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久能の石段、手袋の片方が縁を作る

 幹夫青年が久能の方へ出て来たのは、クリスマスらしい夜景を見に行く――といふやうな、世間に説明しやすい用事のためではない。 説明しやすい用事ほど、帰り道に説教へ化ける。説教へ化けた途端、せつかくの聖夜は急に窮屈になる。幹夫は、その窮屈さを避けるのが上手になりすぎた。

 ただ、手が冷たかつたのである。 右の手袋を、いつの間にか失くしてゐた。昨日か一昨日か、駅の改札のあたりで外したのかもしれぬし、どこかの店の椅子の背に掛けた上着の袖から滑り落ちたのかもしれぬ。 どこで失くしたかを追ひかけるのは、幹夫の得意な「頭の仕事」である。だが頭の仕事は、たいてい答へを出さないまま、胸だけを疲れさせる。

 それで彼は、手の仕事をしに来た。 久能の石段を上がる――ただそれだけの、身体の用事。身体の用事は、立派な理由を要求しない。要求しない用事は、案外、人を前向きにする。

 静岡駅からバスに揺られてゐる間、車内には赤い紙袋や白い箱が見えた。ケーキだらう。チキンだらう。 それらはみな、誰かの家の灯りへ運ばれて行く顔をしてゐる。顔をしてゐるものを見ると、幹夫はつい、ひとりの自分の影を数へたくなる。数へたところで増えるわけでもないのに、数へたくなるのが人間の厄介だ。

 バスを降りると、空気が変つた。 潮の匂ひが濃い。みかん畑の甘い匂ひも混じる。久能の冬は、雪の代りにみかんがある。静岡の祝ひは、雪よりもみかんの方が似合ふ、と幹夫は勝手に思つた。

 石段の入口には、ちいさな売店が出てゐた。 みかん、飴、甘酒――そして、なぜかサンタ帽をかぶつた紙コップの看板。世間のクリスマスが、ここまで追ひかけて来たらしい。 売り子の女が、幹夫の片手の手袋を見て笑つた。

「こんばんは。兄さん、片っぽ? 冷えるでしょ」

 片っぽ、と言はれると、幹夫は一瞬だけ胸が詰まつた。 詰まるのは恥づかしいからである。失くした、といふ小さな失敗が、言葉になつてしまふからだ。 だが女の笑ひは責めない。湯気みたいな笑ひだ。

「……失くしました」

「いいよ、冬は片っぽ失くす季節。石段で拾はれるかもよ」

 拾はれるかもよ――。 そんなことを言はれると、失くしたものまで祝ひの一部みたいに見えて来るから不思議だ。

 幹夫は甘酒を買ひ、紙コップを左手で包んだ。 左手は手袋の上から、右手は素手のまま。 右手だけが冷たい。冷たいといふのは、腹立たしいより先に、少し寂しい。

 石段を上がり始めると、足元の石がしめつてゐた。昨夜の雨の名残か、朝露か。濡れた石は滑る。滑ると人は自然に歩幅を小さくする。小さくすると、息も心配も少しだけ落ち着く。 幹夫は、これが好きだつた。誰かに「落ち着け」と言はれずに、勝手に落ち着けるところが。

 息を吐くと、白い息が出て、風にほどけて消えた。 消えるものを見ると、胸の中の裁判が休廷する。裁判は、消えないものを相手にするのが好きだからだ。

 十段、二十段と上がつて行くうちに、右手の指先が痛くなつて来た。 痛いと、人は余計に機嫌が悪くなる。機嫌が悪くなると、また言ひ訳が始まる。 ――やつぱり家にゐればよかつた。 ――そもそも、手袋を失くす自分が間抜けだ。 ――クリスマスなのに、何をやつてゐる。 幹夫は自分で自分を責めるのが上手すぎて、時々その上手さに疲れる。

