三人を殺した肉は、まだ焼けていない
- 山崎行政書士事務所
- 5月14日
- 読了時間: 14分

草薙駅の南口に、雨は斜めに落ちていた。
夜の八時四十七分。清水区草薙の細い通りに、赤色灯が幾重にも反射している。湯気の立つアスファルト、野次馬の傘、救急隊員の怒号。その中心に、炭火焼肉店《灯火苑》の看板があった。
七輪の絵が描かれた暖簾は半分ちぎれ、入口には食べかけの肉を吐き出した客が震えて座り込んでいる。
「食中毒だってよ」「三人、死んだらしい」「焼肉屋で? まさか肉か?」
誰かの声が、雨の中で腐った噂のように広がった。
清水署刑事課の風間丈は、規制線をくぐった瞬間、胃の底が冷えるのを感じた。
肉の焦げる匂いが、しない。
焼肉店の事件現場に入ったのに、鼻に刺さったのは炭でも脂でもなかった。古い紙と、濡れた木材と、かすかな薬品の匂い。
「風間さん」
後輩の森下澪が、濡れた前髪を手で押さえながら駆け寄ってきた。彼女は冷静な鑑識出身で、感情をあまり表に出さない。だが今夜だけは、唇の色が悪かった。
「死亡者は三名。個室が三つ。いずれも男性。倒れた時間はほぼ同時です」
「他の客は?」
「軽い吐き気を訴えている人はいます。でも、命に関わる症状はなし。店員も無事です」
「三人だけ、か」
風間は店内を見回した。
テーブルの上には、まだ赤いままの肉が並んでいた。炭火の網に載せられたカルビは、端だけがわずかに縮れている。死んだ客たちは、ほとんど肉を食べていなかった。
なのに世間は、もう決めていた。
食中毒。
焼肉屋が悪い。
肉が殺した。
その言葉を聞いた瞬間、風間の胸に二十年前の記憶がよみがえった。
父の店も、同じ言葉で潰された。
清水で小さな精肉店を営んでいた父は、ある児童施設の給食事故で責任を負わされた。食中毒。汚れた肉。ずさんな管理。新聞はそう書いた。父は否定し続けたが、誰も耳を貸さなかった。
最後に父は、店の奥で首を吊った。
風間は拳を握った。
「肉じゃない」
「え?」
「こいつは食中毒じゃない」
澪が目を細める。
「まだ鑑識結果は出てません」
「見れば分かる」
風間は、三つの個室のうち一番奥へ入った。
被害者の名は、岩瀬義隆。元県衛生管理課の幹部。退職後は食品衛生コンサルタントとして講演をしていた男だ。
テーブルには、上タン、カルビ、ロース。注文履歴も普通だった。だが風間は、肉より先に別のものを見た。
割り箸袋。
白い紙袋に、赤い小さな判が押されている。
三名様限定。
「澪、他の二人の席にもこれがあるか?」
澪は数秒後、別の個室から戻ってきた。
「あります。同じ判です」
「店のものか?」
「店主は知らないと言っています。今日の開店前、箸箱に混ざっていた可能性があると」
風間は割り箸袋をつまみ上げた。
裏側に、細い文字があった。
――肉はまだ焼けていない。
背筋を冷たいものが走った。
挑発だ。
誰かが、この死を料理している。
*
《灯火苑》の店主、矢代灯里は三十二歳だった。
泣き腫らした目で、彼女は警察署の取調室に座っていた。手はずっと震えている。だが、風間の質問には一つずつ丁寧に答えた。
「三人のお客様は、予約名が違いました。岩瀬様、黒羽様、真壁様。お知り合いには見えませんでした」
「三人とも初来店?」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「来店したとき、全員、封筒を持っていました。古い茶封筒です。席に着いてから開けて、顔色が変わって……」
「封筒は?」
「分かりません。救急車が来たときには、もう」
誰かが持ち去った。
風間はそう思った。
「あなたの店に恨みを持つ人間は?」
灯里は下を向いた。
「父は、昔、精肉業をしていました。でも二十年前の事件で……」
風間の胸が小さく跳ねた。
「草薙いずみ園の給食事故か」
灯里は驚いた顔を上げた。
「ご存じなんですか」
「俺の父も、その事件で潰された」
沈黙が落ちた。
雨音だけが、窓を叩いていた。
草薙いずみ園。
二十年前、清水区にあった小さな児童施設。給食後、子どもたちが次々と倒れた。公式には食中毒とされた。死者一名。責任は納入業者と調理担当者に押し付けられた。
風間の父の精肉店。
灯里の父の加工場。
そして、当時の調査をまとめたのが岩瀬義隆だった。
死んだ一人目。
風間は呼吸を整えた。
「他の二人、黒羽と真壁は?」
澪が資料を差し出した。
