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久能山の石段をのぼる小さな狐

 久能山の夜は、海の音から始まった。

 昼のあいだ、陽を受けてきらめいていた駿河湾は、夜になると色を失い、ただ大きな息づかいだけを山の下から送ってくる。寄せては返す波の音は、遠い太鼓のようでもあり、誰かが眠りながら祈っている声のようでもあった。

 幹夫少年は、その音を聞くと胸が静かになった。

 けれど、その静けさは楽なものではなかった。 むしろ、心の奥にしまい込んだ小さな不安まで、月明かりに照らされて見えてしまうような静けさだった。

 その夜、幹夫は久能山のふもとに立っていた。

 石段は、闇の中へまっすぐ続いていた。昼間なら、参る人の足音や話し声があり、石の上にも人の気配が残っている。けれど夜の石段は、別のものに変わっていた。

 一段一段が、深く眠っているようだった。

 石は月の光を受けて、ほのかに白かった。段の隅には落ち葉がたまり、ところどころに苔が湿っている。山道の両側からは木々が枝を伸ばし、夜の空を細かく区切っていた。その隙間から、星がいくつか見えた。

 幹夫は、石段の前でしばらく動けなかった。

 どうして自分がここへ来たのか、はっきりとは言えなかった。

 夕方、家で祖母が言ったのだ。

 「久能山の石段にはね、昔の人の願いが眠っているんだよ」

 祖母は何気なく言っただけだった。お茶を湯呑みに注ぎながら、遠い昔を思い出すように。

 けれど幹夫は、その言葉が胸から離れなくなった。

 昔の人の願い。

 願いとは、叶ったあとどこへ行くのだろう。 叶わなかった願いは、消えてしまうのだろうか。 誰にも言えず、胸の中で小さく折りたたまれた願いは、どこに眠るのだろう。

 幹夫には、それが知りたかった。

 近ごろ、幹夫の胸にも言葉にできない願いがあった。 けれど、それを口にするのが怖かった。

 願ってしまえば、自分が弱いことを認めるような気がした。 願ってしまえば、叶わなかった時の寂しさに耐えられない気がした。

 だから幹夫は、願いを持たないふりをしていた。

 そのとき、石段の下の草むらが、かすかに揺れた。

 幹夫は息を止めた。

 草の影から、小さな狐が現れた。

 子犬ほどの大きさだった。けれど犬ではなかった。細い鼻先、立った耳、ふさりとした尾。毛は淡い茶色で、月明かりの中では金色に近く見えた。目は黒く、濡れた石のように光っていた。