 そこで彼は、右手をコートのポケットへ入れた。 入れると、少しだけ生き返る。人間は、少しで生き返る。

 石段の途中、休む人のための小さな踊り場があつた。 そこで、若い女が立ち止まつてゐた。手には手袋が片方。黒い手袋で、しかも右手用らしい。女はきょろきょろと周りを見回し、落とし主を探してゐる顔をしてゐる。

 幹夫は、なぜだか足が止まつた。 止まつた瞬間、いつもの裁判が開廷しかける。 ――関はると面倒だ。 ――だが見て見ぬふりをすると胸がうるさい。 胸がうるさい、といふのは厄介だ。うるさい胸は、家まで付いて来る。

 女の手袋の取つ手――いや、手袋の口のところに、小さな茶の葉の絵のシールが貼つてあるのが見えた。 幹夫の失くした右手袋にも、同じやうなシールを貼つてあつた。どこかで貰つたものを、何となく貼つたのだ。 こんなところで、こんな目印に助けられるとは思はなかつた。

 幹夫は、先に言つた。

「こんばんは」

 女は驚いた顔をして、それから、ほつとしたやうに返した。

「こんばんは……」

「それ、もしかして……右手の手袋、拾ひました?」

 女は手袋を持ち上げて、うなづいた。

「はい。いま、ずつと落とし主探してて……。茶色いシールが付いてたから、目立つかなと思って」

「……それ、僕のかもしれません」

 幹夫がそう言ふと、女は目を細めた。

「あ、よかった。これ、持ってても片方だし、どうしようかと思ってたんです」

 幹夫は手袋を受け取つた。 右手に、失くした自分の手袋が戻る。戻ると、指先が急に安心する。指先が安心すると、胸の奥のどこかも安心する。 生活は、案外こんなところでつながつてゐる。

