一番茶と星の子
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 9分

五月の朝は、まだ生まれたばかりの匂いがした。
夜の名残を含んだ空は薄い青で、東の端だけが淡く光っている。茶の丘には、やわらかな霧が低く流れ、丸く刈られた畝の上に、若い新芽がいっせいに息をひそめていた。
一番茶の季節だった。
幹夫少年は、農道の端に立っていた。
茶畑から立ちのぼる香りは、いつもの茶葉の匂いよりも少し若かった。青く、みずみずしく、まだ世の中の苦みを全部は知らないような香りだった。
その香りを吸うと、幹夫の胸の奥に、少しだけ痛みが走った。
新しいものは、どうしてこんなに頼りなく見えるのだろう。
新芽も。 朝も。 言いかけた言葉も。 誰かに初めて差し出す気持ちも。
前の日、学校で先生が言った。
「明日の発表は、誰か一番に読んでくれる人はいますか」
教室が少し静かになった。
幹夫の机の上には、短い作文があった。
題は「五月に見つけたもの」。
幹夫は、通学路の水たまりに映った若葉のことを書いていた。雨上がりの水たまりの中で、葉の緑が少し揺れていて、それがまるで地面の下にも春があるように見えたこと。誰にも気づかれずに消えてしまう小さな景色も、ちゃんと朝を受けていると思ったこと。
本当は、読んでみたい気持ちがあった。
けれど、一番に手を挙げる勇気はなかった。
最初に読む声は、みんなに聞かれる。 失敗すれば、空気がそこで決まってしまう。 笑われたら、その笑いが後ろの人たちの前に残ってしまう。
幹夫が迷っているうちに、別の子が手を挙げた。
その子は作文を読み始めたが、途中で一度つかえた。すると後ろの席で誰かが小さく笑った。
すぐに静かになった。
けれど、幹夫にはその小さな笑いが、紙の端にできた折れ目のように残った。
一番に出ていくものは、傷つきやすい。
そう思った。
だから今、茶畑の新芽を見ていると、胸が少し苦しかった。
一番茶。
その言葉には、晴れやかさがある。けれど幹夫には、最初に摘まれる葉の心細さも感じられた。まだやわらかく、まだ薄く、まだ風の強さをよく知らない葉が、誰より先に人の手へ渡っていく。
幹夫は、茶葉に向かって小さく言った。
「一番って、怖くないのかな」
そのとき、茶畑の奥で、きらりと何かが光った。
露だろうと思った。
けれど、その光は露よりも少し大きく、茶葉の上で小さく震えていた。
幹夫は、畝を傷つけないように近づいた。
一枚の新芽の上に、小さな星の子が座っていた。
背丈は幹夫の親指ほど。体は透き通るように淡く、髪は夜明け前の星屑を集めたように白く光っている。目は黒く、遠い空の奥を映していた。
星の子は、茶葉の上で膝を抱えていた。
「どうしたの」
幹夫が聞くと、星の子はびくりと肩を震わせた。
「帰れなくなった」
声は、露が葉から落ちる前のように小さかった。
「空へ?」
星の子はうなずいた。
「ぼくは、一番星の子なんだ。夜が終わる時、最後まで残って、朝に道を渡す役目。でも今日は、茶畑があまりきれいで、地上の星だと思って降りてきてしまった」
幹夫は空を見た。
夜明け前の空には、まだいくつか星が残っていた。けれど東はもう明るく、星たちはひとつずつ薄くなっている。
「早く帰らないと」
幹夫が言うと、星の子は小さく首を振った。
「怖いんだ」
「怖い?」
「一番星は、みんなより先に朝へ渡らなきゃいけない。最後まで夜に残って、最初に消える。空ではそれが役目だと言われる。でも、消えるのは怖い」
幹夫は胸が痛んだ。
一番に出ていくものは、傷つきやすい。
昨日思ったことが、星の子の震えと重なった。
「消えるんじゃなくて、朝に渡すんじゃないの?」
幹夫はそう言いかけたが、すぐに黙った。
それは慰めの言葉としては正しいのかもしれない。けれど、星の子の怖さを簡単にほどける言葉ではない気がした。
星の子は茶葉の上でうつむいた。
