここでは、見せるために歩く必要がない。ただ、白い森と、緑の鐘楼と、濡れた石の匂いがあるだけだ。

帰り道、曲がり角で振り返ると、城はまた木々の向こうに半分隠れた。見えるのは、あの屋根の緑だけ。まるで「見たいなら、静かに来い」と言われているみたいだった。私はその緑を目に焼きつけ、靴裏で雪を一度踏みしめる。しゃり、という音が小さく響き、すぐに白に吸い込まれた。

寒さは相変わらず痛い。けれどその痛みの中に、妙な温かさがあった。たぶん私は、景色に癒されたのではない。景色の前で、余計なものを持ち続けるのが恥ずかしくなっただけだ。レムベルク城の緑の屋根は、雪の森の上で、何も語らず、ただそれを促していた。

ヤブロネーの町へ戻る道すがら、鼻先にまた薪の匂いが流れてきた。人の暮らしの匂いだ。私は手袋の中で指を動かし、冷えた感覚が少しずつ戻ってくるのを確かめた。旅は、壮大な感動だけでできているわけじゃない。濡れた石に触れた一瞬の冷たさや、静けさに耐えた数分間が、あとからじわじわ効いてくる。

白い森の向こうで、緑の鐘楼は、まだそこにある。私が去っても、何も変わらずに。そのことが、なぜだか救いのように思えた。

 
 
 

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