三保の松と富士山
- 山崎行政書士事務所
- 1月12日
- 読了時間: 6分

朝焼けがまだ淡く、海風が少し肌寒い頃合い。三保の松原の砂浜には人影がまばらで、静かな波の音が耳にやさしくしみ込んでくる。その浜辺に立つと、まるで絵画のように富士山がうっすらと輪郭を見せていた。柔らかな光が頂を照らして、白い雪と群青の稜線をぼんやり浮かび上がらせている。
圭一はカメラを肩に下げて、その光景をじっと見つめていた。風景写真家として、三保の松原のあの有名な松々と富士山を同じフレームに収めたかったのだが、この朝は富士の姿だけが彼の注意を引いた。まるで富士山自体が呼びかけているかのように感じられ、シャッターを切るタイミングすら迷うほど、目の奥に熱がこもる。
そんなとき、視界の端で、砂浜の上に不自然な凹みがあることに気づいた。そこでふと足を向けると、奇妙な石が埋まっている。軽く掘り出してみると、その石には何か文字が刻まれていた。 目を凝らすと、“羽衣を返せ”と読める。まさか……三保の松原には“羽衣伝説”がある。**「天女が羽衣を掛けた松」**の話は地元ではとても有名だ。だが、こうして石に刻まれた訴えのような言葉がひっそりと埋まっているなんて、少なからず不気味だ。
「どういうことだろう……?」 と、圭一は砂を払いながら小声で呟く。神秘的な予感が胸をかすめて、彼はこの小さな謎を放っておけなくなった。
一.歴史家との出会いと調査の始まり
その日の午後、圭一は地元の**歴史家の葛城(かつらぎ)**を訪ね、見つけた石と刻まれた文字のことを相談してみる。葛城は顎に手をやって考え込み、しばらく無言で石を見つめた後、「古い文字……確かに“羽衣を返せ”と読める。どうやら江戸期以前の筆跡を模しているように思えるが、詳しくはまだわからないね」と言った。 「三保の羽衣伝説は、あくまで天女の話。なのに、この石はまるで誰かの嘆願のように見えませんか?」と圭一が問いかける。葛城は静かに頷く。 「そうかもしれない。もしかすると、昔の人が天女の伝説に何か私的な願いを重ねていたのか……。あるいは、別の何かが伝説として利用されたのかもしれない。」 そう言う声には、興味だけでなく微かな戸惑いも滲む。神話や民話の裏側には、往々にして人間の切実な想いが隠れているもの。それは時に、表向きは美しい伝説の陰で、つらい歴史や哀しみを覆い隠しているのだ。
二.三保の松と富士山の伝わる伝説
夜、圭一は葛城から借りた古文書を読みふける。そこには三保の松原と富士山を結ぶさまざまな物語が書かれている。天女の羽衣がかかった松、天女に惚れた漁師が羽衣を隠してしまう話……。 ただ、“羽衣を返せ”と切実に叫ぶ者がいる形跡は見当たらない。民話では天女が上空へ帰ってしまう場面はあれど、奪われた羽衣を相手に必死に訴えるのは“天女自身”のはず。ならば、この石は天女側の立場を象徴しているのか? あるいはまったく別の誰かが書いたのか? 考え込みすぎたせいか、圭一は妙な夢を見始める。夢の中で、富士山を背にした白装束の女性が、三保の松に向かって**「返して……」**と呟いているのだ。砂浜にうずくまり、何かを奪われて苦しむかのような姿が、彼の胸を強く締め付ける。目が覚めると汗がじっとりと背に滲んでいた。
三.過去の痕跡と痛ましい記憶
調査が進むにつれ、圭一は幾つかの古い記録に引っかかりを覚える。戦後間もなく、三保の松原で行方不明になった若い女性がいたという噂。家族は必死に捜したが、遺体も見つからず、天女の羽衣伝説をなぞるように「どこかへ消えた」という形で語られてきたらしい。 また、幕末や江戸期にも、三保の浜辺で“不幸な男女の失踪”や“恋に破れた者の入水”がまるでこの地の悲劇として口伝されていたという。 果たして、この石に刻まれた**「羽衣を返せ」が、そうした痛ましいエピソードのどこかに繋がっているのだろうか? 圭一は葛城とともに古い墓地や神社の関係者にも話を聞くが、皆口をそろえて「そんな話は詳しく知らない」と言い、どこか申し訳なさそうな表情をする。まるで、“不幸の話は触れてはならない”**という沈黙の了解があるようにも思えるのだ。