その茶葉が、かすかに揺れた。
「わたしも、怖いよ」
声がした。
幹夫は茶葉を見た。
星の子を支えている、一枚の若い新芽だった。まだ小さく、明るい緑をしている。葉脈は細く、縁には朝露がひと粒ずつ光っていた。
「きみも?」
幹夫が聞くと、新芽はそっと震えた。
「わたしは、一番茶の芽。今日、摘まれるかもしれない。冬を越えて、雨を受けて、やっと開いたばかりなのに、もう枝を離れるのは怖い」
星の子が顔を上げた。
「茶葉も、怖いの?」
「怖いよ」
新芽は答えた。
「でも、摘まれて終わりではないって、古い葉たちが言っていた。手に渡り、湯に開き、香りになる。葉のままでは届かない人の胸へ行けるって」
「それでも、怖い?」
「怖い」
新芽は正直に言った。
「一番に行くものは、いつも怖いのかもしれない」
幹夫は、ふたりの小さな声を聞いていた。
星の子。 一番茶の新芽。 そして昨日、作文を一番に読んだ子。
みんな、最初に出ていくものだった。
怖さを抱えたまま、朝へ向かうものだった。
そのとき、農道の向こうから、人の足音が聞こえた。
茶摘みのおばあさんだった。
白い手ぬぐいを頭に巻き、竹籠を背負っている。まだ薄暗いのに、足取りは迷いがなかった。茶畑の畝の前に立つと、おばあさんは幹夫に気づいて少し笑った。
「早いね、幹夫」
幹夫はあわてて頭を下げた。
「おはようございます」
おばあさんは新芽の上の星の子を見た。
幹夫には、それが見えているのだとすぐにわかった。おばあさんの目は、驚かず、ただ静かに細められた。
「今年も来たかね」
「知っているんですか」
幹夫が聞くと、おばあさんはうなずいた。
「一番茶の朝には、ときどき星の子が迷い込む。茶葉があんまり若く光るから、空と間違えるんだよ」
星の子は、小さく言った。
「帰りたいけど、怖い」
おばあさんは、しばらく黙っていた。
それから茶葉を見た。
「この芽も怖がっているね」
新芽がかすかに揺れた。
おばあさんは、籠を下ろし、茶葉の前に膝をついた。
「一番というのは、偉い順番じゃない」
その声は、とても静かだった。
「一番は、最初に道を作る役目だよ。後に続くものが迷わないように、少しだけ先に朝の光を受ける。でも、道を作るものが怖くないわけじゃない」
幹夫は、その言葉を胸にしまった。
一番は、偉い順番ではない。 道を作る役目。
おばあさんは、茶葉にそっと手を伸ばした。
「この芽を摘んで、星の子の道を淹れよう」
幹夫は息をのんだ。
新芽は、星の子を支えたまま静かだった。
「いいの?」
幹夫が聞くと、新芽は小さく答えた。
「ひとりでは怖い。でも、星の子と一緒なら、少し行ける気がする」
星の子は新芽を見た。
「ぼくも、きみと一緒なら、朝へ行ける気がする」
おばあさんは、指先で新芽の根元に触れた。
乱暴ではなかった。 急いでもいなかった。
まるで、葉のほうから離れる時を待っているようだった。
ぷつん。
ごく小さな音がした。
新芽は、おばあさんの手の中にあった。星の子はその上にそっと座っている。
茶畑全体が、さわ、と鳴った。
それは別れの音であり、見送りの音だった。
おばあさんは、近くの小さな茶小屋へ幹夫を招いた。
そこには古い急須と、湯呑みと、小さな鉄瓶が置かれていた。鉄瓶からは、すでに湯気が立っている。
「一番茶は、急いではいけない」
おばあさんは言った。
「若い葉だからね。熱すぎる湯は驚かせる。人の言葉と同じだよ。出たばかりの言葉には、強すぎる声をかけてはいけない」
幹夫は、昨日の教室を思い出した。
作文を読んだ子がつかえた時、笑い声が少し強すぎた。 それだけで、その子の声は震えた。
出たばかりの言葉。
自分の言葉も、誰かの言葉も、きっとそうなのだ。
おばあさんは、湯を少し冷ましてから、急須に注いだ。
新芽は湯の中でゆっくり開いた。
星の子は湯気の上に浮かび、少しずつ光を取り戻していく。
湯気は白く細く立ちのぼった。
