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五月の茶摘み銀河

 五月の朝は、まだ夜の名残を抱いている。

 東の空が白みはじめても、山の端には薄い藍色が残り、茶畑の畝には夜露が細かな星のように宿っていた。幹夫はその光を見つめながら、いつも思った。夜空にあった星たちは、朝になると消えるのではなく、こうして茶の若葉の上へ降りてくるのではないかと。

 茶畑は、眠りから覚めたばかりの銀河だった。

 幾筋もの畝が山裾へなだらかに流れ、露をまとった若葉が、まだ名づけられていない星々のようにかすかに瞬いている。風が吹くと、緑の波は一斉に揺れた。遠い星雲が息をするように、茶畑全体が静かに膨らみ、また沈んだ。

 幹夫は十二歳だった。

 人より少しだけ、世界の音が大きく聞こえる少年だった。人の言葉の端に隠れた寂しさ、机の上に置き忘れられた消しゴムの心細さ、雨に濡れた草の震え、夕暮れの鳥の声に混じる帰れなさ。そういうものが、幹夫の胸にはすぐ入ってきた。

 父はよく言った。

「幹夫は、何でも深く受け取りすぎる」

 責めているわけではなかった。けれど幹夫は、そのたびに自分の心が薄い葉でできているように感じた。触れられればすぐに傷つき、強い日差しに当たれば萎れ、冷たい風に吹かれれば縮こまる葉。

 けれど祖母は、違うことを言った。

「薄い葉だから、光を通すんだよ」

 祖母は茶摘み籠を腰に結びながら、幹夫の背中をそっと撫でた。

「厚い葉には見えない光も、薄い葉には見えることがある」

 その言葉を聞くと、幹夫は少しだけ息がしやすくなった。

 その日は、一番茶の摘み取りの日だった。

 村中がまだ眠りの中にいるような時刻から、茶農家の家々には小さな明かりがともりはじめた。台所では湯が沸き、手ぬぐいが畳まれ、背負い籠が軒下から下ろされた。幹夫の家でも、父が無口に支度をし、祖母が握り飯を竹皮に包んでいた。

 母が生きていたころは、この朝になると家の空気が少し明るくなった。

 母は白い手ぬぐいを頬の下で結び、鏡をのぞきながら笑った。

「今日は春を摘みに行く日ね」

 幹夫はその言い方が好きだった。茶を摘む、ではなく、春を摘む。母にとって若葉は作物である前に、冬を越えて届いた季節の手紙だった。

 母が亡くなってから、幹夫はその言葉を思い出すたび、胸の中に小さな痛みを覚えた。母の声はもう聞けない。けれど新茶の香りがする朝だけは、その声が茶畑のどこかから戻ってくる気がした。

「幹夫、今日は少し手伝ってみるか」

 父が玄関で言った。

 幹夫はうつむいた。

「僕が摘んでも、いいのかな」

「何がだ」

「葉を、傷つけそうで」

 父は少し困った顔をした。父にとって茶摘みは、毎年繰り返される仕事だった。葉を摘み、蒸し、揉み、乾かし、茶にする。その一つ一つが暮らしであり、生活であり、考え込む前に手を動かすべきものだった。

 けれど幹夫には、若葉を摘むことがただの作業には思えなかった。

 せっかく芽吹いたものを、指で取ってしまう。朝露を抱いた小さな命を、籠の中へ入れてしまう。そう考えると、指先が震えた。

 祖母が静かに言った。

「摘むことは、奪うことばかりじゃないよ」

 幹夫は祖母を見た。

「じゃあ、何?」

「香りにして、遠くへ届けることさ」

 祖母は茶畑の方を見た。

「若葉は畑にいれば畑の春だけれど、お茶になれば誰かの湯呑みの中で、もう一度春になる」

 幹夫はその言葉を胸の中で繰り返した。

 もう一度春になる。

 母がいなくなっても、母の言葉が幹夫の中で何度も生まれ直すように。沙耶が町へ引っ越しても、手紙の中で村の空がもう一度ひらくように。摘まれた若葉も、形を変えてどこかの誰かに届くのかもしれない。

 幹夫は小さく頷いた。

「やってみる」

 茶畑に着くころ、朝日が山の端から顔を出した。

 光は最初、遠慮がちに畝の先を撫で、それから少しずつ茶畑全体へ広がっていった。若葉の露が一斉に輝き、幹夫は思わず息を止めた。まるで地上に落ちた星たちが、朝の合図で目を覚ましたようだった。