「黒羽聖一。元製薬会社役員。二十年前、草薙いずみ園に寄付をしていた財団の理事です。真壁総一郎。弁護士。当時、施設側の代理人でした」
三人は無関係ではなかった。
同じ古い闇を共有していた。
そして今夜、同じ店で死んだ。
「風間さん」
澪が声を低くした。
「これ、ただの復讐じゃありません。犯人は相当頭が切れます。監視カメラは三つの個室前だけ、六十四秒間ずつ映像が飛んでいました。注文端末も、その時間だけ通信記録が消えています」
「店内にハッキングできる人間か」
「それだけじゃありません。三人の死亡推定時刻は、二十時四十三分から四十四分の間。別々の個室で、ほぼ同時です」
風間は割り箸袋の赤い判を思い出した。
三名様限定。
「犯人は、三人を一つの皿に並べたんだ」
*
翌朝、事件は全国ニュースになった。
清水区草薙の焼肉店で集団食中毒か。三名死亡。保健所立ち入り。店の衛生管理に問題か。
《灯火苑》の前には報道陣が群がった。ネットでは店主の灯里を罵る言葉が飛び交った。
風間は署の廊下で、上司の沼田警部に呼び止められた。
「風間、余計なことをするな」
「余計なこと?」
「世間は食中毒で納得している。店の管理責任を調べればいい」
「三人は肉を食う前に死んでいます」
「鑑識結果が出るまで断定するな」
「なら、食中毒とも断定しないでください」
沼田の目が鋭くなった。
「お前は二十年前のことを引きずりすぎだ」
風間は黙った。
引きずっている。
父の死も、母が夜中に泣いていた声も、精肉店のシャッターに赤いスプレーで書かれた「人殺し」の文字も、全部。
だが、だからこそ分かる。
食中毒という言葉は、ときに毒より人を殺す。
風間は署を出て、草薙へ戻った。
店の裏手で、灯里が一人、割れた植木鉢を片付けていた。誰かが投げつけたのだろう。彼女の手の甲から血が出ていた。
「やめろ。素手で触るな」
風間がハンカチを差し出すと、灯里は小さく笑った。
「刑事さん、怖い顔なのに優しいんですね」
「怖い顔は生まれつきだ」
「父も、そう言っていました。無口で、怖い顔で。でも、子どもにはいつも肉を一枚多く焼いてくれる人でした」
風間は店の中を見た。
壁には、古い写真が飾られていた。灯里の父らしい男が、若いころの風間の父と肩を組んでいる。
風間は息を止めた。
「これは?」
「父の宝物です。二十年前、一緒に商売していた精肉店さんだって」
写真の中の父は笑っていた。
風間の記憶にある父は、いつも疲れた背中をしていた。だが写真の父は違う。誇らしげで、温かくて、肉を扱う仕事を心から愛している顔だった。
胸が詰まった。
父は、人を殺すような肉を売る男ではなかった。
そのとき、澪から電話が入った。
「風間さん、三人のスマホから同じ画像が見つかりました」
「画像?」
「子どもの絵です。七輪の上に、肉じゃなくて、小さな家が描かれている。裏に文字があります」
「読んでくれ」
澪は一拍置いた。
「ぼくを、みつけて」
*
子どもの絵は、二十年前の草薙いずみ園の記録ファイルに挟まれていたものだった。
描いたのは、久能真楠。
当時八歳。
知能検査で測定不能に近い数値を出し、施設では「マックス」と呼ばれていた。だが給食事故の後、所在不明になっている。
死者は一名とされていた。
少女、久能小夜。
真楠の妹。
風間と澪は、県の古い倉庫に保管されていた資料を洗った。公式記録には、曖昧な空白が多すぎた。
事故当日の給食写真がない。
検査に出された食材の一部が紛失。
小夜の遺体写真が一枚もない。
そして、調査会の署名欄には、今夜死んだ三人の名があった。
岩瀬義隆。
黒羽聖一。
真壁総一郎。
「食中毒は偽装だったのか」
澪がつぶやいた。
風間は資料の端を握りしめた。
「父たちは、濡れ衣を着せられた」
「でも、なぜ今になって三人を殺す必要があるんでしょう」
「必要があったんじゃない」
風間は子どもの絵を見た。
七輪の上に描かれた小さな家。
その煙突から、黒い煙が出ている。
「犯人にとっては、これが唯一の方法だったんだ」
その夜、風間の自宅ポストに茶封筒が入っていた。
差出人はない。
中には、古びたメニュー表が一枚。
《炭火焼肉 灯火苑》
開店前の試作メニューらしい。裏には、細い字で一文だけ書かれていた。
――四人目は、あなたが焼く。
風間は背筋が凍った。
四人目。
三人は死んだ。
では、四人目とは誰だ。
自分か。
灯里か。
