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一番茶と星の子

 五月の朝は、まだ生まれたばかりの匂いがした。

 夜の名残を含んだ空は薄い青で、東の端だけが淡く光っている。茶の丘には、やわらかな霧が低く流れ、丸く刈られた畝の上に、若い新芽がいっせいに息をひそめていた。

 一番茶の季節だった。

 幹夫少年は、農道の端に立っていた。

 茶畑から立ちのぼる香りは、いつもの茶葉の匂いよりも少し若かった。青く、みずみずしく、まだ世の中の苦みを全部は知らないような香りだった。

 その香りを吸うと、幹夫の胸の奥に、少しだけ痛みが走った。

 新しいものは、どうしてこんなに頼りなく見えるのだろう。

 新芽も。 朝も。 言いかけた言葉も。 誰かに初めて差し出す気持ちも。

 前の日、学校で先生が言った。

 「明日の発表は、誰か一番に読んでくれる人はいますか」

 教室が少し静かになった。

 幹夫の机の上には、短い作文があった。

 題は「五月に見つけたもの」。

 幹夫は、通学路の水たまりに映った若葉のことを書いていた。雨上がりの水たまりの中で、葉の緑が少し揺れていて、それがまるで地面の下にも春があるように見えたこと。誰にも気づかれずに消えてしまう小さな景色も、ちゃんと朝を受けていると思ったこと。

 本当は、読んでみたい気持ちがあった。

 けれど、一番に手を挙げる勇気はなかった。

 最初に読む声は、みんなに聞かれる。 失敗すれば、空気がそこで決まってしまう。 笑われたら、その笑いが後ろの人たちの前に残ってしまう。

 幹夫が迷っているうちに、別の子が手を挙げた。

 その子は作文を読み始めたが、途中で一度つかえた。すると後ろの席で誰かが小さく笑った。

 すぐに静かになった。

 けれど、幹夫にはその小さな笑いが、紙の端にできた折れ目のように残った。

 一番に出ていくものは、傷つきやすい。

 そう思った。

 だから今、茶畑の新芽を見ていると、胸が少し苦しかった。

 一番茶。

 その言葉には、晴れやかさがある。けれど幹夫には、最初に摘まれる葉の心細さも感じられた。まだやわらかく、まだ薄く、まだ風の強さをよく知らない葉が、誰より先に人の手へ渡っていく。