 村の人々が畑へ入っていく。

 白い手ぬぐいをかぶった女たち、腰を曲げた老人、まだ眠そうな顔の若者たち。みんなそれぞれの畝の前に立ち、指先を若葉へ伸ばした。

 摘む音が始まった。

 ぷちり、ぷちり。

 それはとても小さな音だった。けれど幹夫には、無数の星が生まれる音のように聞こえた。ひとつの畝から、また別の畝から、指先の音が少しずつ重なっていく。誰かが笑い、誰かが声をかけ、籠の中で若葉が柔らかく触れ合う。

 茶摘みの人々は、緑の銀河を渡る星の旅人のようだった。

 幹夫は畑の端に立ったまま、なかなか手を出せなかった。

 若葉はあまりにも美しかった。薄い緑の先に朝の光を宿し、まだ摘まれることを知らないまま、風に揺れている。その無防備さが幹夫の胸を締めつけた。

「幹夫」

 父が隣で低く言った。

「一芯二葉だ」

 父は指先で示した。

「真ん中の芽と、その下の柔らかい二枚。力を入れすぎるな」

 幹夫は父の手を見た。

 大きく、日に焼け、節の太い手だった。その手が若葉に触れると、意外なほどやさしく動いた。父は無口で不器用な人だったが、茶の葉を摘む指先だけは、まるで小さな鳥を包むようだった。

 幹夫は初めて気づいた。

 父のやさしさは、言葉ではなく手にあるのかもしれない。

 幹夫は若葉に指を添えた。

 葉はひんやりとしていた。朝露が指先につき、胸の中まで冷たく澄んだ。真ん中の芽は、まだ生まれたばかりの言葉のように柔らかかった。

 摘んでいいのだろうか。

 ほんの一瞬、迷った。

 そのとき、風が畑を渡った。

 若葉が一斉に揺れた。露が光の粒となって跳ね、幹夫の頬に一粒当たった。まるで誰かが「大丈夫」と小さく触れたようだった。

 幹夫はそっと摘んだ。

 若葉は、音もなく指の中に収まった。

 思っていたより軽かった。軽いのに、そこには冬の寒さも、春の雨も、朝の光も、土の匂いも、全部がしまわれているようだった。幹夫は掌にのせて、しばらく見つめた。

「上手だ」

 父が言った。

 たったそれだけの言葉だった。

 けれど幹夫の胸には、朝日より温かく届いた。

 幹夫はもう一枚、また一枚と摘みはじめた。

 最初はぎこちなかった指先が、少しずつ葉の柔らかさを覚えていった。強く引けば傷つく。弱すぎれば摘めない。ちょうどよい力を探すことは、誰かの心に触れることに似ていた。

 近づきすぎれば痛めてしまう。

 遠慮しすぎれば届かない。

 そのあいだの、ほんの細い場所に、やさしさはある。

 幹夫はそう思った。

 畑の向こうでは、祖母が近所の人と話しながら手を動かしていた。その指は年を取って細くなっていたが、動きは驚くほど速かった。祖母の籠には、若葉がふんわりと積もっていく。緑の星くずのようだった。

 昼近くになると、茶畑の香りはさらに濃くなった。

 摘まれた若葉の青い匂いが籠から立ちのぼり、日差しに温められて畑全体に広がっていく。幹夫はその香りを吸い込みながら、ふと町にいる沙耶のことを思い出した。

 沙耶は今年、この茶摘みを見ていない。

 去年までは、畝の向こうで静かに手を動かしていた。あまり話さない子だったが、幹夫が若葉を見つめていると、同じようにしゃがみ込んでくれた。

「茶の芽って、空に向かう手紙みたい」

 沙耶は一度、そう言ったことがある。

 幹夫はその言葉を覚えていた。沙耶が町へ行ってからも、その言葉だけは茶畑の中に残っているようだった。

 空に向かう手紙。

 幹夫は摘んだ若葉を籠に入れながら思った。

 ならば今日の茶摘みは、空へ宛てた無数の返事なのかもしれない。畑から人へ、人から籠へ、籠から工場へ、そして茶になって遠くの湯呑みへ。若葉たちは星のように旅をする。地上に生まれた緑の星が、人の手を通って、誰かの夜へ届いていく。

