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一筋の誇り

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月29日
  • 読了時間: 7分

 東京近郊の町工場がひしめき合う下町の一角に、「沢渡(さわたり)精機」という会社があった。創業三十年、従業員は十数名とこぢんまりしているが、複雑な金属加工では定評がある老舗だ。創業者の沢渡修造(しゅうぞう)は頑固一徹。図面上では不可能とされた加工をいくつも成功させ、その腕を見込んだ大手メーカーが競うように発注をかけてくる時期もあった。

 しかし、近年は世界的なコスト競争が激化し、大手メーカーが掲げる“合理化”の名の下に、下請企業への締めつけが強まっている。 沢渡精機にとって最も大口の取引先だったのが、自動車部品メーカー大手の「エーステック」。技術力は高いものの、購買部主導のコストカットが苛烈で、下請企業に対して一方的な価格引き下げや仕様変更を通告する事例が相次いでいた。

「親父、エーステックからまたメールが来た。今度は納期の前倒しだってさ。おまけに一〇%のコストダウンも求めてる」

 工場の一角にある事務所で、沢渡修造の息子・誠(まこと)が息を切らせながら資料を差し出す。 修造は机に肘をつき、頑丈そうな眉間に皺を寄せた。「またか……この前、契約書で合意した条件はどうした。いくらなんでも月に二度も三度も、後出しジャンケンばかりじゃたまらんぞ」「下請法にも触れるんじゃないか? 一方的に納期も値段も変えられちゃ、うちだってやっていけない。けど、突っぱねたら取引切られるかもしれない……」

 沢渡精機の年間売上の四割近くをエーステック向けが占める。無下にはできないが、最近のやり方は度を越している。

 翌週、父と息子はエーステックの本社ビルに向かった。高層ビルの最上階近く、購買部の応接室で待っていたのは購買部長の門脇だ。長身に鋭い眼光で、理論武装と無駄のない身のこなしが特徴的だった。

「沢渡さん、ご無沙汰しています。今回の件ですが、弊社としては納期短縮とコストダウンはどうしても避けられない。海外との価格競争で勝ち残るためです。ご理解いただけますよね?」

 門脇はまるで「これが当然だ」と言わんばかりに言い放つ。「理解はしますが、急な仕様変更や値下げの要求は我々にとって死活問題です。下請法の観点からしても……」「そうですね、法的に抵触しないよう十分配慮しているつもりです。ただし、合意していただけないのであれば、残念ですが次の発注は難しいかもしれません」

 門脇の言葉は淡々としているが、その意味するところはあまりに冷酷だった。取引停止をちらつかせられれば、多くの下請企業は黙って従わざるを得ない。修造はぎりっと奥歯を食いしばりながら深く頭を下げるしかなかった。

 沢渡精機に戻ってから、修造は加工現場で立ち尽くした。いつもは黙々と作業する熟練工たちの姿を見ながら、工場の空気に沈鬱な空気が漂っているのを感じる。 最近の度重なる取引条件の変更により、従業員たちの労働時間は増える一方、利益率は下がりっぱなし。これでは次の投資どころか、給与を維持するのも難しくなる。熟練工が流出すれば、長年培ってきた技術力も一気に失われるだろう。

 そんな父の背中を、誠が心配そうに見つめる。「親父、俺……こんなやり方は絶対におかしいと思う。公正取引委員会や中小企業庁に相談することだってできるんだ。匿名で通報する方法もある。だけど、実際やったらエーステックに知られて、取引を切られるかもしれないよな」「そうだな。だが……このまま言いなりになっていたら、うちはじわじわ首を絞められるだけだ。技術を守るためには何をするべきか、もう一度考え直す必要がある」

 修造の声には、長年職人として生きてきた矜持(きょうじ)が混じっていた。

 そんな折、誠は地元の商工会議所で行われる中小企業向けの相談会に足を運んだ。こぢんまりとした会議室で、公正取引委員会の担当官や弁護士、中小企業診断士が無料相談を受け付けている。 誠はエーステックとの具体的なやり取り――メールやFAX、仕様書の控えなどを示しながら、下請法違反の可能性が高い行為が相次いでいることを話した。担当官は真剣な眼差しでメモを取り、こう告げた。「匿名通報の仕組みがあります。企業名を出さずに、まずは調査を促すような形を取ることも可能ですよ。もちろん、リスクがゼロとは言いませんが……」

