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一番茶の葉っぱ学校

五月の朝、茶畑には小さな学校がひらく。

 そう教えてくれたのは、母だった。

 まだ幹夫がうんと幼く、茶の畝のあいだを走ると、若葉の先の露まで笑っているように見えたころである。母は白い手ぬぐいを頬の下で結び、籠を背負って、朝の茶畑に立っていた。

「一番茶の葉っぱたちはね、幹夫」

 母は、若葉をそっと指で撫でながら言った。

「摘まれる前に、学校へ行くのよ」

「葉っぱが?」

「そう。光の受け方、風に揺れる加減、露をこぼさない眠り方、それから最後に、香りになる練習をするの」

 幹夫は目を丸くした。

「香りになる練習?」

「ええ。葉っぱはね、ただ摘まれてお茶になるんじゃないの。自分の中にある春を、誰かの胸まで届ける練習をするのよ」

 母はそう言って笑った。

 その言葉を聞いたとき、幹夫は本当に、茶の若葉たちが畑のどこかで小さな机に座り、先生の話を聞いている気がした。露の玉を硯にし、光を鉛筆にし、葉脈の上に細かな文字を書いている。風が吹くと、みんなでいっせいに返事をする。

 さわさわ。

 それが、葉っぱ学校の朝の挨拶なのだと思った。

 けれど母は、去年の冬に亡くなった。

 雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病院の白い壁、消毒液の匂い、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことを何も言えなかった。

 ありがとうも。 行かないで、も。 また茶畑へ連れていって、も。

 みんな喉の奥で固まり、声にならなかった。

 母がいなくなってから、幹夫は学校へ行くのが少し苦手になった。

 教室には、たくさんの音がある。机を動かす音、椅子を引く音、黒板にチョークが当たる音、友だちの笑い声。どれも普通の音なのに、幹夫の胸には大きく響きすぎることがあった。

 誰かが軽く言った言葉も、幹夫の中では一日じゅう消えない。

「そんなこと気にするなよ」

「幹夫って、また変なこと考えてる」

「葉っぱが痛いとか、分かるわけないじゃん」

 悪気のない言葉だと分かっている。

 それでも胸は痛んだ。

 幹夫の心は、茶の若葉のように薄かった。少し強く触れられると、そこに跡が残る。風が吹けば揺れる。雨が当たれば震える。父はそんな幹夫を見て、よく言った。

「もう少し、強くならんとな」

 父の声は責めているのではなかった。けれど幹夫には、強くなるということが分からなかった。

 揺れないことだろうか。 痛まないことだろうか。 泣きそうになっても、平気な顔をすることだろうか。

 その年の一番茶の日、幹夫はいつもより早く目を覚ました。

 まだ空は夜の名残を抱いていた。東の山の端だけが、薄く白みはじめている。家の中では、祖母が台所で湯を沸かしていた。父は土間で手ぬぐいを畳み、無言で茶摘み籠を整えている。

「幹夫、今日は少し手伝うか」

 父が言った。

 幹夫はうなずいた。

 けれど、胸は小さく震えていた。

 一番茶の若葉は、冬を越えてようやく出てきた葉だった。霜の朝も、冷たい雨も、山から吹く風も、みんな越えてきた葉。その葉を、幹夫の指が摘んでしまう。そう思うと、指先がこわばった。

 茶畑へ向かう坂道には、朝露が降りていた。

 草の先に小さな水玉が並び、幹夫の靴を濡らした。空にはまだ星がいくつか残っていた。夜と朝のあいだの、ほんの短い時間だった。

 茶畑に着くと、幹夫は息をのんだ。

 畝はやわらかな緑の波となって山裾へ続き、若葉の先には露が宿っていた。朝の光がまだ届く前なのに、葉の一枚一枚が内側から明るんでいるようだった。

 まるで、これから授業が始まるのを待っている子どもたちの顔だった。

 そのとき、幹夫の耳に小さな音がした。

 ちりん。

 鈴の音に似ていた。

 父も祖母も、畑へ入る支度をしている。近所の人たちも、まだ畦道の向こうで声をかけ合っている。誰もその音に気づいていないようだった。

 ちりん。

 もう一度鳴った。

 幹夫は音のする方へ歩いた。畝の奥、古い柿の木の下だった。そこは母がよく休んでいた場所で、平たい石が一つ置かれている。

 石のそばまで来ると、幹夫は目を見開いた。

 茶の木の間に、小さな校舎があった。

 といっても、人間の学校のような大きな建物ではない。茶の枝を柱にし、若葉を屋根にし、露の玉を窓にした、掌に乗りそうな小さな校舎だった。入口には、細い葉脈で編んだ札がかかっていた。