 幹夫は、茶葉に向かって小さく言った。

 「一番って、怖くないのかな」

 そのとき、茶畑の奥で、きらりと何かが光った。

 露だろうと思った。

 けれど、その光は露よりも少し大きく、茶葉の上で小さく震えていた。

 幹夫は、畝を傷つけないように近づいた。

 一枚の新芽の上に、小さな星の子が座っていた。

 背丈は幹夫の親指ほど。体は透き通るように淡く、髪は夜明け前の星屑を集めたように白く光っている。目は黒く、遠い空の奥を映していた。

 星の子は、茶葉の上で膝を抱えていた。

 「どうしたの」

 幹夫が聞くと、星の子はびくりと肩を震わせた。

 「帰れなくなった」

 声は、露が葉から落ちる前のように小さかった。

 「空へ?」

 星の子はうなずいた。

 「ぼくは、一番星の子なんだ。夜が終わる時、最後まで残って、朝に道を渡す役目。でも今日は、茶畑があまりきれいで、地上の星だと思って降りてきてしまった」

 幹夫は空を見た。

 夜明け前の空には、まだいくつか星が残っていた。けれど東はもう明るく、星たちはひとつずつ薄くなっている。

 「早く帰らないと」

 幹夫が言うと、星の子は小さく首を振った。

 「怖いんだ」

 「怖い?」

 「一番星は、みんなより先に朝へ渡らなきゃいけない。最後まで夜に残って、最初に消える。空ではそれが役目だと言われる。でも、消えるのは怖い」

 幹夫は胸が痛んだ。

 一番に出ていくものは、傷つきやすい。

 昨日思ったことが、星の子の震えと重なった。

 「消えるんじゃなくて、朝に渡すんじゃないの?」

 幹夫はそう言いかけたが、すぐに黙った。

 それは慰めの言葉としては正しいのかもしれない。けれど、星の子の怖さを簡単にほどける言葉ではない気がした。

 星の子は茶葉の上でうつむいた。

 その茶葉が、かすかに揺れた。

 「わたしも、怖いよ」

 声がした。

 幹夫は茶葉を見た。

 星の子を支えている、一枚の若い新芽だった。まだ小さく、明るい緑をしている。葉脈は細く、縁には朝露がひと粒ずつ光っていた。

 「きみも?」

 幹夫が聞くと、新芽はそっと震えた。

 「わたしは、一番茶の芽。今日、摘まれるかもしれない。冬を越えて、雨を受けて、やっと開いたばかりなのに、もう枝を離れるのは怖い」

 星の子が顔を上げた。

 「茶葉も、怖いの?」

 「怖いよ」

 新芽は答えた。

 「でも、摘まれて終わりではないって、古い葉たちが言っていた。手に渡り、湯に開き、香りになる。葉のままでは届かない人の胸へ行けるって」

 「それでも、怖い?」

 「怖い」

 新芽は正直に言った。

 「一番に行くものは、いつも怖いのかもしれない」

 幹夫は、ふたりの小さな声を聞いていた。

 星の子。 一番茶の新芽。 そして昨日、作文を一番に読んだ子。

 みんな、最初に出ていくものだった。

 怖さを抱えたまま、朝へ向かうものだった。

 そのとき、農道の向こうから、人の足音が聞こえた。

 茶摘みのおばあさんだった。

 白い手ぬぐいを頭に巻き、竹籠を背負っている。まだ薄暗いのに、足取りは迷いがなかった。茶畑の畝の前に立つと、おばあさんは幹夫に気づいて少し笑った。

 「早いね、幹夫」

 幹夫はあわてて頭を下げた。

 「おはようございます」

 おばあさんは新芽の上の星の子を見た。

 幹夫には、それが見えているのだとすぐにわかった。おばあさんの目は、驚かず、ただ静かに細められた。

 「今年も来たかね」

 「知っているんですか」

 幹夫が聞くと、おばあさんはうなずいた。

 「一番茶の朝には、ときどき星の子が迷い込む。茶葉があんまり若く光るから、空と間違えるんだよ」

 星の子は、小さく言った。

 「帰りたいけど、怖い」

 おばあさんは、しばらく黙っていた。

 それから茶葉を見た。

 「この芽も怖がっているね」

 新芽がかすかに揺れた。

 おばあさんは、籠を下ろし、茶葉の前に膝をついた。

 「一番というのは、偉い順番じゃない」

 その声は、とても静かだった。

 「一番は、最初に道を作る役目だよ。後に続くものが迷わないように、少しだけ先に朝の光を受ける。でも、道を作るものが怖くないわけじゃない」

 幹夫は、その言葉を胸にしまった。

 一番は、偉い順番ではない。 道を作る役目。

 おばあさんは、茶葉にそっと手を伸ばした。

 「この芽を摘んで、星の子の道を淹れよう」

 幹夫は息をのんだ。

 新芽は、星の子を支えたまま静かだった。

 「いいの?」

 幹夫が聞くと、新芽は小さく答えた。

 「ひとりでは怖い。でも、星の子と一緒なら、少し行ける気がする」

 星の子は新芽を見た。

 「ぼくも、きみと一緒なら、朝へ行ける気がする」

 おばあさんは、指先で新芽の根元に触れた。

 乱暴ではなかった。 急いでもいなかった。

 まるで、葉のほうから離れる時を待っているようだった。

 ぷつん。

 ごく小さな音がした。

 新芽は、おばあさんの手の中にあった。星の子はその上にそっと座っている。

 茶畑全体が、さわ、と鳴った。

