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久能の風と新茶の丘

久能の風と新茶の丘

 久能から吹いてくる風には、海の匂いがした。

 それはただの潮の匂いではなかった。駿河湾の深い青、石垣に残った昼の熱、遠くの波が小石を洗う音、そして山の斜面に広がる茶畑の若葉の香りが、ひとつに混じった匂いだった。

 五月になると、その風は新茶の丘へ上ってくる。

 幹夫は、その風が吹くたびに立ち止まった。

 丘の茶畑は、山肌に沿ってなだらかに続いていた。畝は幾筋もの緑の波となり、朝は露を抱き、昼は光を受け、夕方には海から来る風に身を傾ける。若葉の先が風に揺れると、茶畑全体が小さな声で返事をしているように聞こえた。

 さわさわ。 さわさわ。

 幹夫には、それが風と茶の葉の会話に思えた。

 けれど、そのことを誰かに言うことはあまりなかった。言えばまた、「幹夫は変なことを考える」と言われるかもしれない。実際、学校では何度かそう言われた。道端の草が折れているだけで胸を痛めたり、夕焼けの赤さに言葉を失ったりする幹夫を、友だちは不思議がった。

 父は、幹夫を責めはしなかった。

 ただ、ときどき困ったように言った。

「お前は、何でも胸に入れすぎる」

 幹夫は、そのたびに少しうつむいた。

 胸に入れようとしているわけではない。風が勝手に窓から入るように、世界の小さな震えが幹夫の中へ入ってくるのだった。人の言葉の端にある寂しさ。父が疲れた日に湯呑みを置く音の硬さ。祖母が仏壇の前で少し長く息を吐く、その短い沈黙。

 みんな、入ってきてしまう。

 母が生きていたころは、それを恥ずかしいと思わずにいられた。

 母は、幹夫の感じ方を笑わなかった。むしろ同じ方を見てくれた。

「久能の風はね、幹夫」

 五月の茶畑で、母はよく言った。

「海から来る手紙なのよ」

「風が手紙?」

「そう。波のこと、遠くの船のこと、潮の冷たさのことを、茶の若葉に知らせに来るの」

「茶の葉は読めるの?」

「読めるわ。だから新茶には、海の風も少し入っているのよ」

 母はそう言って、若葉にそっと触れた。

 白い手ぬぐいを頬の下で結び、背負い籠を揺らしながら、風に目を細める母。その横顔を、幹夫は今でもはっきり覚えている。

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病室の白い壁、消毒液の匂い、窓辺に置かれた水仙、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。

 ありがとう。 行かないで。 また久能の風を見に行こう。 僕の胸がすぐ痛くなることを、もう一度笑わずに聞いて。

 どの言葉も喉の奥で小さく固まり、声にならなかった。

 それから幹夫にとって、五月の風は少し痛いものになった。

 久能から風が吹くと、母の声が戻ってくる。戻ってくるのに、母はいない。そのことが、幹夫の胸を静かに締めつけた。

 ある日、学校で「ふるさとの風」という作文が出された。

 先生は黒板に大きく題を書き、子どもたちに言った。

「静岡には、山の風、海の風、茶畑の風、いろいろな風があります。自分がよく知っている風について書いてみましょう」

 健太は「サッカーをしているときの風」と言い、真紀は「田んぼの風」と言った。幹夫は原稿用紙を前にして、久能の風を思った。

 海から来て、茶畑を上り、母の言葉を連れてくる風。

 けれど書けなかった。

 久能の風は、母のことと深く結びつきすぎていた。紙に書いたら、胸の奥のやわらかい場所を教室の明るい光にさらしてしまうような気がした。

 幹夫は一行だけ書いた。

 ――久能の風は、新茶の丘へ吹いてきます。

 その先が続かなかった。

 放課後、幹夫はまっすぐ家へ帰らず、新茶の丘へ向かった。

 五月の午後は、雲が高く、駿河湾の方から湿った風が吹いていた。丘の茶畑は摘み取りを終えたところもあり、まだ若葉を残したところもあった。畝の端には、母が昔結んだという細い赤い紐が、古い竹の支柱に残っていた。