 狐は幹夫を見た。

 逃げなかった。

 それどころか、幹夫がそこにいることを最初から知っていたように、静かにまばたきをした。

 そして、一段目に足をかけた。

 小さな足音が、こつ、と鳴った。

 その音を聞いた瞬間、幹夫の胸の中で何かがふるえた。

 狐は二段目へ進んだ。 三段目へ。 四段目へ。

 迷いのない足取りだった。

 まるで毎晩そうしているように、石段をのぼっていく。

 幹夫は、気づくと狐の後を追っていた。

 夜の石段は、昼間よりも高く感じられた。一段をのぼるたびに、町の灯りが少しずつ遠のいていく。海の音は下からついてくるが、しだいに深く、古くなっていくようだった。

 狐は振り返らない。

 けれど幹夫が遅れると、少し先で立ち止まり、尾の先をゆっくり揺らした。

 その尾の先には、小さな灯がともっているように見えた。

 火ではない。 月のかけらでもない。 もっと柔らかい、誰かの胸の奥で守られてきた灯だった。

 幹夫は息を切らしながら、狐のあとを追った。

 五十段ほどのぼったところで、最初の声が聞こえた。

 ――明日も、舟が戻りますように。

 幹夫は立ち止まった。

 狐も足を止めた。

 声は、どこからともなく聞こえた。木の間からでも、海のほうからでもない。足もとの石段からだった。

 幹夫は石を見下ろした。

 濡れたように光る石の表面に、一瞬だけ、古い人影が浮かんだ。粗い着物を着た男が、夜明け前の暗い道をのぼっている。肩には塩の匂いがしみつき、手は網で傷だらけだった。

 漁に出る前なのだろうか。 それとも、荒れた海から戻ったあとなのだろうか。

 男は石段に手をつき、深く息を吐いた。

 その胸の中には、自分のためではない願いがあった。

 家で待つ人の顔。 小さな子の寝息。 沖へ出ていった仲間の舟。 暗い海を越えて、どうか皆が戻るようにという祈り。

 幹夫は、その願いの重さに胸を押された。

 願いは、弱さではなかった。 誰かを失いたくないという、切実な愛だった。

 狐は静かに一段のぼった。

 幹夫も続いた。

 しばらくのあいだ、石段は黙っていた。風が木々を揺らし、松葉のような影が石の上を流れていった。

 やがて、別の段で、今度は女の声がした。

 ――この子が、熱を越えますように。

 幹夫の足が止まった。

 石の上に、母親の姿が浮かんだ。背中に小さな子を負っている。子どもの頬は赤く、眠っているのか、ぐったりしているのかわからない。母親は一段のぼるたびに、子の足を支える手に力を込めていた。

 誰にも見せない涙が、母親の顎から落ちた。

 石はそれを受けとめた。

 幹夫は、自分の喉が詰まるのを感じた。

 祈りとは、こんなにも裸の心なのだと思った。飾ることも、強がることもできない。ただ、これだけは失いたくないと、命の奥から差し出すもの。

 狐はその段に鼻先を近づけた。

 すると、石の中から淡い光が一粒浮かび上がり、狐の尾の先に吸い込まれた。

 幹夫は驚いた。

 「あなたは、願いを集めているの?」

 狐は答えなかった。

 ただ、黒い目で幹夫を見た。

 その目は、人間の言葉よりも深かった。問いに答えるのではなく、問いそのものを幹夫の胸へ返してくるような目だった。

 幹夫は、もう一度石段を見た。

 一段一段に、誰かが足を置いた。 一段一段に、誰かの息が落ちた。 一段一段に、誰にも聞こえない願いが置かれていった。

 石段は、ただ山の上へ人を運ぶ道ではなかった。

 人の心の重さを、少しずつ預かってきた場所だった。

 さらにのぼると、海が少しずつ見えてきた。

 木々の隙間から、駿河湾が黒く広がっていた。ところどころに漁火のような光があり、それは波に揺れながら、夜の海に小さな穴をあけているようだった。

 町の灯りも見えた。

 家々の灯。道路の灯。遠くを走る車の灯。

 そのひとつひとつの下に、誰かの暮らしがある。泣いている人も、笑っている人も、眠れない人も、明日の支度をしている人もいるのだろう。

 幹夫は、町が急に小さく、そしていとおしく見えた。

 普段は、町の中にいると、人の声や規則や急ぐ足音に疲れてしまうことがある。けれど上から見下ろすと、町はたくさんの願いを灯した器のようだった。

 狐はまた歩き出した。

 次の段では、若い男の声がした。

 ――この石が、百年先も人を支えますように。

 幹夫の前に、石工の姿が浮かんだ。

 額に汗をにじませ、手に槌を持っている。夜ではなく、昼の記憶だった。強い日差しの下で、男は石を据えていた。何度も角度を確かめ、足で踏み、手で撫で、ずれないように土を締めている。

 男の手は荒れていた。爪の間には土が入り、腕には小さな傷があった。

 けれどその目は、山の上ではなく、まだ来ぬ人々を見ていた。

 自分が死んだあとに、この段をのぼる誰か。 雨の日に滑らぬように。 年老いた人が足を置けるように。 子どもが転ばぬように。 祈りを抱いた人が、途中で諦めぬように。

 幹夫は石の表面に手を置いた。

 ひんやりしていた。 けれど、その冷たさの奥に、人の手の温度が眠っているようだった。

 「石にも、心が残るんだね」

 幹夫がつぶやくと、狐の耳がぴくりと動いた。

 石段は続いた。

 のぼるほどに息は苦しくなり、幹夫の膝は少し震えた。夜の空気は冷たいのに、背中には汗がにじんでいた。けれど、不思議と引き返したいとは思わなかった。

 むしろ、一段ごとに、自分の中の余計なものが落ちていくようだった。

 昼間に言われた何気ない言葉。 友だちの輪にうまく入れなかった痛み。 自分だけが少し違っているような心細さ。 言い返せなかった悔しさ。 誰にも知られたくない寂しさ。