 それは別れの音であり、見送りの音だった。

 おばあさんは、近くの小さな茶小屋へ幹夫を招いた。

 そこには古い急須と、湯呑みと、小さな鉄瓶が置かれていた。鉄瓶からは、すでに湯気が立っている。

 「一番茶は、急いではいけない」

 おばあさんは言った。

 「若い葉だからね。熱すぎる湯は驚かせる。人の言葉と同じだよ。出たばかりの言葉には、強すぎる声をかけてはいけない」

 幹夫は、昨日の教室を思い出した。

 作文を読んだ子がつかえた時、笑い声が少し強すぎた。 それだけで、その子の声は震えた。

 出たばかりの言葉。

 自分の言葉も、誰かの言葉も、きっとそうなのだ。

 おばあさんは、湯を少し冷ましてから、急須に注いだ。

 新芽は湯の中でゆっくり開いた。

 星の子は湯気の上に浮かび、少しずつ光を取り戻していく。

 湯気は白く細く立ちのぼった。

 でも、普通の湯気ではなかった。

 湯気の中に、茶畑の朝があった。 冬を越えた根の記憶があった。 雨を待った土の匂いがあった。 そして、星の子が戻るための細い道があった。

 おばあさんは湯呑みにお茶を注いだ。

 淡い金色のお茶だった。

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 若い香りがした。

 青く、やわらかく、少し緊張しているような香り。けれど、その奥に、静かな力があった。

 「幹夫も、ひと口飲みなさい」

 おばあさんが言った。

 「この子たちの道を、地上で受け取る人が必要だから」

 幹夫はうなずき、そっと飲んだ。

 最初に、若い苦みが来た。

 昨日手を挙げられなかった自分の苦み。 一番に読むことを怖がった気持ち。 笑われるのを恐れて、言葉を閉じてしまった苦み。

 けれどすぐに、甘みが広がった。

 一番に出ていくものへの敬意のような甘みだった。 怖くても道を作るものへ、そっと手を合わせたくなるような甘みだった。

 幹夫の胸の中で、昨日の作文が静かに開いた。

 水たまりに映った若葉。 地面の下にも春があるように見えたこと。 それを本当は読んでみたかったこと。

 幹夫は、湯呑みを持つ手に力を込めた。

 「ぼくも、いつか一番に読めるかな」

 誰に聞くでもなく、そう言った。

 おばあさんは微笑んだ。

 「怖いまま読めばいい」

 「怖いまま?」

 「怖さがなくなるのを待っていたら、朝が過ぎてしまうこともある。怖さを連れて、そっと一歩出るんだよ」

 湯気が強くなった。

 星の子が、湯気の道に乗った。

 「ありがとう」

 星の子は、新芽の開いた葉へ向かって言った。

 「ぼく、朝へ行くよ」

 急須の中で、開いた新芽がかすかに揺れた。

 「わたしも、香りになって行くよ」

 星の子は、幹夫を見た。

 「君の作文も、いつか朝へ出ていけるよ」

 幹夫は、目に涙を浮かべながらうなずいた。

 星の子は湯気の道を上り、小屋の屋根を越え、茶畑の上へ出ていった。

 東の空はもう明るい。

 星はほとんど消えている。

 けれど、星の子は一度だけ強くまたたき、朝の光の中へ溶けていった。

 消えたのではない。

 朝へ渡ったのだと、幹夫にはわかった。

 茶小屋の中には、一番茶の香りが残った。

 おばあさんは急須の中を見た。

 開いた新芽は、もう枝に戻ることはない。

 けれど、湯呑みに香りを残し、星の子の道を作り、幹夫の胸にも小さな勇気を置いていった。

 「一番茶って、すごいですね」

 幹夫が言うと、おばあさんは首を横に振った。

 「すごいというより、ありがたいんだよ」

 幹夫は、湯呑みを見つめた。

 たしかに、そう思った。

 その日、学校へ行くと、先生が言った。

 「昨日読めなかった人で、今日読んでみたい人はいますか」

 教室が静かになった。

 幹夫の胸が強く鳴った。

 まだ怖かった。

 笑われるかもしれない。 つかえるかもしれない。 声が震えるかもしれない。

 でも、怖さがなくなるのを待っていたら、朝が過ぎてしまう。

 幹夫は、手を挙げた。

 最初ではなかった。けれど、昨日の自分より一歩だけ前だった。

 作文を読む声は少し震えた。

 水たまりに映った若葉のところで、幹夫は一度つかえた。

 でも、読み終えた。

 教室は静かだった。

 誰も笑わなかった。

 先生が小さくうなずいた。

 すると、昨日一番に読んだ子が、ぽつりと言った。

 「水たまり、見てみたいかも」

 その一言は、幹夫の胸に一番茶の甘みのように広がった。

 窓の外には、五月の光があった。

 空に星は見えない。

 けれど幹夫は知っていた。

 夜明け前、茶畑には小さな星の子が降りることがある。 一番茶の新芽が、怖さを抱えたまま道を作ることがある。 そして人の言葉も、震えながら朝へ出ていくことがある。

 幹夫少年は、読み終えた作文用紙をそっと閉じた。

 紙から、ほんのかすかに一番茶の香りがした気がした。

 
 
 

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