 ――一番茶の葉っぱ学校。

 幹夫は息を止めた。

 校庭には、小さな葉っぱたちが集まっていた。

 どの葉も、茶の若葉だった。真ん中の芽と、その下の柔らかい二枚。みんな淡い緑をして、露を帽子のように乗せている。風が吹くと、列が少し乱れ、またすぐに整う。

「おはようございます」

 どこからか声がした。

 幹夫はしゃがみ込んだ。

 校舎の前に、小さな先生が立っていた。

 それは古い茶の葉だった。若葉より少し濃い緑で、縁には冬を越えたしるしのような薄い傷がある。けれど、その葉脈はしっかりしていて、光を受けると金色に透けた。

「おはようございます」

 葉っぱたちが、いっせいに答えた。

 さわさわ。

 幹夫は胸が熱くなった。

 母の言っていたことは、本当だったのだ。

 葉っぱ学校は、本当にあった。

 古い葉の先生は、幹夫に気づくと、静かにお辞儀をした。

「幹夫さん、ようこそ」

「僕の名前を知っているの?」

「もちろんです。あなたは、よくこの畑で立ち止まっていましたから」

 先生の声は、風が葉の裏を撫でるような音だった。

「ここは、葉っぱの学校なの?」

「はい。一番茶になる葉たちが、最後の朝に学ぶところです」

「最後の朝……」

 幹夫の胸が少し痛んだ。

 先生はうなずいた。

「今日、彼らは摘まれます。けれど摘まれることは、消えることではありません。形を変えて、香りになるための旅の始まりです」

 校庭の葉っぱたちは、静かに揺れていた。

 幹夫は一枚の若葉を見た。ほかの葉より少し小さく、露の玉を重そうに抱えている。葉脈もまだ細く、光を通すと透けてしまいそうだった。

 その葉っぱは、幹夫の視線に気づいたように、かすかに震えた。

「怖いの?」

 幹夫は小さく尋ねた。

 若葉は、さわ、と揺れた。

「少しだけ」

 声が聞こえた気がした。

「摘まれたら、もう空が見えないの?」

 幹夫は答えられなかった。

 すると古い葉の先生が、やさしく言った。

「そのために、今日の授業があります」

 鈴がまた鳴った。

 ちりん。

 一時間目は、「光の授業」だった。

 先生は若葉たちを朝の光の方へ向かせた。東の空から、薄い金色の光が茶畑へ差しはじめている。若葉たちは、その光を一枚一枚の中に受けた。

「光は、ただ浴びるものではありません」

 先生は言った。

「通すものです。自分の中を通って、柔らかくするものです」

 若葉たちは静かに光を受けた。

 幹夫は、自分の胸のことを思った。

 人の言葉も、夕焼けの色も、母の記憶も、幹夫の中へ入りすぎる。入りすぎて苦しくなる。でも、もしそれをただ抱え込むのではなく、光のように通すことができたら。自分の中を通って、少し柔らかくなって外へ出せたら。