 昼休み、幹夫は畑の端の柿の木の下に座った。

 祖母が握り飯を渡してくれた。海苔の匂いと新茶の匂いが混じった。遠くで大人たちの笑い声が聞こえ、製茶工場の方からは機械の低い音が響きはじめていた。

 幹夫は膝の上に籠を置き、その中の若葉を見た。

 摘まれた葉は、畑にあるときより少し暗い緑になっていた。けれど、その内側にはまだ朝の光が残っているようだった。一枚一枚が、小さな星図のように葉脈を広げている。

「疲れたかい」

 祖母が尋ねた。

「少し」

「初めてたくさん摘んだからね」

 幹夫は小さく頷いた。

「おばあちゃん」

「なんだい」

「葉っぱは、摘まれて痛くないのかな」

 祖母は握り飯を食べる手を止めた。

 しばらく、茶畑を見つめていた。

「痛くないとは言えないかもしれないね」

 幹夫の胸がきゅっと縮んだ。

 祖母は続けた。

「でも、生きるものはみんな、何かに触れられて変わっていくんだよ。雨に打たれ、日に照らされ、風に揺らされ、人の手に摘まれる。変わることには、少し痛みがある」

「痛みがあるのに、いいことなの?」

「痛みだけなら、つらいね」

 祖母は幹夫の籠から若葉を一枚取り、掌にのせた。

「でも、この葉はお茶になる。誰かが飲んで、ほっと息をつく。遠くにいる人が、五月の村を思い出す。そうやって、若葉の生きた時間は別の形で続いていく」

 幹夫は若葉を見つめた。

「人も?」

「人も、そうかもしれない」

 祖母の声は、少し遠いところから聞こえるようだった。

「悲しいことも、寂しいことも、そのままでは胸を刺すだけだけれど、いつか誰かを思いやる香りになることがある」

 幹夫は黙った。

 母を亡くした悲しみ。

 沙耶と離れた寂しさ。

 父とうまく話せないもどかしさ。

 それらは幹夫の胸の中で、長いあいだ尖ったままだった。触れると痛く、思い出すと息が詰まった。けれど、もしそれらもいつか香りになるのなら。誰かの湯呑みに注がれるお茶のように、誰かを少し温めるものになるのなら。

 幹夫は、自分の痛みを少しだけ違う目で見られる気がした。

 午後の茶摘みが始まった。

 日差しは強くなったが、風はまだ五月の涼しさを失っていなかった。畑の斜面に並んだ人々は、ゆっくりと移動しながら若葉を摘んでいく。その姿を幹夫はふと、夜空の星座が動いているようだと思った。

 白い手ぬぐいが光り、籠の中の若葉が増え、畝の曲線に沿って人々の列が流れる。

 茶摘み銀河。

 その言葉が、幹夫の胸に浮かんだ。

 五月の茶摘み銀河。

 空にある銀河は星々の集まりだが、この畑の銀河は人の手と若葉の集まりだった。祖母の手、父の手、近所のおばさんの手、幹夫のまだ慣れない手。ひとつひとつの手が、緑の星を摘み、籠の中へ移していく。小さな営みが連なって、大きな流れになる。

 幹夫はその中に、自分も少しだけ加わっていることを感じた。

 それは不思議な感覚だった。

 いつも自分は、世界の端に立っている気がしていた。みんなが笑っている輪の外、教室のざわめきの隅、家族の沈黙の少し向こう。感じすぎる心は、幹夫を人から遠ざけることがあった。

 けれど今、幹夫の指は茶の若葉を摘んでいた。

 父と同じ畝に立ち、祖母と同じ香りの中にいて、村の人々と同じ五月を手の中に受け取っている。言葉を交わさなくても、同じ動作が心を少しずつ結んでいく。

 幹夫は思った。

 銀河の星たちは、互いに遠い。

 けれど遠いまま、ひとつの流れをつくっている。

 人も、そうなのかもしれない。完全には分かり合えない。父の心の奥も、祖母の沈黙も、沙耶の町での寂しさも、幹夫には全部は分からない。けれど、遠いままつながることはできる。同じ季節を見上げ、同じ香りを胸に入れ、時々手紙を送り合うことで。