 風向きを見るための紐だった。

 父はそれを「目印」と呼んだ。祖母は「風見」と呼んだ。母は「風のしおり」と呼んだ。

 赤い紐は、もうすっかり色あせていた。けれど風が吹くと、まだ細く揺れた。

 幹夫はその前に立った。

「お母さん」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 ただ、久能の風が丘を上ってきた。

 海の匂いと新茶の匂いが混じった風だった。幹夫の頬に触れ、髪を揺らし、赤い紐をふるわせた。

 そのとき、背後から父の声がした。

「ここにいたのか」

 幹夫は振り返った。

 父は作業着のまま、茶畑の畦道を上ってきた。日に焼けた顔に、少し疲れが見えた。手には剪定鋏を持っている。

「宿題はどうした」

「まだ」

「風の作文だったな」

「うん」

 父は赤い紐を見た。

「それも、そろそろ替えるか」

 幹夫の胸が小さく縮んだ。

「替えるの?」

「もう色が抜けている。切れそうだ」

 父の言うことは正しかった。

 紐は古く、細くなっている。風見として使うには、新しいものに替えた方がいい。

 でも幹夫には、それが母の残したものを外すことのように思えた。

「このままじゃだめ?」

 父は少し困った顔をした。

「切れたら、なくなる」

「でも、替えたらお母さんの紐じゃなくなる」

 言ってから、幹夫は胸が熱くなった。

 父はすぐには答えなかった。

 風が吹いた。赤い紐が、頼りなく揺れた。

「母さんのものだから、触れないでおきたいのか」

 父が静かに言った。

 幹夫は頷いた。

 父は鋏を下ろした。

「俺も、そう思っていた」

 幹夫は顔を上げた。

「お父さんも?」

「ああ。だから、ずっと替えなかった」

 父は赤い紐を見つめた。

「だが、このまま風にちぎられるのを待つのも、違う気がしてな」

 父の声は低かった。

「母さんが結んだのは、風を見るためだ。母さんの形を残すためだけじゃない」

 幹夫は何も言えなかった。

 父も、母の紐を大事にしていたのだ。

 ただ何も感じていないから放っておいたのではない。替えられなかったのだ。けれど今、その紐が風を見る役目を失いかけていることも、父には分かっている。

 幹夫は赤い紐に触れた。

 布はかさかさして、指の中で崩れそうだった。

「お母さんが消えちゃうみたいで怖い」

 幹夫は小さく言った。

 父は茶畑の向こう、久能の方を見た。

 遠くに海が光っている。風はそこから上ってくる。

「母さんは、この紐だけにいるわけじゃない」

 父は言った。

 その言葉は不器用だった。

 けれど幹夫には、父が一生懸命、心の奥から取り出してくれた言葉だと分かった。

「じゃあ、どこにいるの」

 幹夫が尋ねると、父は少し黙った。

「この風の読み方にいる」

「風の読み方?」

「母さんは、風が変わるとすぐ気づいた。海の湿り気が強いとか、明日は雨だとか、若葉が乾きすぎるとか。俺より早く気づくこともあった」

 父は赤い紐を指さした。

「この紐を見るたび、母さんの目を思い出す」

 幹夫の胸が温かく痛んだ。

 父の中にも、母がいた。

 幹夫が知らなかった母がいた。

 風を読む母。 父より早く雨を知る母。 茶の若葉と海の匂いを同時に感じる母。

「新しい紐にしても」

 父は言った。

「母さんの風の読み方まで消えるわけじゃない」

 幹夫は赤い紐を見つめた。

 風がまた吹いた。

 古い紐は、今にも切れそうに揺れた。

「僕が、結んでもいい?」

 幹夫は言った。

 父は少し驚いた顔をした。

「新しい紐をか」

「うん。でも、古い紐も捨てたくない」

「捨てん」

 父はすぐに言った。

「家にしまっておこう」

 それだけで、幹夫の胸は少し軽くなった。

 翌朝、父と幹夫は新しい紐を持って丘へ上った。

 祖母が選んだ、淡い赤の木綿の紐だった。新しい紐はまだ硬く、母の古い紐のような風の匂いはしなかった。けれど幹夫は、その白々しい新しさを嫌だとは思わなかった。

 朝の茶畑には露が残っていた。

 遠くには駿河湾が見え、久能の山肌に朝日が当たり始めている。海から吹く風はまだ冷たく、茶の若葉の上を渡ると、新茶の香りを少しずつ引き出していった。

 父は古い紐をほどいた。

 布は指先で崩れそうだった。幹夫は両手で受け取った。軽かった。あまりに軽くて、胸が痛くなった。

 この軽さの中に、母が風を見ていた年月が入っている。

 幹夫は古い紐を胸に当てた。

「ありがとう」

 小さく言った。

 父は何も言わなかった。

 幹夫は新しい紐を竹の支柱に結んだ。

 うまく結べず、一度ほどけた。父が横から手を出しかけたが、途中で止めた。幹夫はもう一度、ゆっくり結んだ。少し曲がった結び目になった。

「変?」

 幹夫が聞くと、父は首を振った。

「風が見えればいい」

 その言葉が嬉しかった。

 結び終えた瞬間、久能の風が吹いた。

 新しい赤い紐が、ふわりと揺れた。

 その揺れは、まだぎこちなかった。古い紐のように風を知り尽くしてはいない。けれど、これから少しずつ風の通り道を覚えていくのだと思うと、幹夫は胸の中に小さな希望を感じた。