 誠は迷いながらも、ここで行動を起こさなければ何も変わらないと悟った。下請企業が個別に戦っても、相手は巨大企業だ。だが、泣き寝入りを続けていれば、沢渡精機だけでなく、同じように苦しむ町工場は報われない。

 数週間後、公正取引委員会がエーステックの取引慣行に関する調査を開始したというニュースが業界内を駆け巡った。過去にも購買部による不当な返品や仕様変更強要が噂になっていたが、表立った問題として取り沙汰されるのは初めてだった。

 当然、エーステックの購買部長である門脇のもとには、公取からのヒアリング要請が届いた。彼は社内各所を駆け回り、過去の契約書ややり取りの資料を集め始めたが、その中には沢渡精機との一方的な発注条件変更を示すメールが明白に残されていた。 上層部は「これ以上騒ぎを大きくするな」と門脇を叱責。メディア露出を避けるために必死の対応を命じる。しかし一度動き出した調査は、そう簡単には止まらない。

 エーステックからの受注が減ることは覚悟の上で、修造と誠は並行して新規取引先を開拓するため奔走していた。町工場が多い下町ネットワークや、商工会議所の紹介を頼りに、中堅メーカーや海外企業への売り込みを始めたのだ。「若社長、沢渡精機さんの“金属加工の匠”っぷりは聞いてますよ」 商社の担当者が嬉しそうに言う。実際、沢渡精機の職人技にはどこも一目置いている。だが、それを売り込む努力をせずに、エーステック一本足打法で長年やり過ごしてきたのも事実だった。

「俺たちは職人だからなんて言って、営業を怠ったツケかもな」 誠がそうつぶやくと、修造は静かにうなずいた。「だが、まだ遅くはない。工場の技術を必要としてくれる相手は必ずいる。誰かに頼まれなくても、俺たちでこの技術を守っていくしかないんだ」

 やがて公正取引委員会の調査の結果、エーステックが下請法違反の疑いで警告を受けることになった。今後同様の行為を繰り返せば、さらなる処分もあり得るという。メディアの一部もこれを取り上げ、下請いじめの構造が浮き彫りになった。

 門脇購買部長は社内で厳重注意処分となり、更迭の噂も流れている。業界大手であるエーステックのイメージダウンは大きく、急いで取引先との関係修復に動き始めた。下請企業からの信頼を失うことは、結果的に自社の技術基盤をも失うことになるからだ。

 一方の沢渡精機にもエーステックからの再契約条件の打診があったが、修造と誠はすぐには首を縦に振らなかった。「俺たちが必要だと言うなら、その分の適正な対価を払ってもらう。それができるなら取引を続けるし、できないならこちらからお断りする」 誠は覚悟を決めていた。修造も「それでいい」とうなずいた。

 もちろん、下請企業にとって大企業との取引は今後も大切だ。だが、かといって技術と誇りを曲げてまで付き合う必要はない。 工場では、いつも通り熟練工たちが金属を削り、磨いている。そこで培われる技術は、どんな時代になっても決して色あせない大切な価値だ。そして沢渡精機には、その価値を本当にわかってくれる相手を探し出す力がある――そう信じることができた。

 打ち合わせの帰り道、工場の煙突から上がる白い湯気を見つめながら、誠はふと笑みをこぼす。「さあ、やるぞ。下請だからって甘く見られるほど、俺たちはやわじゃない」

 ガランとした事務所に戻ると、修造が静かに、しかし力強い声で言った。「ここからだ。俺たちが進むのはこれまでと違う道かもしれないが、胸を張っていこうぜ」

 エーステックという巨大な壁に挑み、新たな一歩を踏み出す沢渡精機。技術と誇りを糧に、これからの下町を照らす小さな光を目指して、父と息子は歩み始めるのだった。

 
 
 

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