 それは、香りになるのだろうか。

 二時間目は、「風の授業」だった。

 山の方から、朝の風が吹いた。葉っぱたちはいっせいに揺れた。中には大きく揺れすぎて、露を落としそうになる葉もあった。小さな若葉も、身を縮めるように震えている。

「風に逆らいすぎてはいけません」

 先生は言った。

「けれど、全部任せてもいけません。折れないために揺れ、飛ばされないために根を思い出すのです」

 幹夫は父のことを思った。

 父はいつも根のような人だった。あまり話さず、黙って畑に立つ。幹夫には、それが時々重く見えた。けれど根があるから、葉は揺れられるのかもしれない。

 幹夫の心はよく揺れる。

 けれど、それは根がないからではなく、風を感じているからなのかもしれない。

 三時間目は、「露の授業」だった。

 若葉たちは、自分の先に乗せた露を見つめた。露の中には、空が逆さまに映っていた。山の影、朝の雲、消え残った星。小さな水の粒の中に、広い世界が入っている。

「露は、長くは残りません」

 先生は言った。

「陽が昇れば消えます。風が吹けば落ちます。けれど、短いあいだに空を映します」

 幹夫は、母の言葉を思い出した。

 露は、消えるものなのに、たくさん映そうとするからきれいなのよ。

 幹夫の目の奥が熱くなった。

 母の声は、もう聞こえない。けれどこうして、別の声の中に戻ってくる。茶畑の先生の声の中に。若葉の露の中に。幹夫が思い出そうとする胸の中に。

 四時間目は、「痛みの授業」だった。

 幹夫は、その名前を聞いたとき、胸がきゅっと縮んだ。

 葉っぱたちも静かになった。

 古い葉の先生は、しばらく茶畑全体を見渡した。それから、ゆっくり言った。

「今日、あなたたちは摘まれます。指が触れます。枝から離れます。怖いでしょう。痛みもあるかもしれません」

 小さな若葉が震えた。

 幹夫も震えた。

「でも、痛みは終わりだけを運ぶものではありません。変わる時には、痛みが伴うことがあります。芽がひらく時も、殻を破る時も、冬から春へ出る時も」

 先生は続けた。

「大切なのは、痛みを受けたあと、自分の中の春を失わないことです」

 幹夫は、母を失った冬を思った。

 その痛みは、幹夫の中にずっとあった。触れれば今でも苦しい。けれど、その痛みの中に母がいたことも確かだった。母の笑顔。母の声。母が茶畑で言った不思議な言葉。

 痛みを全部なくしたら、母のいた春まで失ってしまうのかもしれない。

 幹夫は、小さな若葉にそっと言った。

「怖くても、春はなくならないよ」

 若葉は、かすかに揺れた。

「本当?」

「たぶん」

 幹夫は正直に言った。

「僕もまだ、練習中だけど」

 若葉は少しだけ明るくなったように見えた。

 最後の授業は、「香りの授業」だった。

 校舎の小さな窓から、朝の光が差し込んでいた。葉っぱたちはみんな、静かに先生の前へ集まった。

「香りとは、目に見えない手紙です」

 先生は言った。

「自分が受けた光、耐えた寒さ、抱いた露、揺れた風。そのすべてを、見えない形で誰かへ届けるものです」

 幹夫は息を止めた。

「香りは、強く叫びません。けれど、届きます。遠い人にも、寂しい人にも、言葉をなくした人にも」

 幹夫の胸に、新茶の香りが満ちていく気がした。

 母のいない家で、幹夫は何度もその香りに救われた。悲しみを消してくれるわけではない。けれど悲しみのそばに座ってくれる。泣けない胸を責めず、ただ静かに包んでくれる。

 それが、香りなのだ。

 小さな若葉が、幹夫に尋ねた。

「僕も、誰かに届く?」

「届くよ」

 幹夫は言った。

「たぶん、湯呑みの中で。誰かが疲れて帰ってきた夕方とか、泣きたいのに泣けない夜とか、そういう時に」

「幹夫にも?」

「うん」

 幹夫は微笑んだ。

「僕にも届く」

 そのとき、遠くから父の声がした。

「幹夫!」

 幹夫ははっとした。

 顔を上げると、小さな校舎は朝の光の中で薄くなっていた。葉っぱたちの列も、校庭も、古い葉の先生も、露の窓も、すべてが茶畑の緑に溶けていく。

「待って」

 幹夫は小さく叫んだ。

 古い葉の先生は、最後に言った。

「幹夫さん、あなたも学びましたね」

「僕も?」

「はい。感じる心は、葉っぱ学校の生徒です」

 先生の声は、風の中へほどけた。

「揺れることを恐れず、光を通しなさい。痛みを受けても、春を失わないように。そしていつか、あなたの言葉も香りになります」

 校舎は消えた。

 そこには、いつもの茶畑があるだけだった。

 父が畦道から近づいてきた。

「何をしている。もう摘み始めるぞ」

 幹夫は立ち上がった。

「うん」

 父は幹夫の顔を見て、少し眉を寄せた。

「泣いたのか」

 幹夫は頬に触れた。

 知らないうちに、涙が一筋こぼれていた。

「少し」

「どうした」

 幹夫は茶畑を見た。

 葉っぱ学校のことを話しても、父には分からないかもしれない。けれど、嘘にはしたくなかった。

「葉っぱの授業を聞いてた」

 父は困った顔をした。

「葉っぱの授業?」

「うん。一番茶の葉っぱ学校」

 父はしばらく黙った。

 以前なら、そんなことを言うなと叱ったかもしれない。けれどその朝の父は、朝露の残る茶畑を見渡し、低く言った。

「母さんが言いそうなことだな」

 幹夫は父を見た。

「お母さん、言ってたよ。葉っぱは摘まれる前に学校へ行くって」

 父は少しだけ目を伏せた。

「そうか」

 幹夫は勇気を出して言った。

「お父さん」

「なんだ」

「僕、摘むのが怖かった」

「うん」

「でも、摘まれる葉っぱは消えるんじゃなくて、香りになるって、少し分かった」

 父は幹夫の言葉を、すぐには返さなかった。

 朝の光が、父の横顔を照らしていた。父の頬には、仕事で刻まれた皺があった。幹夫はその皺の中にも、父が言えなかった言葉や、母を思う寂しさがしまわれているように感じた。