 それらが、息と一緒に少しずつ夜へ溶けていく。

 幹夫は思った。

 昔の人たちも、こうしてのぼったのだろうか。 胸の中に言えないものを抱えて。 重たい足を一段ずつ上げながら。 それでも、山の上に何かを託したくて。

 途中の踊り場で、狐は初めて腰を下ろした。

 幹夫も石に座った。

 下を見ると、海と町が広がっていた。夜の駿河湾は、墨を流した絹のようだった。波の白さは見えない。ただ音だけが、山の高さを越えて届いてくる。

 幹夫は小さく聞いた。

 「毎晩、のぼっているの?」

 狐は答えない。

 「願いを、どこへ持っていくの?」

 狐は山の上を見た。

 その先には、久能山東照宮へ続く道がある。夜の木々の奥に、見えない社が静かに座しているようだった。

 幹夫は、そこに神さまがいるのかどうか、自分にはわからないと思った。

 けれど、わからないから信じない、というのも少し違う気がした。

 祈る人がいる。 手を合わせる人がいる。 長い石段をのぼり、息を切らしながら、それでも願いを運ぶ人がいる。

 その事実だけで、見えない場所には何かが生まれるのではないか。

 幹夫は、そんなふうに感じた。

 狐が立ち上がった。

 また石段をのぼる。

 次の声は、老人の声だった。

 ――もう一度だけ、海を見られますように。

 幹夫は振り返った。

 石段に浮かんだ老人は、杖をついていた。背は曲がり、足取りは遅い。けれど、目だけは少年のように海のほうを向いていた。

 老人は一段のぼるたびに立ち止まり、息を整えた。誰かに支えられているわけではない。ただ、自分の体と話し合うようにして、少しずつ上へ進んでいく。

 そして踊り場まで来ると、海を見下ろした。

 その顔に、静かな笑みが広がった。

 幹夫は、老人が何を見ていたのか知りたいと思った。

 若かった日の海だろうか。 働いた日の海だろうか。 失った人と見た海だろうか。 それとも、ただそこにある海そのものだろうか。

 老人の願いは、叶ったのかもしれない。 それでも、その願いは石に残っていた。

 叶った祈りも、消えないのだ。

 幹夫は胸の奥があたたかくなるのを感じた。

 叶わなかった祈りだけが悲しみとして残るのではない。叶った祈りも、感謝となって石に染みこむ。だからこの石段は、こんなにも深く、静かなのだ。

 狐の尾の灯が、少し明るくなっていた。

 さらに上へ進むと、風が変わった。

 海から来る湿った風に、山の木々の匂いが混じる。土の匂い。古い葉の匂い。夜に開いた花のかすかな甘さ。幹夫は深く息を吸った。

 そのとき、石段の奥から、たくさんの声が重なって聞こえた。

 ――家族が無事でありますように。 ――仕事が続きますように。 ――争いが終わりますように。 ――道に迷いませんように。 ――心が折れませんように。 ――あの人に、もう一度会えますように。 ――ありがとう。 ――ごめんなさい。 ――どうか。 ――どうか。 ――どうか。

