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三保の松原、観光客のふり

 私は観光客が嫌いである。 嫌いであるくせに、観光客になりたいのである。いや、「なりたい」と言うと大げさだ。私の場合はいつもそうだ。なりたいのではない。なりたくないのに、なってしまうふりをしたいのだ。ふり、ふり、ふり。私は人生の大事なところを、たいてい「ふり」でやり過ごしてきた。

 観光客というのは、ずるい。 誰のせいでもない顔で景色を見て、誰のせいでもない声で「わあ」と言って、誰のせいでもない写真を撮る。観光客の「わあ」には責任がない。責任がないから、清潔だ。私は責任のある「わあ」を一度も言ったことがない。責任のある「わあ」は、たぶん、恋とか、死とか、そういうものの前でしか出ないのだろう。私は恋の前で笑い、死の前で冗談を言う。だから「わあ」が出ない。

 その日、私は清水のほうへ出て、三保の松原へ行った。 行った理由は、もちろん立派ではない。立派な理由を持つと、私はすぐ裏切る。裏切るのが怖いから、最初からしょうもない理由で動く。しょうもない理由なら、裏切っても痛くない。――と、私は言い訳を始めている。ほら、もう駄目だ。出発の時点で、私は観光客に負けている。

 私は途中のコンビニで、帽子を買った。安い、薄い、頼りない帽子だ。帽子を買った瞬間、私は少しだけ安心した。帽子は「私はここにいてもいい」という免罪符のように思える。観光地で帽子をかぶっていると、少なくとも「場違い」には見えない。私はいつも「場違い」に怯えているくせに、場違いの顔をして歩く。だから、帽子ひとつで救われる自分が、情けなくもありがたい。

 そして、案内所でもらったパンフレットを、わざわざ手に持った。 持っただけで、私は「初めて来た人」になれる気がした。初めて来た人は、何も知らなくてよい。知らないふりができる。私は知っていることが怖い。知っていると、責任が生まれるからだ。責任が嫌で、私はいつも「知らないふり」をしてきた。今さら観光地でそれをやって、何が偉い。

 三保の松原は、思っていたよりも匂いが強かった。 松脂の匂い。砂の匂い。潮の匂い。遠くの魚の匂い。匂いは私の言い訳を少し黙らせる。言い訳というものは、乾いた部屋でよく育つ。松林の湿り気は、言い訳の肺をふさぐ。

 松の並びは、妙に整っていた。整っているくせに、一本一本が勝手に曲がっている。私は曲がっているものが好きだ。曲がっているものは、曲がったまま立っている。私は曲がったまま立てない。曲がったら倒れて、「倒れたのは風のせいだ」と言う。松は言わない。松は黙っている。黙っているものは強い。私は強いものが嫌いで、嫌いなくせに憧れる。

 砂浜に出ると、視界が急にひらけた。 海がいる。空がいる。雲がいる。 そして、富士山が――いるはずだった。

 私は、いきなりスマホを見た。 景色を見る代わりに画面を見る。日本平でやったのと同じだ。私は反省が遅いのではない。反省が嫌いなのだ。反省すると、変わらなければならないから。変わるのが怖いから、私は同じことを繰り返す。繰り返して、「私は変わらない」と言って、どこか誇らしげな顔をする。最低である。

 パンフレットには、富士山の写真が載っていた。 完璧な三角形。完璧な「遠さ」。 私はその写真を見て、少し安心した。写真の富士は、私に何も求めない。本物の富士は求める。求める、と私が勝手に思い込む。見てしまったら、感動してしまう気がする。感動してしまったら、私はきっと、立派なことを言ってしまう。「生きていてよかった」とか。そういう言葉は、翌朝必ず腐る。腐った言葉の臭いが、私は耐えられない。だから私は、見ない。

 私は砂浜の端を、観光客らしく歩いた。 観光客らしく、というのは、つまり、ゆっくり歩く、ということである。目的のない歩き方。私の散歩と同じだ。違うのは、観光客の目的のなさは正当だということだ。観光客は「目的がない」ために来ている。私は「目的がない」ことから逃げるために来ている。似ているのに、根が腐っている。

 背後で、女の人たちの声がした。

「ねえ、ここから富士山見えるんだよね」

 私はその会話に、なぜだか腹が立った。 見えるんだよね、という言い方が、あまりに素直だからだ。素直な言葉は、私の自意識を刺す。私の言葉はいつも、遠回りだ。遠回りしている間に、景色は変わる。変わったあとで、私は「最初から分かってた」と言う。分かっていたわけがない。分かっていたのは、分からないままにしておく技術だけだ。

 その女の人たちが、私に声をかけてきた。

「すみません、写真お願いできますか」

 来た。観光地の儀式である。 私は帽子をかぶっていたから、観光客に見えたのだろう。つまり私は、ふりに成功している。成功しているのに、成功している自分が気味が悪い。私はいつも、成功すると自分が嫌いになる。成功しないと、もっと嫌いになる。どうしろと言うのだ。

「はい」

 私はスマホを受け取った。 女の人たちは松の前で並んだ。笑っている。笑いが自然だ。自然な笑いは、私の敵である。 画面の中には、彼女たちと、松と、そして――富士山が、うっすら写っていた。霞の向こうの、ぼんやりした輪郭。ぼんやりしているのが救いだった。完璧だったら、私はたぶん手が震える。ぼんやりしているから、私の人生に似ていて、少しだけ耐えられる。