 夕方、摘み取った若葉は工場へ運ばれた。

 幹夫は父と一緒に軽トラックの荷台へ籠を積んだ。若葉が山のように重なり、そこから濃い青い香りが立ちのぼった。幹夫は思わず顔を近づけた。

 その香りは、朝の畑で嗅いだものより深かった。

 たくさんの若葉の香りが重なっているからだろう。そこには、無数の小さな命の時間が混じっていた。露を抱いた朝、摘む指の温度、日差し、風、畑の土。幹夫はその香りに包まれながら、胸の奥が静かに震えるのを感じた。

「いい葉だ」

 父が言った。

 幹夫は頷いた。

「うん」

「お前も、よく摘んだ」

 父はそれ以上何も言わなかった。

 けれど幹夫には、その短い言葉で十分だった。父の言葉は少ない。けれど今日の幹夫は、その少なさの奥にあるものを少し感じ取ることができた。

 幹夫は父の横顔を見た。

 父もきっと、昔は少年だった。何かに傷つき、何かを言えず、誰かを失い、それでも畑に立ち続けてきたのだろう。父の沈黙は、空っぽなのではない。長い年月を蒸され、揉まれ、乾かされた茶葉のように、言葉ではない香りを持っている。

 工場では、蒸気が白く立ちのぼっていた。

 若葉は熱を受け、鮮やかな緑の香りをいっそう強くした。機械の音が響き、人々の声がその中に混じった。幹夫は工場の入口に立ち、若葉が茶へ変わっていくのを見つめた。

 摘まれたものが、終わるのではない。

 変わっていく。

 そのことを、幹夫は初めて本当に分かった気がした。

 夜になった。

 家に帰ると、祖母がその日の茶を少しだけ淹れてくれた。まだ仕上がりきったものではなく、荒茶の青さを残した一杯だった。湯呑みから立つ香りは、朝の茶畑をそのまま夜へ連れてきたようだった。

 幹夫は縁側に座って、それを飲んだ。

 外には星が出ていた。

 昼間、茶畑に降りていた光が、今度は空へ戻ったように見えた。星々は静かに瞬き、山の上には薄い銀河が流れていた。幹夫は湯呑みを両手で包み、空と畑を交互に見た。

 空の銀河。

 地上の茶摘み銀河。

 どちらも、無数の小さな光からできている。

 祖母が隣に座った。

「今日は、どうだった」

 幹夫は少し考えた。

「茶摘みって、星を集めるみたいだった」

 祖母は目を細めた。

「そうかい」

「でも、集めた星は消えないんだね」

「うん?」

「お茶になる。香りになる。誰かの口に入って、また春になる」

 祖母は静かに笑った。

「幹夫は、今日ちゃんと茶摘みをしたんだね」

「摘んだだけじゃなくて?」

「摘んだだけなら、手が覚える。ちゃんと摘むと、心も覚える」

 幹夫は湯呑みを見つめた。

 茶の水面に、星がひとつ映っていた。風で水面が揺れると、その星は崩れた。けれど消えずに、また小さく形を戻した。

 幹夫は胸の奥に、沙耶へ手紙を書きたい気持ちが湧くのを感じた。

 今日のことを書こう。

 茶畑が朝露の銀河だったこと。父の手が思ったよりやさしかったこと。祖母が、摘むことは香りにして届けることだと言ったこと。自分の指が震えたこと。その震えが、若葉を傷つけないための震えでもあったこと。

 そして、茶摘み銀河のことを書こう。

 ――五月の茶畑には、空とは別の銀河があります。 ――それは星ではなく、若葉と人の手でできています。 ――みんな少しずつ離れて立っているのに、同じ香りの中でつながっています。 ――僕も今日、その銀河の端に少しだけ入りました。

 幹夫は心の中で文を作った。

 すると、不思議なことに、昼間の疲れが少し温かいものへ変わっていった。手首のだるさも、指先についた青い匂いも、首筋に残る日差しの熱も、全部が今日という一日の証だった。

 父が台所から出てきて、縁側の少し離れたところに座った。

 祖母が父にも茶を渡した。

 しばらく三人は黙っていた。

 沈黙の中で、虫の声が聞こえた。遠くの工場の音が、まだ低く続いていた。茶畑は暗くて見えなかったが、そこにあることは香りで分かった。

 幹夫は父に言った。

「お父さん」

「なんだ」

「今日、僕、葉っぱを摘むのが怖かった」

「そうか」

「でも、摘んでよかった」

 父は湯呑みを見つめたまま、少し頷いた。

「そうか」

 同じ「そうか」でも、そこには二つの違う温度があった。最初の「そうか」は受け止めるためのもの。次の「そうか」は、少し安心したようなもの。幹夫には、その違いが分かった。