でも、普通の湯気ではなかった。
湯気の中に、茶畑の朝があった。 冬を越えた根の記憶があった。 雨を待った土の匂いがあった。 そして、星の子が戻るための細い道があった。
おばあさんは湯呑みにお茶を注いだ。
淡い金色のお茶だった。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
若い香りがした。
青く、やわらかく、少し緊張しているような香り。けれど、その奥に、静かな力があった。
「幹夫も、ひと口飲みなさい」
おばあさんが言った。
「この子たちの道を、地上で受け取る人が必要だから」
幹夫はうなずき、そっと飲んだ。
最初に、若い苦みが来た。
昨日手を挙げられなかった自分の苦み。 一番に読むことを怖がった気持ち。 笑われるのを恐れて、言葉を閉じてしまった苦み。
けれどすぐに、甘みが広がった。
一番に出ていくものへの敬意のような甘みだった。 怖くても道を作るものへ、そっと手を合わせたくなるような甘みだった。
幹夫の胸の中で、昨日の作文が静かに開いた。
水たまりに映った若葉。 地面の下にも春があるように見えたこと。 それを本当は読んでみたかったこと。
幹夫は、湯呑みを持つ手に力を込めた。
「ぼくも、いつか一番に読めるかな」
誰に聞くでもなく、そう言った。
おばあさんは微笑んだ。
「怖いまま読めばいい」
「怖いまま?」
「怖さがなくなるのを待っていたら、朝が過ぎてしまうこともある。怖さを連れて、そっと一歩出るんだよ」
湯気が強くなった。
星の子が、湯気の道に乗った。
「ありがとう」
星の子は、新芽の開いた葉へ向かって言った。
「ぼく、朝へ行くよ」
急須の中で、開いた新芽がかすかに揺れた。
「わたしも、香りになって行くよ」
星の子は、幹夫を見た。
「君の作文も、いつか朝へ出ていけるよ」
幹夫は、目に涙を浮かべながらうなずいた。
星の子は湯気の道を上り、小屋の屋根を越え、茶畑の上へ出ていった。
東の空はもう明るい。
星はほとんど消えている。
けれど、星の子は一度だけ強くまたたき、朝の光の中へ溶けていった。
消えたのではない。
朝へ渡ったのだと、幹夫にはわかった。
茶小屋の中には、一番茶の香りが残った。
おばあさんは急須の中を見た。
開いた新芽は、もう枝に戻ることはない。
けれど、湯呑みに香りを残し、星の子の道を作り、幹夫の胸にも小さな勇気を置いていった。
「一番茶って、すごいですね」
幹夫が言うと、おばあさんは首を横に振った。
「すごいというより、ありがたいんだよ」
幹夫は、湯呑みを見つめた。
たしかに、そう思った。
その日、学校へ行くと、先生が言った。
「昨日読めなかった人で、今日読んでみたい人はいますか」
教室が静かになった。
幹夫の胸が強く鳴った。
まだ怖かった。
笑われるかもしれない。 つかえるかもしれない。 声が震えるかもしれない。
でも、怖さがなくなるのを待っていたら、朝が過ぎてしまう。
幹夫は、手を挙げた。
最初ではなかった。けれど、昨日の自分より一歩だけ前だった。
作文を読む声は少し震えた。
水たまりに映った若葉のところで、幹夫は一度つかえた。
でも、読み終えた。
教室は静かだった。
誰も笑わなかった。
先生が小さくうなずいた。
すると、昨日一番に読んだ子が、ぽつりと言った。
「水たまり、見てみたいかも」
その一言は、幹夫の胸に一番茶の甘みのように広がった。
窓の外には、五月の光があった。
空に星は見えない。
けれど幹夫は知っていた。
夜明け前、茶畑には小さな星の子が降りることがある。 一番茶の新芽が、怖さを抱えたまま道を作ることがある。 そして人の言葉も、震えながら朝へ出ていくことがある。
幹夫少年は、読み終えた作文用紙をそっと閉じた。
紙から、ほんのかすかに一番茶の香りがした気がした。





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