それとも、二十年前に本当は死んだはずの誰かか。
*
翌日、灯里が消えた。
店の防犯カメラには、閉店した《灯火苑》に一人の男が入る映像が残っていた。フードを深くかぶり、顔は見えない。
ただ、歩き方が奇妙だった。
右足を少し引きずっている。
澪が映像を拡大した。
「この男、二十年前の施設記録に似た人物がいます」
画面に、古い写真が並ぶ。
小さな少年。
久能真楠。
事故後、行方不明。
今なら二十八歳前後。
「生きていたのか」
風間はつぶやいた。
そのとき、署内のモニターが一斉に乱れた。
砂嵐の中から、少年のような声が聞こえた。
「風間刑事」
全員が凍りついた。
「肉はまだ焼けていない。あなたなら分かるでしょう。食べたものではなく、隠したものが人を殺す」
「真楠か」
風間がモニターに向かって言った。
「灯里さんをどこへやった」
「彼女は知りすぎた。でも、殺してはいません。ぼくは三人しか殺していない」
「なぜだ」
声は笑った。
乾いた、寂しい笑いだった。
「三人は、妹を埋めた。あなたの父を殺した。灯里さんの父を壊した。それなのに、二十年間、肉を食べ、酒を飲み、講演で拍手を浴びた」
「復讐か」
「違う」
モニターの砂嵐が止まり、一枚の地図が映った。
《灯火苑》の地下図面。
その下に、さらに古い建物の見取り図が重なっていた。
草薙いずみ園。
風間の血が冷えた。
焼肉店は、二十年前の施設跡地に建っていた。
「ぼくの妹は、まだそこにいる」
真楠の声が低くなった。
「誰にも見つけてもらえないまま、あなたたちが毎晩、火をつける床の下で」
*
風間は《灯火苑》へ走った。
雨は止んでいたが、空は鉛のように低かった。店の前には規制線が張られている。風間はそれをくぐり、地下倉庫へ降りた。
古い冷蔵庫。
使われていない換気口。
コンクリートの床。
その中央に、灯里が縛られて座っていた。口には布を噛まされているが、意識はある。
そして、その奥に男が立っていた。
痩せた体。
濡れた黒髪。
異様に静かな目。
「久能真楠」
「風間刑事」
真楠は微笑んだ。
「あなたの父は、最後まで嘘を認めなかった。立派な人でした」
風間は拳を握った。
「お前が三人を殺したのか」
「はい」
「どうやって」
「それを言えば、また誰かが真似をする。だから、言いません。ただ、肉ではありません。店でもありません。あの三人だけが、自分の罪と一緒に飲み込むよう設計しました」
真楠は床を指差した。
「ここを掘ってください。妹がいます」
「なら最初から警察に言えばよかった」
「言いました」
真楠の声が、初めて震えた。
「十五歳のとき。十八歳のとき。二十三歳のとき。資料を送りました。絵も、図面も、証言も。返事はありませんでした。三人が生きていたからです。三人が、すべてを握り潰していたからです」
「だから殺したのか」
「殺せば、あなたが来ると思った」
「俺?」
「あなたは、食中毒という言葉を憎んでいる。あなたなら、肉を疑わない」
風間は言葉を失った。
犯人は、最初から自分を選んでいた。
父の死も、怒りも、刑事になった理由も、すべて読まれていた。
「ふざけるな」
風間の声が低く響いた。
「人を三人殺して、俺を探偵役にしたのか」
「三人ではありません」
真楠は静かに言った。
「二十年前から数えれば、もっと多い。小夜。あなたの父。灯里さんの父。罪を背負わされて死んだ人たち。壊された家族たち」
「それでも、お前が殺していい理由にはならない」
真楠の目から、涙が一筋落ちた。
「分かっています」
その瞬間、地下倉庫の奥で火花が散った。
古い配線が燃え始めたのだ。真楠は事前に仕掛けていたらしい。煙が天井を這う。
「ここで終わらせます。妹の上で、ぼくも焼ける」
「馬鹿野郎!」
風間は灯里の縄を切り、彼女を澪に託した。澪は駆けつけた応援とともに灯里を外へ運ぶ。
真楠は炎の向こうに立っていた。
「近づかないでください」
「黙れ!」
風間は煙を吸い込みながら前へ出た。
「お前は天才かもしれない。人の心を読んで、機械を操って、三人を殺せる頭を持っているのかもしれない」
炎が棚を舐めた。
「でもな、お前はまだ子どものままだ。妹を見つけてほしくて、泣いている八歳の子どもだ」
真楠の顔が歪んだ。
「来るな」
「来るに決まってるだろ」
風間は炎の熱に顔をしかめながら、一歩ずつ近づいた。
「俺の父は、肉を焼くとき、いつも言っていた。焦ってひっくり返すな。ちゃんと待て。肉も、人も、火に任せたら台無しになるってな」
