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三保の松原の銀河砂

 幹夫青年は、夕方の静岡の町を、いつまでも用もないのに歩いてゐました。

 電車のレールがきいんと光り、ガラスの看板が白く笑ひ、車の音が「さあさあ」と急がせるやうに鳴ります。けれども幹夫の胸の中は、どこかふかい井戸の底みたいにしんとして、そこへは、どんな音もまつすぐには落ちて来ません。

 ――このごろ、ぼくの心臓は、いったい何のために打つてゐるのだらう。

 幹夫はそんなことを考へて、ふと駅の方角をやめ、海の方へ歩き出しました。

 空は薄い群青(ぐんじやう)になり、雲の端がうすい金に縁どられて、遠くの富士は、まだ見えるやうな見えないやうな、たいへん大きな「影の形」だけを置いてゐました。

 清水(しみづ)の方へ出ますと、風の匂ひが変はりました。

 潮の匂ひが、ちいさな塩の針みたいに鼻の奥へ刺さり、それから松の匂ひが、ほの暗い緑の綿のやうに、ゆつくり胸へ降りて来ます。

 三保の松原(みほのまつばら)は、そのとき、もう半分夜でした。

 松の幹は黒く、枝は空へむかつてひろがり、松葉は風をこすつて「さらさら、さらさら」と、まるで誰かが紙に鉛筆で細い線を引いてゐるやうに鳴りました。砂浜は、まだ昼の熱を少し含んでゐて、靴の底の下で、やさしく「ふう」と息をつくやうでした。

 幹夫は松原のいちばん海に近いところまで行き、堤の低い石の上に腰をおろしました。

 眼の前には駿河湾の水が、暗い鉄の板のやうにひろがつて、ところどころに船の灯が、赤や緑の小さな点になつて瞬いてゐます。波は大きくはなく、ただ「しゅ、しゅ」と、白い泡を置いては消し、置いては消し、まるで海が自分の息づかひを確かめてゐるみたいでした。

 幹夫は、靴をぬいで砂へ足をうめました。

 砂はあたたかく、そして細く、足の指の間へすうつと入りました。その感触が、ふしぎに確かで、幹夫は少しほつとしました。

 ――ぼくの身体は、まだここにある。

 そのとき、足もとの砂の中で、ひとつだけ、ぴかりと光る粒がありました。

 最初は貝のかけらかと思ひましたが、よく見ると、それは石英(せきえい)のやうに透明で、しかもその中に、まるで夜空の星屑を閉ぢこめたやうな、青白い光がうすく泳いでゐるのでした。

 幹夫はそれをつまみ上げました。

 指先にのせると、粒は冷たくもなく熱くもなく、ただ、すこしだけ「生きてゐる」やうな感じがしました。

 「……これは、なんだらう」

 幹夫が掌をひらいて見つめると、その粒のまはりの砂が、いつの間にか同じやうに、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と、点になつて光り出しました。

