五月のさざめき
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 4分
第一章 若葉のにおい
五月の朝、幹夫(みきお)はいつもより早起きをして、家の縁側に腰をおろした。夜露に濡れた庭の草花は、まだ静かな寝息を立てているように見える。 見上げる空は淡い水色。吹き抜ける風はどこか柔らかく、鼻先にほのかな若葉のにおいを運んでくる。立夏を過ぎたとはいえ、まだ春の名残を感じさせる冷たさがわずかに残っていた。 幹夫はパジャマのまま、少しだけ肌寒さを感じながらも、その風を胸いっぱいに吸い込む。やがて母が起きてきて、少し驚いた様子で言った。 「こんなに早起きなんて珍しいわね。もうすぐ学校へ行く時間よ」 「うん、ちょっと風を感じたかったんだ」 そう答える幹夫の頬には、どこかひそやかな高揚が滲んでいた。
第二章 木漏れ日の小径
登校の道すがら、幹夫は町外れの小さな林を抜ける近道を使う。この季節、木々は鮮やかな緑の葉を広げ、朝の陽射しを受けてきらきらと透き通っている。 下を向けば、去年の秋に落ちた枯葉の上に今年の若葉が散らばり、目を上げれば枝のあいだから鮮やかな光が幹夫の肩に降り注いだ。 この林に差し込む木漏れ日は、ときどき幹夫に不思議な安心感をもたらす。ごく短い距離なのに、歩いている間はまるで別世界に迷い込んだかのようだ。 「あと少し、この道が長ければいいのに……」 そんな淡い願いが、心の奥でふと湧き上がる。でも林を抜ければ、すぐに学校の門が見える。朝の光を惜しむように幹夫は足取りを緩めた。
第三章 校庭の片隅
五月の校庭は、上級生たちが育てた花壇の花が満開を迎えている。赤や黄色、紫の彩りがまぶしいほどだ。グラウンドでは運動部の声が弾け、教室の窓からは授業の始まりを告げるチャイムが聞こえた。 昼休み、幹夫は校庭の片隅にある小さなベンチに腰かけ、そっと弁当を広げる。周囲は友だちの笑い声やボールの跳ねる音でにぎやかだが、この片隅だけはなぜか風が通り抜けるだけで、静かな空気が流れていた。 ふと見ると、ベンチのそばに落ちている桜の花びらが一枚だけ風に揺られている。もう時期外れの桜はとっくに散り終えたはずなのに、どこかの枝に遅咲きの花が残っていたのだろうか。その儚いピンクが、五月の新緑に一瞬だけ寄り添うように見えた。
第四章 夕暮れの気配
放課後、幹夫は帰宅途中に町の川沿いを歩いた。川面には夕陽がオレンジ色に反射し、小さな小魚が跳ねるのがかすかに見える。 「もうすぐ夏になるのかな……」 そんな思いが胸をよぎる。今日も木漏れ日の小径を通って帰ろうかと思ったが、陽が長くなったとはいえ、夕暮れの気配が川面を少しずつ紫色に染め始めている。 ふわり、と5月の風が吹き、濃淡の緑の葉が枝先でかすかに震えた。どこか甘酸っぱいような匂いがして、幹夫は立ち止まる。 「何の匂いだろう……」 辺りを見回しても、それらしき花は見当たらない。たぶん、川べりの草が夕陽を浴びて放つ香りかもしれない。春の名残と、夏の予感が入り混じったような、不思議な匂い。 幹夫はその香りの正体を確かめるでもなく、なんとなく胸が熱くなる感覚を大切に抱え、再び歩き出した。
第五章 夜の虫の声(エピローグ)
夜になると、幹夫は勉強机に向かい、机上灯だけを頼りに宿題を片づける。窓の向こうからは、かすかな虫の声が聞こえてきた。まだ5月だというのに、夜の空気にはどことなく初夏の湿り気が混ざっているようだ。 窓を開けてみると、昼間とは全く違う顔をした庭が広がっていた。白い月が遠くの山際にかかり、木々の影を薄っすらと浮かび上がらせる。ふっと、昼間に嗅いだあの不思議な香りを思い出す。 「もしまた明日の朝、あの香りに出会えたら……」 幹夫はそんな思いに駆られながら、窓を閉め、布団に潜り込む。胸の奥に広がるのは、何とも言えない淡い期待感。5月の風や香りが、自分の中にそっと新しい何かを芽生えさせているようだった。 遠くで虫の声が高くなったり低くなったりを繰り返し、やがて幹夫の意識は眠りの中へ静かに落ちていく。まだ春の残り香と、もうすぐ訪れる夏の気配が、5月という一瞬の狭間で少年の心をそっと揺り動かしていた。





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