「ぼくはもう台無しです」
「違う」
風間は真楠の胸倉をつかんだ。
「お前は罪を犯した。償え。生きて償え。死んで妹に会えると思うな。妹が望んだのは、兄貴が燃えることじゃない」
真楠は抵抗しなかった。
膝から崩れ落ち、声を殺して泣いた。
風間は彼を抱えるようにして、煙の中から引きずり出した。
*
三日後。
《灯火苑》の地下から、小さな白骨が見つかった。
身元は久能小夜。二十年前、草薙いずみ園の事故で死亡したとされていた少女だった。
だが司法解剖の結果、彼女の死因は食中毒ではなかった。
施設の不正、製薬会社の隠蔽、弁護士による証拠処分、衛生担当者による虚偽報告。三人の死によって、二十年前の嘘はようやく掘り起こされた。
風間の父と、灯里の父の名誉も回復された。
だが、それで失われた時間が戻るわけではなかった。
《灯火苑》は営業停止になった。灯里は店の前で、割れた看板を見上げていた。
「また、ここで店を開けると思いますか」
風間は隣に立った。
「開けるさ」
「人が死んだ店です」
「人の嘘が死んだ店でもある」
灯里は少しだけ笑った。
「刑事さん、やっぱり怖い顔なのに優しいですね」
「だから生まれつきだ」
風間はポケットから一枚の写真を出した。
若いころの父と、灯里の父が肩を組んでいる写真。
「コピーを取った。原本は返す」
「ありがとうございます」
「この二人が笑ってた店なら、また火はつけられる」
灯里は写真を胸に抱いた。
風間は空を見上げた。
草薙の空は、事件の夜と違って澄んでいた。遠くで電車の音がする。街は少しずつ日常へ戻ろうとしていた。
*
久能真楠は、清水署の留置場で取り調べを受けていた。
彼はすべてを認めた。
三人を殺したこと。
清水署の通信を妨害したこと。
灯里を拉致したこと。
だが最後に、風間は一つだけ聞いた。
「なぜ、俺に封筒を送った」
真楠は痩せた顔で微笑んだ。
「あなたにだけは、分かってほしかったからです」
「何を」
「食中毒という言葉で殺された人間は、毒が抜けたあとも、ずっと苦しむということを」
風間は黙った。
「でも、もう一つ理由があります」
真楠は机の上で、指を組んだ。
「あの三人を殺す計画は、完璧でした。誰にも解けないはずだった。けれど、どこかで止めてほしかった」
「止めてほしかった?」
「ぼくは、妹を見つけたかった。でも本当は、誰かに言ってほしかったんです。もう焼かなくていい、と」
風間は長い間、何も言えなかった。
天才と呼ばれた男は、世界を憎んでいたのではない。
ただ、二十年前の夜から一歩も出られなかった。
妹の小さな体が冷たい床下に眠り、自分だけが生き残った。その罪悪感を、復讐という形に焼き固めた。
知能指数がどれほど高くても、人は悲しみから逃げ切れない。
風間は立ち上がった。
「真楠」
「はい」
「お前の罪は消えない」
「分かっています」
「でも、小夜さんは見つかった」
真楠の目が揺れた。
「これからは、妹のためじゃなく、お前が殺した三人のためでもなく、お前自身の罪のために生きろ」
真楠は、初めて子どものように泣いた。
*
数か月後。
草薙の通りに、小さな灯りが戻った。
《灯火苑》の看板は変わっていた。
新しい店名は、《こもれび》。
開店初日、店の前には花が並んだ。風間は勤務明けに、澪と一緒に店を訪れた。
「刑事さん、いらっしゃいませ」
灯里が笑った。
厨房の奥では、若い店員が緊張した顔で肉を並べている。炭に火が入る。じゅう、と脂の落ちる音がした。
風間は目を閉じた。
今度は、肉の焼ける匂いがした。
それは恐怖の匂いではなかった。
誰かの暮らしが、また始まる匂いだった。
澪が小声で言う。
「風間さん、泣いてます?」
「煙だ」
「まだ肉、焼いてませんけど」
「うるさい」
灯里が笑い、澪も笑った。
風間は網の上の肉を見つめた。
二十年前の嘘は暴かれた。
三人の死は許されない。
真楠の罪は消えない。
それでも、火は人を焼くだけではない。
冷えきった心を、もう一度温めることもある。
風間は箸を取った。
白い箸袋には、赤い判の代わりに、灯里の手書きの文字があった。
――ちゃんと焼けるまで、待ってください。
風間は少し笑った。
そして静かに、肉を網に置いた。





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