久能山の螺旋階段
- 山崎行政書士事務所
- 1月13日
- 読了時間: 6分

晩秋の海風が、静岡の海岸線を沿うように吹きつけるころ、久能山東照宮の石段は日暮れとともにひっそりと闇に沈んでいきます。石段を登った先には、徳川家康を祀(まつ)る壮麗(そうれい)な社殿。だが古くから、闇に隠された“もう一つの道”について語る人もいるのです。
その夜、地元の高校生・律(りつ)は、放課後の部活から解放され、どうにもうまくいかない勉強のことを頭に抱えながら、自転車で久能山のふもとにやって来ました。海から立ちのぼる夜霧に薄く煙った参道を眺めると、なぜか呼ばれているような気がしたのです。
石段の入り口は、昼間なら観光客で賑(にぎ)わう場所。けれど今は閑散として、潮の香り混じりの夜風が石段の苔(こけ)や松の幹をかすかに揺らしています。ときおり風にのって、どこからともなく松の葉の擦(こす)れ合う小さな音が聞こえました。
薄い月明かりを頼りに何段も石段を上っていくと、ふと足元をさらりと横切るように、青白い光が走りました。律は思わず石段の脇に目を凝(こ)らします。そこには、かすかに透けるような螺旋階段が続いていました。まるで闇の中から浮かび上がった霧の階段のように見えます。
「こんな階段、日中は見たことないのに……」
つぶやきながら手を伸ばすと、しっかりと冷たい感触があり、石段に続くように螺旋状に曲がりくねって上へ上へと昇っている。まるで導かれるように、律はその階段を一歩、また一歩と踏みしめていきました。
周囲は夜の深さを増しているはずなのに、なぜか螺旋階段を昇るほどに足元の光は強まり、薄い霧の層(そう)がほのかな銀色に輝いています。遠くからは静かな波の音が聞こえ、まるで足元の階段とともに律の心を宙(ちゅう)に浮かせるようです。
やがて螺旋階段の最上部へ到着し、石段の本来の頂上とは少し離れた場所に降り立つと、そこはまるで別世界の久能山でした。
巨大な松の木々が夜空を埋めるように生い茂(しげ)り、その間からは月光がこぼれて、一面を白銀に染めています。風が枝葉(しよう)を通り抜けるたびに、松の葉がささやき合うように、低い調子の旋律(せんりつ)を奏(かな)でるのです。
足もとには古い巻物がいくつも散らばり、その表面には人々の願い事が書きつけられているらしく、ほそい文字がうっすらと光を帯びていました。風がひと吹きすると、それらがひらひらと宙に舞いあがり、螺旋を描くように昇っていきます。
「これは……誰が、いつ書いたんだろう?」
律はその巻物を一つ拾いあげ、目を凝らします。そこに書かれているのは、古風な文体の願文(がんもん)。まるで江戸時代のような筆致で、「天下泰平(てんかたいへい)」や「家内安全(かないあんぜん)」などの言葉が連なっていました。
すると、背後の松がふいにざわり、とりわけ大きな古木が大地にどっしりと根を張ったまま、かすれ声のような音を発しました。律が見上げると、その松はまるで人のように、幹に節(ふし)めいた“顔”を形作り、ゆらりと枝を動かしているのです。
「おやおや、人の子が迷い込むなんて、久しぶりじゃのう……」
ごう、と風が強く吹き付け、枝葉が一斉に細かな音を立てます。律はぎょっとしつつも、どこか温かみを感じる声音(こわね)に、身構える気持ちが溶けていきました。
「きみはここへ何をしに来たのかね? 願い事でもあるのか。それとも、失ったものを探しにきたのか……?」
その問いに、律は思わず胸を押さえました。思い当たることが多すぎるからです。受験に追われる日々、部活の後輩にも思うように指導ができず、家族や友人との関係もぎくしゃくしている。かといって明確な将来の目標があるわけでもない。自分が何をしたいのか、自分には何ができるのか、見失いそうで――。
「正直、何を願いたいのか、自分でも分かっていないのかもしれません。でも、何か変わりたいって思っているんです。」
そう言葉を絞り出したとき、律の耳元で誰かの囁(ささや)きが響きました。振り返ると、白い着物をまとった霊的な存在がそこに立っています。月光が彼女の姿を透かし、重なる松葉の向こうに夜空が見える。
「あなたが変わりたいと願うなら、何かを手放さなければならないわ。久能山の記憶と力は、願いと引き換えに、執着(しゅうちゃく)や迷いを取り去ってくれる。でも、そのぶん、あなたが今しがみついている何かを失うことになるかもしれない。」
霊の声は冷たくもあり、しかし不思議なやさしさを帯びていました。
律は口をつぐんだまま、しばらく考え込みました。自分がしがみついているもの――それは何だろう? 漠然(ばくぜん)とした不安や、完璧でいたいというプライド、あるいは人からの評価を気にする弱さかもしれません。
一方で、手放すことで本当に自分が変われるのだろうか。もし勉強も部活も、自分なりに頑張っているのにそれを放棄したら、何が残るのだろう。そんな恐怖感に襲われます。
「……でも、もう、あまり時間がないんだ。」
律はそっと目を閉じ、胸の奥底を探るように息を吐きました。自分に自信が持てないまま、このまま日々を重ねるのは嫌だ。何かを得るためには、いま背負っているものを一度下ろす必要がある――直感的にそう思います。
「分かりました。願いと引き換えに、“今の自分への執着”を手放したい。」
そう告げると、霊的存在はその瞳(ひとみ)を優しく細め、律の肩にそっと手を置きました。次の瞬間、まばゆいほどの月光が螺旋階段と松の木々を照らし出し、風が一層強く吹き抜けます。あたりに散らばる巻物が一斉に宙(ちゅう)を舞いあがり、白銀の渦(うず)となって夜空へ吸い込まれていきました。
そして風がやんだとき、そこにはしんと静まり返った久能山の夜が広がっていました。あの螺旋階段はすでに消え、代わりに見下ろすのは、いつも通りの石段と社殿の灯(ともしび)。時刻は夜明けに近づいているのか、空がわずかに藍色から朱色へと移り変わっています。
律は夢から覚めたように、ふと拳(こぶし)を握りしめます。心の中に、今までの不安がまるで掃き清められたような、軽やかさがありました。
受験や部活は変わらず困難が待っているだろう。けれど、自分の心を縛(しば)っていた「できないと恥ずかしい」「人にどう思われるだろう」といった感情を、少しずつ手放していけるかもしれない。自分が本当にやりたいことや、未来に向けた小さな一歩を、もう一度踏み出せる気がする。
夜が明けると、久能山からは雄大な駿河湾(するがわん)が見渡せました。東の空に朝日が昇りはじめ、海面を金色に染めていきます。あの不思議な夜の体験が現実だったのか、それとも幻だったのか――。ただ、胸の奥には確かな決意が芽生えています。
「ありがとう、久能山……。また来るよ。」
律は石段をゆっくりと下りながら、小さくそうつぶやきました。すると、朝の光の中、松の葉が一瞬だけきらりと揺れて、まるで応えるかのように優しい音をたてたのでした。
――久能山の螺旋階段は、今宵も静かに幻の道を開く。 自分の内なる迷いを手放すなら、 願いの光はきっと、夜明けとともに 新しい道を照らし出してくれるだろう。





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