「怖いなら」

 父はゆっくり言った。

「ゆっくり摘め」

 幹夫は驚いた。

「いいの?」

「最初から早くなくていい。葉を傷つけない手を覚えろ」

 その言葉が、幹夫の胸に温かく入ってきた。

 幹夫はうなずいた。

 畝の前に立つ。

 真ん中の芽と、その下の柔らかい二枚。

 一芯二葉。

 幹夫は指を伸ばした。若葉にはまだ少し露が残っていた。触れるとひんやりした。けれど前ほど怖くはなかった。

 小さな若葉が、さわ、と揺れた気がした。

 幹夫は心の中で言った。

 おはよう。 ありがとう。 いってらっしゃい。

 そして、そっと摘んだ。

 若葉は音もなく幹夫の指に収まった。

 籠の中へ置くと、その一枚はほかの葉と一緒になった。もうどれがさっきの若葉か分からない。けれど幹夫には、その中に葉っぱ学校の声が残っているように思えた。

 午前中、幹夫はゆっくり茶を摘んだ。

 父のように早くはできなかった。祖母のように迷いなく指を動かすこともできなかった。それでも、一枚一枚に触れるたび、幹夫は授業を思い出した。

 光を通すこと。 風に揺れること。 露を映すこと。 痛みのあとも春を失わないこと。 香りになること。

 昼前、籠の中には若葉がふんわり積もっていた。

 青い香りが立った。

 幹夫はその香りを吸い込み、胸の奥が静かに震えるのを感じた。震えは消えない。けれど、その震えを少しだけ嫌いではなくなっていた。

 茶畑の端で握り飯を食べていると、祖母が幹夫の隣に座った。

「今日は、ずいぶん丁寧に摘んでいたね」

「遅かった?」

「遅いけれど、乱暴じゃなかった」

 祖母は笑った。

「一番茶には、それも大事だよ」

 幹夫は少し照れた。

「おばあちゃん」

「なんだい」

「葉っぱ学校って、本当にある?」

 祖母は握り飯を食べる手を止めた。

「幹夫が見たなら、あるんだろうね」

「お母さんが言ってたんだ」

「そうだろうねえ。あの子は、茶畑の中にいろんな学校や駅や郵便局を見つける子だった」

 幹夫は笑った。

 祖母は茶畑を見ながら言った。

「でもね、幹夫。人間も葉っぱ学校に通うことがあるんだよ」

「人間も?」

「悲しいことがあった時。怖いことがある時。変わらなければならない時。そういう時、人はみんな葉っぱ学校の生徒になる」

 幹夫は、父の背中を見た。

 父は少し離れたところで、黙ってお茶を飲んでいた。大きな背中だった。けれどその背中も、母を失ってからずっと、何かを学び続けているように見えた。

 父も葉っぱ学校の生徒なのかもしれない。

 言葉にする練習。 寂しさを抱えたまま働く練習。 幹夫の心へ、乱暴に触れない練習。

 そう思うと、父が少し近くなった。

 夕方、摘んだ葉は製茶場へ運ばれた。

 蒸気が白く上がり、茶の葉の青い香りがいっそう深くなった。若葉は熱を受け、揉まれ、細く撚られ、少しずつ姿を変えていく。

 幹夫はその様子を見つめた。

 葉っぱ学校を卒業した葉たちが、香りになる練習の続きをしているようだった。

 夜、祖母がその日の新茶を少しだけ淹れてくれた。

 湯呑みに注がれた茶は、淡い緑色をしていた。仏壇の母の写真の前にも、小さな湯呑みが置かれた。湯気が白く立ち、写真の母の顔をやわらかくぼかした。

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 一口飲む。