「ありがとうございます」

 幹夫は、いつもの癖で重たい礼を避けようとして、挨拶で薄めた。

「……メリークリスマス」

 自分で言つて、少し照れた。 だが女は笑つて、さらりと返した。

「メリークリスマス。よかったですね。手、冷たそうでした」

 見られてゐた、といふのが少し可笑しい。 見られてゐるのが恥づかしい男が、見られて助かる。人間の矛盾は、いつもおもしろい。

 幹夫は右手に手袋をはめた。 さうすると、今度は女の左手が目に入つた。女は左手に手袋がない。コートの袖から赤い指がのぞいてゐる。

「……もしかして、あなたの方が片っぽ?」

 幹夫が言ふと、女は苦笑した。

「そうなんです。さつき、写真撮るときに外して、どこかで落としました。――私、片方拾って、片方失くしてますね」

 拾つて、失くす。 それが可笑しくて、幹夫は思はず笑つてしまつた。女もつられて笑ふ。笑ひは、石段の冷たさを一枚だけ剥ぐ。

 幹夫は一瞬考へた。 考へると裁判が始まる。だから、考へる前に手を動かした。

 彼は自分の左手袋を外した。

「……よかつたら、これ。上までの間だけでも」

 女は目を丸くした。

「えっ、そんな、悪いですよ」

「悪くないです。僕、ポケットがあるので。……それに、片方の方が、今日の久能らしい」

 言つてから、幹夫は自分で照れた。 「久能らしい」などと、粋なことを言へる柄ではない。だが、言つてしまへば言つてしまへる。言つてしまへる夜は、案外悪くない。

 女は迷つたが、迷ひ方が上品だつた。迷ひ方が上品だと、こちらも焦らされずに済む。 やがて女は、小さく頭を下げた。

「……じゃあ、上まで。上で、返します。必ず」

「必ず、は重たいので」

 幹夫が言ふと、女は笑つた。

「じゃあ……上で、返したいです」

 返したいです。 その言ひ方がよかつた。義理ではなく、用事になる。用事になると、胸が軽い。

 二人は、並んで石段を上がつた。 会話は多くない。多くないのがいい。 石段の数だけ、息が短くなる。息が短くなると、言葉も短くなる。短い言葉は、言ひ訳になりにくい。

「久能、初めてですか」

「はい。静岡は何度か来てるんですけど、ここは初めてで」

「みかんが多いですね」

「ほんと。クリスマスなのに、みかんが似合うのが面白い」

 女がそう言つて、ふと周りを見た。確かに、みかん畑の匂ひがする。 聖夜の甘さはケーキだけではない。みかんの甘さも、十分に祝ひの甘さだ。

 途中で振り返ると、駿河湾が見えた。 海は夜の色に沈み、遠くの船の灯がぽつぽつと浮かぶ。空には星が少ないが、海の上に小さな星がある。 星はどこにでも出る。出るところで出ればいい――そんなふうに思へるのが、今日は少しありがたい。

 やがて上に着くと、境内の空気が変つた。 杉の匂ひが濃い。灯籠の灯が淡く揺れ、参拝する人の足音が乾いてゐる。 クリスマスの装飾はない。ないのがいい。ないのに、今日ここに人がゐる。祝ひは、名前がなくても成立する。

 売店で甘酒の湯気が立つてゐた。 幹夫は「湯気は勝ちだ」と思ひ、二つ買つた。紙コップを差し出すと、女は驚いた顔をしたが、すぐ受け取つた。受け取るときの顔が、軽い。

「ありがとうございます。……あ、手袋」

 女は、借りた左手袋を外して返した。返す動作が丁寧で、丁寧なのに重くない。 幹夫は手袋を受け取つて、左手に戻した。両手が揃ふ。揃ふと、心配が一つ減る。心配が減ると、息が深くなる。

「ほんと、助かりました。――手袋、拾って、貸してもらって」

 女が言つた。

「僕も、拾つてもらつたので。……片方が、今日の縁ですね」

 言つてしまつて、幹夫はまた照れた。 だが女は、それを笑はずに頷いた。

「縁、って言うと急にちゃんとしますね。……でも、嫌じゃないです」

 嫌じゃない。 この「嫌じゃない」が、幹夫にはひどく効いた。 人間関係は、立派に名づけると急に腐る。けれど「嫌じゃない」程度なら、腐らない。腐らないなら、明日にも持ち越せる。

 二人は甘酒を飲み、境内を少し歩いた。 参道の端に、小さな鈴が売られてゐた。女がそれを手に取り、ちりりと鳴らす。短い音が、杉の匂ひの中へ消える。 幹夫はその消え方を見て、ふと、昨日の「メリークリスマス」を思ひ出した。言つたあと、照れた。照れたままでもよかつた。今日も言へた。照れたままでも、ちゃんと続く。

 帰り際、女が言つた。

「下りは……ロープウェイで行こうかと思って」

「僕は、石段で戻ります。……数を数へるの、案外好きで」

「じゃあ、ここで。メリークリスマス、ありがとうございました」

 幹夫は、少しだけ笑つて返した。

「こちらこそ。メリークリスマス。……お気をつけて」

 女は軽く会釈をして去つた。 去り方が、石段の上の風みたいにさつぱりしてゐる。さつぱりしてゐるのに、寒くない。縁は、ああいふ温度がちやうどいい。

 幹夫は石段を下りながら、ポケットの中のスマホを確かめた。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。 今日の出来事は、手袋の片方の大きさで十分だ。

 ――「メリークリスマス。久能の石段で手袋が戻って、片方で縁ができた。あったかい。」

 送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 海の方から風が来て、杉の影が揺れる。両手は手袋の中で温い。 幹夫青年は、久能で立派な祈りをしたわけではない。 ただ、失くしたものが戻り、戻つた手袋の片方を一度だけ貸し、返してもらつただけである。

 だが、その“だけ”があると、聖夜は十分に成立する。 祝ひは、豪華な贈り物ではなく、半分の温かさをやり取りすることで、案外きちんと光る。 久能の石段は、今日も黙つて数を重ねてゐた。幹夫の前向きもまた、その数の一段分だけ、静かに上がつたのである。

 
 
 

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