 幹夫は立ち尽くした。

 声は波のように押し寄せてきた。ひとつひとつは小さいのに、重なり合うと、山全体が祈っているようだった。

 幹夫は耳をふさぎたいと思った。

 苦しかった。

 人の願いは、美しいだけではない。切実で、重く、時には暗く、時には身勝手で、時にはどうしようもなく悲しい。

 けれど、そのすべてが人間なのだと思った。

 願わずにいられない弱さ。 誰かを思う優しさ。 失うことへの恐れ。 それでも明日を望む力。

 幹夫の目から涙がこぼれた。

 狐は、少し先で立ち止まった。

 振り返って、幹夫を待っていた。

 その姿が、急に小さく見えた。

 こんな小さな体で、毎晩これほど多くの願いを運んでいるのだろうか。人間が忘れた祈りを、石から拾い上げ、山の上へ届けているのだろうか。

 幹夫は袖で涙を拭いた。

 「重くないの?」

 狐は、尾を揺らした。

 尾の灯が、ふわりと幹夫の足もとを照らした。

 すると、幹夫の立っている段から、小さな声がした。

 ――この子が、自分の心を嫌いになりませんように。

 幹夫は息をのんだ。

 それは、誰の声だったのだろう。

 母の声のようにも聞こえた。 祖母の声のようにも聞こえた。 まだ会ったことのない誰かの声のようにも聞こえた。

 けれど幹夫には、その願いが自分に向けられていることだけはわかった。

 胸の奥にしまい込んでいたものが、急にほどけた。

 幹夫は、自分が繊細すぎることを、時々嫌になることがあった。

 人が平気で聞き流す言葉に傷つく。 誰かの寂しそうな顔を見ると、自分まで息が苦しくなる。 小さな虫の死骸や、夕暮れの空や、捨てられた傘を見ただけで、胸がいっぱいになる。

 どうして自分は、こんなに何でも感じてしまうのだろう。

 もっと強く、もっと鈍く、もっと簡単に笑える子だったらよかったのに。

 そう思ったことが、何度もあった。

 けれど今、石段の奥から聞こえた願いは、その幹夫の心を責めなかった。

 そのままでいい、とも言わなかった。 強くなれ、とも言わなかった。

 ただ、嫌いにならないでほしいと願っていた。

 幹夫は石段に手をついた。

 冷たい石の上に、涙が落ちた。

 その涙は、昔の人々の涙に混じるように、すぐに見えなくなった。

 狐が幹夫のそばへ戻ってきた。

 小さな鼻先で、幹夫の手に触れた。

 温かかった。

 ほんの少しだけ、獣の匂いがした。草と土と夜をまとった、生きているものの匂いだった。

 幹夫は、狐に言った。

 「ぼくも、祈っていいのかな」

 狐は、じっと見上げた。

 幹夫は目を閉じた。

 何を願えばよいのか、すぐにはわからなかった。たくさんの願いが胸の奥で絡まっていた。

 強くなりたい。 でも、感じる心を失いたくない。 誰かにわかってほしい。 でも、誰かを困らせたくない。 大切な人がいなくならないでほしい。 でも、いつか別れが来ることも知っている。

