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久能の石段、息切れは若さの証文

 幹夫青年が久能へ出かけようと思ひ立つたのは、神社へ詣でて心を洗ふため――といふ殊勝な心からではない。さういふ立派な口実は、胸の中で早々に古びて、帰り道には、かへつて自分が気恥づかしくなる。 ただこの頃、歩いても息が乱れず、階段を上つても汗の一つも出ぬ自分の身体が、どうにも頼りなく思へたのである。若いくせに、若いことを使はずにゐる――そんな気分が、静岡の町の白い灯の下で、ふいに胸をつついた。

 久能山東照宮の石段は、千段あまりあると聞く。 千段あまり――といふ言葉だけで、幹夫の腹の底がきゆつとする。人は「無理だ」と思ふとき、案外、行つてみたくなる。行つてみて、息が切れれば、少なくとも「生きてゐる」といふ手触りが得られる。幹夫は、その手触りが欲しかつた。

 静岡駅からバスに乗り、清水の方へ向ふ。窓の外に駿河湾の光がちらりと見え、路の両脇に石垣いちごの畑が続く。石の壁に沿ふて青い葉がのび、白い花が小さく開いてゐる。いちごはまだ実りの途中らしく、畑の匂ひは甘さよりも土の匂ひが勝つてゐた。 幹夫はその匂ひを吸ひ、なぜだか少し落ち着いた。土の匂ひは、人間の言ひ訳を聞かぬ。

 石段の入口に立つと、杉の影が濃く、空がひとすぢ細く見えた。 「東照宮」へ向ふ道標があり、観光客らしい者が二三人、写真を撮つてゐる。幹夫は帽子もかぶらず、ただシャツの袖を少し捲り、ポケットの中の小銭を確かめた。準備といふほどの準備ではない。だが、この程度の準備でも、今日は自分が少し前向きに見えた。

 最初の百段ほどは、案外、容易かつた。 石は古く、角が丸くなり、ところどころ苔が付いてゐる。踏むと、微かに湿つた冷たさが靴の裏へ返る。上を見ると、段は折れて、また折れて、木立の奥へ消えてゐる。消えてゐるものを見ると、人は先の心配を始めるが、幹夫は今日は心配をやめた。心配をしても段が減るわけではない。減らぬなら、上がるだけである。

 ところが二百段を過ぎた頃、息が少し荒くなつた。 幹夫は立ち止まりさうになつて、立ち止まらず、代りに歩幅を小さくした。歩幅を小さくすると、恥が小さくなる。人間の恥といふものは、案外、足の大きさで出来てゐる。

 途中の踊り場に、年配の男が一人、手すりにもたれて休んでゐた。 男は汗を拭きながら、幹夫を見て笑つた。

「若いのに、えらい息だねえ」

 幹夫は、いつもの癖で「いや、運動不足で」と言ひかけてやめた。言ひ訳を添へると、息切れまで卑怯に見える。だから今日は、息切れをそのまま持つことにした。

「……結構、きついですね」

 正直に言ふと、男はうなづいた。

「きついのが、いいんだよ。息が切れるうちはね、若さがある。息切れは証文みたいなもんさ」

 証文。 幹夫は、その言葉が妙に気に入つた。若さを証明するものは、肌の張りや髪の黒さではない。息が乱れること、汗が出ること、そして、それを笑へる余裕――その辺りにあるのかもしれぬ。

「証文……ですか」

「さう。歳とるとね、息は切れない代りに、心が切れる。……息の方が切れるなら、まだいい」

 男は、さう言つて、先に上がつて行つた。 幹夫は、その背中を見送りながら、思はず口元がゆるんだ。 心が切れる――そんな大げさな悲劇を、男は料理の話みたいに言つた。さういふ軽さが、荷風の言ふ「粋」の一つなのかもしれぬ、と幹夫は勝手に思つた。

 また段を上がる。 木立の間を風が通り、葉がこすれる音がする。遠くで鳥が鳴く。人の声は薄くなり、代りに自分の呼吸だけが濃くなる。呼吸が濃いと、胸の中の余計な裁判が止まる。裁判が止まると、世界が少し静かになる。静かになると、段がただの段になる。段がただの段になると、人は登れる。

 あるところで、ふと視界がひらけた。 振り返ると、駿河湾が見えた。海は青いといふより白く、光をたくさん含んでゐる。沖の方の船が、小さな黒い点になつてゐる。 幹夫は、そこに立つて息を整へた。息はまだ荒い。荒いが、嫌な荒さではない。荒さが、身体の中の錆をこすり落としてゐるやうな荒さである。

「……なるほど、証文だ」

 幹夫は、独り言のやうに呟き、また笑つた。 笑ひは大きくない。だが、逃げの笑ひでもない。息切れの笑ひである。息切れの笑ひは、明るい。

 やがて楼門の朱が見え、彫刻の細工が近づいた。 久能山東照宮は、山の上にありながら、どこか町の豪奢を持つてゐる。朱塗りの艶、金具の光、木の彫りの勢ひ。徳川の名を背負つた建物は、やはり堂々としてゐる。堂々としてゐるものの前に立つと、人は立派なことを願ひたくなる。だが幹夫は、立派な願ひを用意しなかつた。

 賽銭を入れ、手を合わせ、心の中で短く言つた。 ――今日の息切れを、無駄にしませんやうに。 これなら立派すぎない。だが、ちゃんと前向きである。

 参拝を終へると、境内の隅に小さな売店があり、温い茶が売られてゐた。幹夫は紙コップを受け取り、石の縁に腰を下ろした。湯気が立つ。茶の香がする。息が、さつきより少し静かになつてゐる。 息が静かになると、今度は景色がよく見える。景色がよく見えると、心の中の石が少しだけ丸くなる。丸くなると、持ち歩ける。持ち歩ければ、歩ける。

 幹夫はポケットから入場の札を出し、指で縁をなぞつた。紙は薄い。薄いのに、今日の午後をしつかり支へてゐる。 彼は、その札の裏に鉛筆で一行だけ書いた。

  息切れは若さの証文。

 書いてしまふと、胸が少し明るくなつた。 明るいといふのは、何も悩みが消えたといふ意味ではない。悩みを抱へたままでも、身体が前へ出ると、心も少し前へ出る――さういふ種類の明るさである。

 下りの石段は、上りよりも足に来た。 膝が小さく笑つてゐる。笑つてゐる膝は、悪くない。膝が笑へば、心も笑へる。幹夫は段を一つ一つ確かめながら下り、途中で、いちご畑の方へ伸びる小道を見つけた。 畑の端の小さな売店で、いちごが一盛り売られてゐる。幹夫はそれを買つた。赤い実を一つ口へ入れると、甘さが舌にひらき、あとから少し酸味が追ひかけて来る。

 甘いのに、軽い。 軽いのに、ちゃんと残る。

 幹夫青年は、久能の石段で息を切らし、茶を飲み、いちごを食べて帰つた。 何かを成し遂げた、と言ふほどのことではない。だが、今日のところはそれで十分だつた。息切れの証文は、胸の内にちゃんと残つてゐる。 それを持つてゐる間だけは、明日も半歩ぐらゐ、前へ出られさうな気がする。

 
 
 

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