 私はシャッターを押した。 女の人たちが「ありがとう」と言った。 その「ありがとう」は、私にとって危険な言葉だ。ありがとうと言われると、私はすぐ「いい人」になった気がする。いい人になった気がすると、私はすぐ怠ける。怠けるために善行をする。最悪だ。

 女の人の一人が、にこっとして言った。

「地元の方ですか?」

 私は、喉が詰まった。 地元。 地元という言葉は、私を急に裸にする。地元の人間は、観光客のように無責任に「わあ」と言えない。地元の人間の「わあ」は、生活の中で磨耗しているはずだ。私は磨耗していない。磨耗していないくせに、地元の顔だけはしている。だからばれる。だから怖い。

「いえ、ええと……東京から……」

 言ってしまった。 私は嘘が下手だ。嘘が下手なくせに、嘘で生きている。 女の人は、少しだけ笑った。笑ったというより、「あ、そういう感じね」と理解した顔をした。理解された瞬間、私は猛烈に恥ずかしくなった。観光客のふりも、地元のふりも、どっちも中途半端で、私は結局「ただの変な人」だった。

「そうなんですね。いいところですよね」

 女の人は優しかった。 優しいのが、いちばん刺さる。 彼女たちは去っていった。去っていく背中は軽い。軽い背中を見ると、私は自分の背中の重さが嫌になる。重い背中は、だいたい自意識のせいだ。

 私は松林の奥へ歩いた。 観光客のふりを続けるために、私は観光客の群れから離れていく。これは矛盾だが、私の人生は矛盾でできている。松の道は、ところどころに看板があり、「羽衣の松」と書かれていた。私は羽衣伝説を思い出した。天女が羽衣を隠されて、帰れなくなる話だ。

 私は笑ってしまった。 天女は羽衣を隠されただけで、泣いて困る。 私は羽衣なんて最初から持っていないのに、帰れなくて困っている。 困っているくせに、「困っていないふり」をしている。 天女より始末が悪い。

 看板の前に、ゴミが落ちていた。ペットボトルの空。 私はそれを拾った。拾ったのは、善人だからではない。拾ったところを誰かに見られて、「地元の人、立派だな」と思われたいからでもない。――と、言い切りたい。だが私は知っている。私は拾いながら、すでに「見られる」可能性を計算していた。計算しているから、私は自分が嫌いだ。

 しかし、そのとき小さな子どもが、私の手元を見て言った。

「えらいね」

 私は、ぎくりとした。 えらいね。 そんな言葉を、私は久しぶりに聞いた。 私はえらくない。えらくないどころか、借りたものも返せず、人にちゃんと嫌われて、富士山も見られず、観光客のふりをしているだけの男だ。えらいねと言われる資格がない。だから私は、急いで否定した。

「いや、えらくないよ。たまたま……」

 また「たまたま」を使った。 子どもは意味が分からない顔をして、母親に引っ張られて行った。母親は会釈だけして行った。会釈が軽い。軽い会釈が、私にはありがたかった。重い感謝をされると、私は潰れる。私は感謝に弱い。感謝されると、返さなければならない気がする。返せないから逃げる。逃げるから嫌われる。私は循環している。循環しているが、ちっともきれいではない。

 私は拾ったペットボトルをゴミ箱に捨てた。 捨てた瞬間、胸の中が少しだけ空になった。空になったというより、少しだけ静かになった。静かになると、私は聞こえてしまう。波の音。松のざわめき。自分の呼吸。自分の呼吸が、思ったよりも浅い。私はいつも浅い呼吸で生きている。深く吸うと、何かが本当になってしまいそうで怖いのだ。

 砂浜へ戻ると、富士山の輪郭が、さっきより少しはっきりしていた。 私は、見るべきか、見ないべきか、迷った。 迷っている時点で、私は観光客ではない。観光客は迷わず見る。迷わず「わあ」と言う。私は迷って、スマホを出し、画面越しに富士を見た。やっぱり私は卑怯だ。卑怯だが、画面越しの富士はぼんやりしていて、ぼんやりしているぶんだけ、私の焦点の揺れを許してくれた。

 私は、写真を一枚撮った。 撮って、すぐ消した。 消した瞬間、なぜだか少し安心した。証拠を残さなければ、私は感動しなくて済む。感動しなければ、立派な言葉も出ない。立派な言葉が出なければ、翌朝腐る臭いもしない。私は臭いを恐れて生きている。私は腐る言葉の臭いに耐えられない。

 帰り道、帽子を脱いだ。 帽子の中は少し汗ばんでいた。私は自分の汗が嫌いだ。汗は生き物の証拠だから。私は生き物の証拠を、なるべく見ないで済ませたい。見ないで済ませたいのに、松の匂いは鼻に残り、潮の匂いはコートに残り、砂は靴の中に残った。残るものは残る。残るという事実だけが、私のふりを壊す。

 私は結論を言う。 私は三保の松原で、観光客のふりをした。 ふりをして、失敗した。 失敗したのに、少しだけ楽だった。 ちゃんと嫌われた夜が楽だったのと同じだ。 ふりが剥がれると、私は少し呼吸がしやすい。

 観光客の「わあ」は言えなかった。 だが、松の匂いはよかった。 潮風は冷たかった。 富士山は、ぼんやりしていた。 ぼんやりしているものにだけ、私は近づける。近づけるものがあるなら、まあ、今日はそれでいい。

 私は帽子をバッグに押し込み、パンフレットを折りたたんで、バス停へ向かった。 観光客のふりは、終わりである。 けれども、終わりにできるふりがある、というだけで、私は少し救われてしまう。 救われてしまった。 ああ、また私は、少しだけ人間をやめそこねた。

 
 
 

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