 分かりすぎる心は、時に苦しい。

 けれど今夜は、その心を少し好きになれそうだった。

 幹夫は空を見上げた。

 銀河は淡く、すぐに雲へ隠れてしまいそうだった。それでも、確かにそこにあった。はっきり見えなくても、流れは続いている。茶畑も暗闇の中に沈んでいるが、若葉の香りは夜気の中に残っている。

 見えないものが、消えたわけではない。

 幹夫はそれを、茶摘みの日に知った。

 母の声も、沙耶との時間も、父のやさしさも、自分の震える心も、すべて形を変えながらどこかに残っている。摘まれた若葉が茶になり、茶が香りになり、香りが誰かの記憶になるように。

 その夜、幹夫は机に向かい、沙耶への手紙を書いた。

 字は少し震えていた。けれど幹夫は、それを消さなかった。

 震える字には、今日の風が入っている。

 そう思えたからだった。

 手紙の最後に、幹夫はこう書いた。

 ――いつか沙耶ちゃんにも、この茶摘み銀河を見せたいです。 ――空の銀河は夜にしか見えないけれど、五月の茶摘み銀河は朝から夕方まで畑に流れています。 ――白い手ぬぐいの星、若葉の星、籠の中に集まる緑の星。 ――僕はその中で、自分もひとつの小さな星になれた気がしました。 ――小さくて、すぐ揺れてしまう星だけれど、流れの中にいました。

 書き終えてから、幹夫は窓を開けた。

 夜風が入り、部屋に新茶の香りが満ちた。遠くで茶畑が眠っている。昼間あれほど賑やかだった畑は、今は静かな闇の中にある。けれど幹夫には分かった。眠っている畑の奥で、今日摘まれた若葉たちの光がまだ息づいている。

 空には銀河があった。

 淡く、遠く、静かに流れていた。

 幹夫は胸の中で、その流れと昼間の茶畑の流れを重ねた。星と若葉。夜と朝。別れと再会。痛みと香り。遠いものと近いもの。

 すべてが、五月の夜の中でひとつにつながっているようだった。

 幹夫はそっと目を閉じた。

 まぶたの裏に、朝露の茶畑が広がった。白い手ぬぐいの人々が畝の間を進み、若葉が籠へ集まり、緑の星々が静かに輝いている。その銀河の端で、少年の指が一枚の葉を摘む。

 怖れながら。

 祈るように。

 傷つけない強さを探しながら。

 幹夫は思った。

 僕の心も、いつか香りになるだろうか。

 この揺れやすさも、この寂しさも、この小さな痛みも、いつか誰かを少しだけ温めるものになるだろうか。

 答えはなかった。

 けれど、開けた窓から新茶の香りが流れ込んできた。

 それは、言葉ではない返事のようだった。

 幹夫は手紙を封筒に入れた。そこへ祖母にもらった新茶を、ほんのひとつまみだけ和紙に包んで添えた。

 封筒の中に、五月の茶摘み銀河を全部入れることはできない。

 朝露も、父の手も、祖母の声も、畑の風も、空の銀河も、そのまま閉じ込めることはできない。

 それでも、香りなら少し運べる。

 言葉なら、ほんの少し光を残せる。

 幹夫は封をして、机の上に置いた。

 夜は深くなっていた。茶畑も、山も、家々も、静かに眠っていた。けれど幹夫の胸の中では、今日見た銀河がまだ流れていた。

 五月の茶摘み銀河。

 それは空の遠くにあるものではなかった。

 人の手の届くところにあり、若葉の柔らかさの中にあり、傷つけまいと震える指先の中にあり、誰かへ何かを届けたいと願う心の中にあった。

 幹夫は窓辺に立ち、もう一度空を見上げた。

 星は静かだった。

 けれどその静けさの奥で、無数の光が遠く流れている。

 地上では、茶畑が香っている。

 そしてそのあいだに、幹夫は立っていた。

 小さな少年の胸に、ひとつの銀河を抱きながら。

 
 
 

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