中央図書館の空貸出
- 山崎行政書士事務所
- 8月26日
- 読了時間: 7分

序章 背表紙の線
昼の静岡市立中央図書館は、背表紙の縦の線が並ぶ森だった。数字と記号でできた請求記号の細い帯が、棚の中で静かに揺れている。幹夫は、背ラベルの**「913|ア」の下に引かれた細い罫線に目を止めた。線は目印であり、境界だ。どこまでが個人の読みで、どこからが街の“統計”**なのか――線の引き方ひとつで、物語は変わる。
第一章 身に覚えのない延滞
「借りていない本の延滞メールが来ました」カウンターに駆け込んできたのは、読み聞かせサークル「ひまわり」の代表、安西 麻衣。プリントアウトしたメールには、『◯◯(新書) 返却期限超過』の件名。「昨日も今日も、児童書しか触っていません」
応対した情報サービス係の三枝は、端末を叩いた。「記録では昨日16:08、自動貸出機2で処理。利用者番号は安西さま。同時に児童書2点も貸出されています」
「16:08? 私が入館したのは16:12です」安西が示したスマホの入館履歴(キッズ・パス連動)。時刻の線がずれている。
蒼は、貸出レシートの見本を手に取り、自己確認の項目を指でなぞった。タイトルは略称表示。装丁の小さなサムネは出ない。「タイトルだけ」の線は、勘違いを生むに足る細さだ。
幹夫は、入口脇の自動貸出機を見やった。画面上の待機線がゆっくり淡く動く。バーコードの縞が背景に薄く走っている。線が多いほど、境界はやわらぐ。
第二章 “人気ランキング”の影
そこへ、理香が館内掲示モニターを指さした。
今月の“人気資料ランキング”1位:◯◯(新書)2位:□□(実用)3位:△△(児童)
「急に一位になってます」理香が眉を寄せる。「昨日の午後以降に貸出イベントが集中した線」
三枝が肩をすくめた。「昨日は**“図書館体験デー”で、自動貸出体験コーナーを開きました。デモ用カード(白色)で貸出→取消の練習をします。ランキングには影響しない**はずですが……」
朱音がモニターの脚注を読む。
※ランキングは貸出開始イベントを集計しています。取消は反映されません。「取消が集計に戻っていない」線は片方向にしか引かれていなかった。
第三章 二つの線(二重ログ)
システム担当の五十嵐が奥から呼ばれた。「貸出ログは二系統あります。
取引ログ:館システム(ILS)の正式記録(貸出・返却・取消)。
イベントログ:分析用の**“貸出開始”や“返却”の通知**。体験デーはDEMOカードで貸出→取消を行い、取引ログでは取消されています。ただ……イベントログ側が**“貸出開始”だけ別システムに送られ**、取消が送られていない“片肺”でした」
「ランキングはイベントログで作られ、延滞通知は取引ログで出る。安西さんの延滞は別の原因」蒼が整理する。
五十嵐は、画面に自動貸出機2のセッション履歴を出した。15:58–16:06:体験デー(DEMOカード)で**◯◯(新書)を貸出→取消**×数回。16:08:セッション未終了のまま機器が待機画面へ。16:12:安西が児童書2点を貸出。16:12:10:端末が先行バッファから**“◯◯(新書)”の貸出要求を再送**。“現在の利用者ID”に紐づけてILSへ。「通信の一瞬の詰まりで、貸出要求が二度送られ、片方が**“その時点の利用者”に乗り換えました。いわゆる“二重化”のバグです。取消はDEMOに紐づいたまま取引ログに存在し、後からぶら下がった“新書の貸出”は安西さんに成立**してしまった」
「つまり、本は棚から出ていないのに、記録だけ安西さんに走った」朱音が言う。圭太が実物を探しに走り、新書棚から**◯◯を見つけた。見返しのRFIDタグは、EAS(盗難防止)ビットON。貸出時にOFFになるはずの線が切り替わっていない**。「出てない。線(EAS)がそのまま」
幹夫は、ノートに一本の線を引いた。
体験DEMO →(貸出→取消)セッション未終了 → 次の利用者 → 先行貸出要求が再送 → 空貸出二本の線(取引/イベント)が違う方向に走り、人の名前で結ばれてしまった。
第四章 読む自由と、見せる統計
「安西さんの名前は出していません」三枝が言う。「延滞通知は本人にのみ」
安西はうなずいた。「でも**“ランキング一位”のスクリーンショットと、“読み聞かせ代表が…”の想像だけで噂が回るんです。読んだ/読まないの線は、私自身が引きたい**」