 新しいものは、古いものを消すためだけにあるのではない。

 受け継いで、また風に揺れるためにある。

 祖母が少し遅れて丘へ上ってきた。

 手には急須と魔法瓶を持っている。

「風見の交代式には、お茶がいるね」

 祖母はそう言って、畑の端の平たい石に布を敷いた。湯呑みを三つ並べ、いつものようにもう一つ、小さな湯呑みを置いた。母の分だった。

 急須に新茶を入れる。

 湯を少し冷まして注ぐ。

 白い湯気が朝の光に立ちのぼった。

 その湯気は、久能の風に乗ってすぐ横へ流れた。まるで茶畑から海へ向かう、小さな手紙のようだった。

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 一口飲む。

 最初に、淡い苦みが舌に触れた。

 古い紐をほどいたときの痛み。 母の記憶を手放すような怖さ。 父の沈黙の重さ。

 けれど、そのあと甘みが戻ってきた。

 新しい紐が風に揺れたこと。 父が「風が見えればいい」と言ったこと。 祖母が母の湯呑みを忘れずに置いたこと。 そして、久能の風が今日も新茶の丘へ吹いてきたこと。

 幹夫は目を閉じた。

 新茶の中に、風があった。

 海から来た風。 茶畑を通った風。 母が読んだ風。 父が覚えていた風。 幹夫がこれから見ていく風。

「どんな味だい」

 祖母が尋ねた。

 幹夫は新しい赤い紐を見た。

「風が新しい字で書き始めた味」

 父は少し困った顔をした。

「難しいな」

 けれど、祖母は笑った。

「いい味なんだね」

「うん」

 幹夫は頷いた。

「少し苦くて、あとから甘い」

 父はそれを聞いて、小さく頷いた。

「それなら分かる」

 その日の学校で、幹夫は作文を書いた。

 題は「久能の風」。

 今度は、前よりも少し言葉が出てきた。

 ――久能の風は、海から来ます。 ――駿河湾の湿り気を持って、山を上り、茶畑へ吹いてきます。 ――その風が若葉に触れると、新茶の香りが少し深くなります。 ――私の母は、その風をよく読んでいました。

 幹夫の手は震えた。

 けれど、震えたまま書いた。

 ――母が結んだ古い風見の紐を、今日、父と一緒に新しい紐に替えました。 ――最初は、母のものが消えるようで嫌でした。 ――でも父は、母は紐だけにいるのではなく、風の読み方にいると言いました。 ――私はその言葉を聞いて、少し分かりました。 ――大切なものは、形を変えて残ることがあるのだと思います。

 窓の外では、校庭の木が風に揺れていた。

 幹夫は続きを書いた。

 ――古い紐は、風をたくさん知っていました。 ――新しい紐は、まだ風を知らないように見えました。 ――でも、今日から少しずつ覚えていくのだと思います。 ――私も同じです。 ――母がいない五月に慣れるのは悲しいけれど、母が見ていた風を、これから少しずつ自分の目で見たいです。

 最後に、こう書いた。

 ――久能の風と新茶の丘のあいだには、海の匂いと茶の香りと、亡くなった人の記憶があります。 ――風は見えません。 ――でも、紐が揺れると分かります。 ――母も見えません。 ――でも、新茶の香りがすると、いたことが分かります。 ――私は、その見えないものを、怖がりながらも受け取れる人になりたいです。

 提出した作文を、先生は静かに読んだ。

 そして、赤い字でこう書いてくれた。

 ――風が見えました。

 幹夫はその言葉を何度も読んだ。

 風は見えない。

 けれど、先生には少し見えたのかもしれない。幹夫の書いた言葉の中で、新しい赤い紐が揺れたのかもしれない。

 その夕方、幹夫はまた新茶の丘へ行った。

 久能の方から風が吹いていた。

 新しい赤い紐が、まだぎこちなく揺れている。古い紐は祖母が小さな布袋に入れ、仏壇の引き出しへしまってくれた。なくなったわけではない。役目を終えて、別の場所へ移ったのだ。

 幹夫は紐の前に立った。

「お母さん」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 けれど風が吹いた。

 赤い紐が揺れた。

 茶の若葉がさわさわと鳴った。

 その音は、海から来た手紙を茶畑が読み、そして幹夫へそっと渡してくれる音のようだった。

 幹夫は目を閉じた。

 胸の奥は、まだ痛かった。

 母がいないことは、少しも変わらない。けれど、その痛みの中に久能の風が通った。風が通ると、痛みはただの傷ではなく、音を立てる小さな道になる。

 幹夫は思った。

 僕の心も、風見の紐みたいでいい。

 すぐ揺れる。 強い風には不安になる。 でも、揺れるから風が分かる。 揺れるから、見えないものの通り道を知らせることができる。

 久能の風がもう一度吹いた。

 新茶の丘は、淡い緑の波となって揺れた。

 幹夫はその風を、胸いっぱいに吸い込んだ。

 青く、甘く、少し苦い。

 母が好きだった五月の風だった。


 
 
 

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