 最初に、若い苦みが舌に触れた。

 それは、若葉が枝を離れるときの怖さのようだった。母を思い出すときの胸の痛みのようでもあった。

 けれど、そのあと甘みが戻ってきた。

 ゆっくりと。

 春の光が、葉の中を通ってくるように。

 幹夫は目を閉じた。

 茶の中に、葉っぱ学校があった。

 露の窓。 光の授業。 風の授業。 古い葉の先生。 小さな若葉の「怖い」という声。 母の笑顔。 父の「ゆっくり摘め」という言葉。

 全部が、その一杯の中に入っていた。

「おいしいか」

 父が尋ねた。

「うん」

「どんな味だ」

 幹夫は少し考えた。

「卒業式の味」

 父は首をかしげた。

「葉っぱ学校のか」

 幹夫は驚いて父を見た。

 父は湯呑みを見たまま、少しだけ笑っていた。

「お父さん、信じるの?」

「見たわけじゃない」

 父は言った。

「だが、今日のお前の手は、何か習ってきた手だった」

 幹夫の胸が熱くなった。

 祖母が静かに笑った。

 その夜、幹夫は机に向かった。

 白い紙を出し、鉛筆を握った。学校の宿題ではなかった。けれど、どうしても書きたかった。

 ――今日、一番茶の葉っぱ学校へ行きました。

 字は少し震えていた。

 けれど幹夫は、その震えを消さなかった。震える字には、朝の露が入っている。若葉に触れる怖さが入っている。母の言葉を思い出した痛みも、父に少し分かってもらえた温かさも入っている。

 ――葉っぱたちは、摘まれる前に授業を受けていました。 ――光を通すこと、風に揺れること、露を映すこと、痛みのあとも春を失わないこと、香りになることを学んでいました。 ――僕も少しだけ一緒に学びました。 ――僕の心は、茶の若葉みたいに薄くて、すぐ揺れます。 ――でも、薄いから光を通せるのかもしれません。 ――揺れるから風を知れるのかもしれません。

 幹夫は窓の外を見た。

 茶畑は闇に沈んでいた。

 けれど香りがある。

 見えない葉たちが、夜の中で静かに息をしている。

 幹夫は続きを書いた。

 ――摘まれることは、消えることではありませんでした。 ――葉っぱは形を変えて、香りになります。 ――悲しいことも、すぐには分からないけれど、いつか香りになることがあるのかもしれません。 ――お母さんがいない痛みも、僕の中で少しずつ形を変えて、誰かにやさしくできる力になればいいと思いました。

 最後に、こう書いた。

 ――葉っぱ学校は、茶畑の中にありました。 ――でも、本当は僕の胸の中にもありました。 ――これからも怖いことや悲しいことがあるたび、僕はまたそこへ通うのだと思います。 ――一番茶の葉っぱたちのように、春を失わずに香りになる練習をするために。

 書き終えると、幹夫は紙を畳まずに机の上へ置いた。

 窓を開けると、夜風が入ってきた。

 茶畑の方から、さわさわと音がした。

 それは、葉っぱ学校の生徒たちが、夜の教室で小さく復習している音のようだった。

 幹夫は耳を澄ませた。

 どこか遠くで、鈴が鳴った気がした。

 ちりん。

 幹夫は静かに微笑んだ。

 そして胸の中で、小さく返事をした。

 ――はい。

 それは、誰にも聞こえない、けれどたしかに幹夫の中で始まった、新しい授業の声だった。


 
 
 

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