蒼は、“ランキング”の作り方を問うた。五十嵐は、肩を落として答える。「貸出開始イベントの件数を即時カウント。単位日で並べ替え……最低件数のしきい値はありません。取消は不集計。“少数セル”の匿名性にも配慮不足」
「“何を見せるか”の線を引き直す必要がある」朱音が静かに言った。「人気は面白い。でも私たちの“読む自由”は統計の見せ方で折れてしまう」
第五章 線を引き直す(止める・見せる・残す)
夜、図書館運営会議に利用者代表として安西、市民ITボランティア、司書、システム担当、幹夫少年探偵団が集まった。蒼がいつもの三欄を板書する。
1) 止めること
端末セッションの封緘:利用者カード読取を最初の操作に固定し、“貸出候補”バッファはカード抜去時に必ず破棄。タイムアウトで自動消去。
二重送信の無効化:貸出要求に一意キー(Idempotency-Key)を付与、再送は拒否。
体験モードの物理鍵:DEMOカードは鮮色+大判で利用者センサー不可。体験モード時は画面縁を赤、“集計除外”の水印を常表示。
EAS連動の監査:貸出成立時にEAS OFFログが無い場合、警告と即時是正。
2) 見せること
最終確認UI:貸出確定前に表紙画像と点数、合計の線(プログレスバー)を表示。“あなたの本だけ?”の短文。
“ランキング”の再設計:
取消イベントを差し引き、集計は週単位。
最小セル(k=5)未満は非表示、ジャンルを粗く(NDLC/大分類)。
“推移線”は丸め(5件刻み)で表示。個人特定に繋がる鋭い線を避ける。
館内掲示には**「この統計は個人の貸出を示しません」を太字**で。
自分で見直す権利:“わたしの貸出”画面に“この本を借りていない”ボタン。調査フローへ直送。
3) 残すこと
ログの差分保存:取引ログ/イベントログのタイムスタンプを同一NTPに同期し、取消・訂正の履歴を残す。監査用に可視化。
プライバシー憲章の掲示:“読む自由は守ります”の短い憲章を入口と端末に掲示。統計の作り方も公開。
障りの少ない“見える化”:貸出件数ではなく**“棚の動き”(返却→配架所要時間の線**)を可視化し、業務改善へ回す。
五十嵐は深く頷いた。「線を一本にします。片肺はやめる。デモも統計も、人の自由の上に乗せます」
三枝が安西に向き直る。「延滞は取り消し、記録も修正します。噂への対応は館として広報します」
安西は小さく息を吐いた。「“読む自由”の線を見せてくれてありがとう」
第六章 空貸出の再現と解除
翌日、端末テスト。体験モードを物理鍵で起動すると、画面縁が赤に変わり、右上に**“集計除外・DEMO”の帯**。貸出候補に本を載せてからカードを抜くと、候補はゼロに戻る。Idempotency-Keyが付いた重複送信は、ILSが**“既済”で拒否。EASはOFF/ONの線がログに残り、OFF無き成立は許容されない**。
ランキングは週次に変わり、小さな数字は丸められた段差の線で示される。「この統計は個人の貸出を示しません」の一文が、線の下に太く残る。端末の最終確認には、表紙画像と点数の太い横棒。“あなたの本だけ?”の問いは、わずかな躊躇を生むに充分だった。
終章 観察のノート
仕組み:貸出ログ二重化=端末セッションの先行バッファと館システム(ILS)の正式記録がずれ、取消が分析系に伝わらない/再送が他人IDに載る。Idempotency-Keyとセッション封緘で抑止。物:RFIDタグのEAS(盗難防止ビット)と取引が連動しているかを監査。EAS OFFログなき貸出成立は要調査。UI:表紙画像+点数バー+問いの一文で**“自分の本だけ”を可視化**。体験モードは画面縁色と水印で集計除外を明示。統計:取消反映/週次集計/最小セル(k≥5)/丸めで再識別を抑止。脚注に**“個人の貸出ではない”**を明記。倫理: 読む自由は記録と見せ方の線引きで守る。 “人気”は文化の鏡だが、個人の鏡ではない。 誤りは仕組みで直し、不安は言葉でほどく。線:バーコードの縞、請求記号の罫、行列導線、ログの時系列線――線を揃えることが、図書館の安心になる。
幹夫は、背表紙の細い罫線をもう一度見た。線は、読む者と街のあいだの約束だ。その約束を丁寧に揃えれば、空の貸出は物語から消え、読む自由だけが静かに残る。窓の外、午後の光がページの縁に一筋の線を落としていた。





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