四.静かな夜、浜辺に響く声
秋に差し掛かったある夜、圭一は三保の松原を一人で歩いていた。風の温度が下がり、波の音がやや強くなった砂浜は、昼間とは打って変わって暗くて静かだった。松並木の向こうには、かすかに富士山のシルエットが見えるか見えないか――というほどの淡い輪郭がある。 ふと耳を澄ますと、どこからか**「返して……」**という囁きが聞こえた気がして、ゾクリとする。ライトを向けても何もいない。ただ、潮の湿っぽい香りと松の影が揺らぐだけ。 それでもその声は圭一の耳にははっきりと届いた感覚があった。まるで海の底から呼びかけるような低い響き。夢か幻か分からないが、思わず胸が震え、手元のライトが小刻みに揺れる。 「これは……天女の声だろうか。それとも消えた人たちの怨嗟?」 そんな考えが頭を去来し、心臓がさらに鼓動を速める。この地には何か隠された想いが沈んでいる。そう確信せざるを得なかった。
五.封じられた伝承と現代の気配
翌日、圭一は葛城から一通のメールを受け取る。そこには新しく発見された古い手紙が添付されており、なんとそこには**「羽衣を奪った漁師の家系が、ある秘密を守り続けている」**旨が示されていたという。 どうやら江戸期の文献には、単なる民話としての“羽衣伝説”だけでなく、誰かが実際に“天女の羽衣”と称する貴重な品を手にして、それが原因で一族に禍が降りかかったとする記録もあるらしい。 この名残が現代にまで引きずられ、三保の松原で起こる悲劇や失踪、そして不穏な噂へと繋がっているのかもしれない――圭一はそう整理すると、今まさにその呪いが石に刻まれた言葉となって、再浮上しているのだろうか、と寒気を覚えた。
六.見つかる真実と遠い痛み
取材の末、圭一がたどり着いたのは、戦後の混乱期に実際に起きたある事件だった。若い女性が、家の古い蔵から「羽衣伝説」に関わるとされる品を発見し、それを海辺で燃やしてしまった結果、家族から勘当され行方不明になった――そんな話が断片的に記録に残っている。 当時の風潮もあり、真相は闇に埋もれたが、その女性は最後に三保の松原に立ち、**「羽衣を返す」**と叫んだとも伝わる。もしや、今回拾われた石に刻まれた言葉は、その女性の無念を象徴しているのか? 圭一は胸に重苦しい思いを抱きながら、もう一度三保の松原を訪れた。もしかすると、この石は彼女が海辺に埋めた“最期の叫び”だったのかもしれない、と。まるで十数年、いやそれ以上の時を経て、現代に発見されるのを待っていたかのように……。
エピローグ:富士山を仰ぐ朝
早朝、富士山のシルエットがくっきりと浮かぶ。三保の松原の砂浜には、いつもと同じ穏やかな波が寄せては返す。だが圭一の目には、その景色がこれまでとは違って映っていた。 消えた女性、残された石、そして地元に隠れた伝承や事件の数々――すべてが複雑に絡み合って、「羽衣を返せ」という痛切な叫びとして今に届いている。 最終的に、事件の全貌や噂の正体が完全に解き明かされたわけではない。が、圭一は感じている。「この土地には、まだ多くの声が眠っている。彼らの声を拾う人が現れないまま、いつかは砂に埋もれ、忘れ去られるかもしれない……」 朝日の光が砂浜を照らし、海面に金色の輝きを落とす。それを見つめる圭一の胸には、静かな哀惜と敬意が混ざり合っていた。富士山がそびえる姿は、昔も今も変わらないのに、人間はあまりにも脆く消えていく。 石は今、観光協会に預けられ、やがて小さな展示として公開されるかもしれない。そこに刻まれた「羽衣を返せ」は誰の言葉なのか――それを知る日は来るのか。静かな不穏さが残りつつ、三保の松と富士山はいつものように雄大にそびえ立ち、穏やかに朝を迎えているのだった。





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