 幹夫は、長い時間をかけて、ようやくひとつの願いを見つけた。

 「ぼくが、聞こえた声を忘れませんように」

 声に出すと、それはとても小さな願いだった。

 けれど、口にした瞬間、胸の中が少し軽くなった。

 狐の尾の灯が、静かに揺れた。

 幹夫の願いは、光の粒になったわけではなかった。音を立てたわけでもない。ただ、足もとの石がほんの少し温かくなった気がした。

 それだけだった。

 それだけで、十分だった。

 狐は再び上り始めた。

 幹夫も続いた。

 やがて石段の上に、社へ向かう道の気配が近づいてきた。木々の影は深く、夜はいっそう静かだった。けれど幹夫には、もう怖くなかった。

 山の闇は、ただ暗いのではない。 祈りを休ませるために暗いのだ。

 そう思えた。

 最後のほうの段で、狐は足を止めた。

 そこには、ほかの段より少し大きな石があった。狐はその上に座り、尾の灯を高く掲げるようにした。

 すると、これまで集めた光が、ふわりと夜へ立ち上った。

 漁師の願い。 母親の願い。 石工の願い。 老人の願い。 名も知らぬ人々の願い。 そして、幹夫の小さな願い。

 それらは一つの光ではなかった。混ざってしまうのではなく、それぞれの色を保ったまま、ゆるやかに重なっていた。

 幹夫は、その光を見上げた。

 祈りは、消えていなかった。

 どれほど昔のものでも、誰が口にしたかわからないものでも、石段は覚えていた。山は預かっていた。狐は運んでいた。

 光は木々の間を抜け、見えない社のほうへ吸い込まれていった。

 狐はしばらくその場に座っていた。

 幹夫も黙っていた。

 何か言葉をかけたいと思ったが、言葉にすると、この静けさを壊してしまいそうだった。

 やがて、東の空がほんの少し白みはじめた。

 夜明けが近かった。

 海のほうから、朝の最初の風が上ってきた。木々の葉が揺れ、石段の苔がかすかに光った。遠くの駿河湾が、黒から深い藍へ変わっていく。

 狐は立ち上がった。

 幹夫を見た。

 そして、石段の脇の木立へすっと入っていった。

 「待って」

 幹夫は思わず声を出した。

 狐は一度だけ振り返った。

 その姿は、もう月明かりではなく、夜明け前の薄い光に包まれていた。尾の灯は消えていた。小さな狐は、ただ一匹の狐に戻ったように見えた。

 けれど幹夫にはわかった。

 あの狐は、また今夜ものぼるのだろう。

 人が忘れた願いを拾い、石に眠る祈りを起こし、海を見下ろす山道を静かに進むのだろう。

 狐は木立の奥へ消えた。

 幹夫は、しばらくそこに立っていた。

 朝が来るにつれて、世界は少しずつ普通に戻っていった。鳥が鳴き、葉が揺れ、遠くで車の音がした。石段も、ただの石段のように見えた。

 けれど幹夫は知っていた。

 ただの石など、ひとつもない。

 誰かが置いた石。 誰かが踏んだ石。 誰かが涙を落とした石。 誰かが願いを預けた石。

 幹夫は下り道で、一段一段を急がずに踏んだ。

 のぼる時には聞こえた声が、下りる時にはもう聞こえなかった。けれど、それでよかった。声はいつでも聞こえるものではない。聞こえない時にまで、聞こえたふりをしてはいけない。

 ただ、聞こえたことを忘れなければよい。

 途中の踊り場で、幹夫は海を見下ろした。

 夜明けの駿河湾は、薄い金色を帯びていた。波が朝の光を受けて、小さくまたたいている。町は目を覚ましはじめ、家々の屋根が柔らかく光っていた。

 幹夫は、その町の中へ帰っていく。

 学校もある。人の声もある。傷つく日も、うまく笑えない日もあるだろう。自分の心を持て余す日も、きっとまた来る。

 けれど幹夫は、もう少しだけ自分の心を嫌わずにいられる気がした。

 感じすぎる心は、重荷かもしれない。 けれど、その心だから聞こえる声がある。

 石段に眠る願い。 海からのぼる風。 小さな狐の足音。 昔の人々が残した、言葉にならない祈り。

 それらを聞いた夜を、幹夫は忘れたくなかった。

 ふもとへ戻るころ、朝日は海の端から昇りはじめていた。

 石段の一段目に、細い狐の足跡が残っていた。

 幹夫はしゃがみこんで、それを見つめた。砂まじりの土に残った、小さなくぼみ。やがて風で消えるだろう。人が通れば踏まれるだろう。昼には、誰も気づかないかもしれない。

 それでも、確かにそこにあった。

 幹夫は足跡に向かって、小さく頭を下げた。

 そして、家へ向かって歩き出した。

 背後で、久能山の石段は朝の光を受けて静かに伸びていた。 海を見下ろす山道は、何も語らない。 けれどその沈黙の中に、数えきれない願いを抱いていた。

 幹夫少年の胸にも、小さな祈りがひとつ残っていた。

 それは、叶うかどうかを急がない祈りだった。 ただ心の中で、石のように静かにそこにある祈りだった。

 今日も、明日も、いつか大人になっても。

 聞こえた声を、忘れませんように。

 
 
 

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