 それは火の粉ではありません。光は静かで、音も匂ひもなく、ただ星のやうに、じつとしてゐます。

 幹夫は思はず、息をのんでしまひました。

 掌の上の砂は、砂でありながら、ちいさな宇宙になつてしまつたのです。

 しかも、その光る点々は、でたらめに散つてゐるのではありませんでした。

 どこかで見たことのある並び方をしてゐる。ひとつの弧を描き、ひとつの十字をつくり、そしてその端に、ぽつりと赤い点がある。

 幹夫は夜空を見上げ、また掌を見て、そしてもう一度夜空を見ました。

 夜空の星は、雲に半分隠れてゐるのに、掌の中の星は、雲など知らぬやうに、くつきりと並んでゐます。

 まるで掌の方が、空よりも正確な星図を持つてゐるみたいでした。

 そのとき、松の梢(こずゑ)が、一斉にふるへました。

 さらさら、といふ音の中に、たしかに言葉のやうな節が混じりました。

 ――カウシテ、カウシテ。

 ――ミズト、ヒカリト、シオト。

 ――シリカノ ツブ ハ ソラノ カゲ。

 幹夫はびつくりして、松の方を見ました。

 松は何も言つてゐないやうに見えます。けれども風が通ると、松葉がこすれて、まるで大勢の人が、同じ小さな式を暗誦(あんしよう)してゐるやうに聞こえるのです。

 幹夫は、その式の意味を、頭で理解したのではありません。

 ただ胸の中で、何かが「そうだ」とうなづいたのでした。

 砂は、山の石がくだけて出来る。石は、昔の火や水の仕事で出来る。火や水は、雲や風の仕事で出来る。雲や風は、太陽の光で動く。光は、空の奥から来る。

 ――つまり、ぼくの足もとの砂は、空の奥のつづきなのだ。

 幹夫は掌をすこし傾けて、砂を落としました。

 砂は「さらり」と流れ、落ちた先の浜に、またちいさな星の点が散りました。星は砂浜の上で、ほんの一瞬だけ、夜空のやうな顔をして、それからすぐに消えました。

 そのとき、海の方から「けえ」と鳴き声がして、白い鴎(かもめ)が一羽、低く飛んで来ました。

 鴎は、どこか具合が悪いらしく、羽の動きがふらふらしてゐて、砂浜へ降りると、片方の脚をうまくつけずに、よろめきました。

 幹夫は立ち上がりました。

 鴎に近づくと、鴎は逃げようとしましたが、逃げる力がありません。嘴(くちばし)だけを少し開いて、息が「はっ、はっ」と小さく鳴りました。

 幹夫は、ふと自分の掌を見ました。

 さつきまで銀河を描いてゐた砂は、もうただの砂です。

 けれども掌の中心には、さつきの光の余韻が、まだ薄くあたたかく残つてゐるやうな気がしました。

 幹夫は浜辺の流木のかげから、ちいさなプラスチックの輪を見つけました。

 海から打ち上げられたものです。鴎の脚には、細い糸のやうなものが絡まつてゐました。漁具の切れはしが、いつの間にか脚に巻きついてゐたのでせう。

 幹夫は、そつと鴎の脚を押さへました。

 鴎の身体は驚くほど軽く、骨の輪郭がすぐにわかります。軽いのに、あたたかい。あたたかいのに、震へてゐる。

 幹夫は、息を止めて、糸をほどきました。

 糸は砂と塩で固まつてゐて、なかなかほどけません。指先が冷え、爪の端が痛くなりました。けれども幹夫は、何かを考へる暇もなく、ただほどきつづけました。

 松の梢が、またさらさらと言ひました。

 ――イマ、イマ。

 ――カタチ ヲ ナオス。

 ――ソラノ ズ ヨリ モ タダシイ シゴト。

 やつと糸が外れると、鴎は一度だけ大きく羽をひろげました。

 羽の白さが、暗い砂浜の上で、ぱつと光りました。それは電灯の光ではなく、月の光でもなく、たしかに「生きものの光」でした。

 鴎は「けえ」と短く鳴いて、風の方へ体を向け、二、三度羽ばたいて、ゆつくり海の上へ出ました。

 飛び方はまだ危なつかしいのですが、それでも海の黒い板の上を、白い紙切れのやうに滑つて行きました。

 幹夫は、しばらくそこに立つてゐました。

 掌の中には、もう銀河はありません。砂はただの砂で、指の間から落ち、靴のまはりに溜まり、波が来れば平らにされます。

 けれども幹夫の胸の中には、ひとつだけはつきりしたものが残りました。

 星の並びを知ることよりも、砂の式を聞くことよりも、さつきの鴎の脚をほどくことの方が、ずつと確かな「ひかり」だつたのです。

 ――銀河は、空にあるだけではない。

 ――銀河は、いま、ここで、手の中にも出来る。

 幹夫はもう一度、夜空を見上げました。

 雲がすこし切れて、星が二つ三つ、冷たく光つてゐます。

 松の梢はさらさらと鳴り、波はしゅ、しゅ、と息をつき、砂は足の下で「さらり」と動きました。

 幹夫はその場にしゃがみ、砂をひとつかみすくつて、そつと見つめました。

 さつきのやうな銀河砂は、もう見えません。けれどもその砂の中にも、きつと同じやうに、空の奥の仕事が折りたたまれてゐるのだ、と幹夫は思ひました。

 そして幹夫は、靴を履き、松原の暗い道を帰りはじめました。

 背中のうしろで、松がまださらさらと何かを言つてゐます。

 ――イツモ、イツモ。

 ――ヒカリ ハ トホク カラ キテ

 ――チカイ トコロ デ ツカハレル。

 幹夫はその言葉を、胸の中で小さく繰り返しました。

 静岡の夜は、相変はらず湿つた絹のやうでしたが、さつきより少しだけ、歩幅が確かになつてゐるやうに思はれました。

 
 
 

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