五月の茶畑で会いましょう
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 15分

五月になると、村は緑の海になった。
朝の光は、まだ眠りの縁をなぞるように淡く、茶畑の畝は幾筋もの波となって山裾へ寄せていた。露を抱いた若葉は、指で触れればすぐに壊れてしまいそうなほど柔らかく、けれど陽が差すにつれて、ひとつひとつが内側から灯をともすように明るくなる。
幹夫は、その茶畑の端に立つのが好きだった。
十一歳の彼は、村の子どもたちの中では少し変わっていた。誰かが笑う声の裏に隠した寂しさに気づいてしまう。夕焼けが赤すぎる日は胸が苦しくなる。雨上がりの土の匂いを嗅ぐと、理由もなく泣きたくなる。学校では「考えすぎだ」と言われた。父には「男の子なんだから、もう少し強くなれ」と言われた。
けれど幹夫には、強さというものがどういう形をしているのか、まだよく分からなかった。石のように黙ることなのか。風のように忘れることなのか。それとも、胸の奥で震えているものを、人に見えないように手で押さえつづけることなのか。
幹夫の母は、去年の暮れに亡くなった。
茶摘みの季節にはいつも畑にいた母だった。白い手ぬぐいを頬の下で結び、背負い籠を揺らしながら、若葉を摘んでいた。その手はよく働く手だったが、幹夫の熱を測るときだけは、羽のように軽かった。
「新茶の葉はね、幹夫」
母はよく言った。
「一枚一枚に、春がしまってあるの。寒い冬を越えて、ようやく出てくるでしょう。だから、摘むときは乱暴にしちゃいけない。春が痛がるから」
幹夫は母のそういう言い方が好きだった。ほかの大人なら笑ってしまうような言葉も、母が言うと本当のことのように思えた。春には痛みがあり、若葉には息があり、風は言葉を持っている。幹夫がひそかに信じていた世界を、母だけは同じように見てくれている気がした。
母が入院したのは、霜の深い一月だった。
その日から、家の中の音は少なくなった。台所で包丁がまな板を叩く音も、縁側で母が洗濯物を畳む音も消えた。父は黙って仕事に行き、祖母は仏壇の前で長く手を合わせるようになった。幹夫は毎朝、母の使っていた湯呑みを棚から出し、それが空のまま食卓に置かれているのを見て、胸の中に小さな穴が増えていくのを感じた。
病室の母は、以前よりずっと細くなっていた。窓辺に置かれた花瓶の水仙の方が、生きている力を強く持っているように見えた。それでも母は、幹夫が来ると目を細めて笑った。
「もうすぐ春ね」
母は窓の外を見ながら言った。
そこには病院の白い壁と、駐車場の隅に立つ裸の木しかなかった。春など、まだどこにも見えなかった。
「五月になったら、また茶畑がきれいになるよ」
幹夫は言った。言いながら、五月が来るまで母がここにいるのだろうか、と考えてしまい、すぐにその考えを追い払った。そんなことを思った自分が、ひどく冷たい人間に思えた。
母は枕元の小さな手帳を取り、震える指で一枚の紙を破った。そこに鉛筆でゆっくりと文字を書いた。
――五月の茶畑で会いましょう。
幹夫はその紙を受け取った。
「なに、それ」
「約束」
母は笑った。
「五月の茶畑には、いろんなものが戻ってくるのよ。冬に隠れていた色も、匂いも、鳥の声も。だから、幹夫が本当に会いたいと思えば、きっと会える」
「お母さんにも?」
幹夫は尋ねてしまってから、喉の奥がつまった。
母はしばらく答えなかった。窓の外で、風が裸の枝を揺らした。枝の影が白い壁に映り、細い指のように震えていた。
「幹夫が、ちゃんと幹夫のままでいれば」
母は静かに言った。
「会えるわ」
母が亡くなったのは、それから二週間後だった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。村の人たちは黒い服を着て家に来た。線香の煙が部屋の天井近くで薄く重なり、畳の匂いも、花の匂いも、すべてが知らないものになった。幹夫は泣かなかった。泣けなかった。ただ、自分の中の何かがひっそりと凍っていくのを感じていた。
葬儀のあと、父は幹夫の肩に手を置いた。
「泣きたいときは泣け」
父はそう言った。けれど父自身の目は乾いていた。乾いているのに、ひどく赤かった。幹夫はその赤さを見て、父もどこかで泣いているのだと思った。人の体には、涙の出る場所が目だけではないのかもしれない。
それから幹夫は、茶畑に行かなくなった。
冬が過ぎ、梅が咲き、桜が散っても、幹夫は畑の方を見なかった。茶畑は母の場所だった。そこへ行けば、母の声が聞こえてしまう気がした。そして聞こえた瞬間、母がいないことも同時に分かってしまう気がした。
五月が近づくにつれ、村は忙しくなった。朝早くから人々が畑へ出て、茶摘みの支度を始めた。製茶工場からは、蒸された茶葉の青く甘い香りが流れてきた。幹夫はその匂いを避けるように、家の裏道を通って学校へ行った。
けれど匂いというものは、逃げようとする者ほど追いかけてくる。風向きが変わるたび、あの香りは幹夫の胸に入り込んだ。柔らかく、澄んでいて、少しだけ苦い。母の手の匂いだった。
ある日の放課後、幹夫は教室に忘れたノートを取りに戻った。窓の外では、運動場に残った子どもたちが野球をしていた。ボールを追う声が明るく跳ねていたが、幹夫にはそれが遠い国の音のように聞こえた。
机の中を探していると、隣の席の真紀が入ってきた。
「幹夫くん、まだいたの」
真紀は手に図書室の本を抱えていた。髪を二つに結び、いつも少し眠そうな目をしている子だった。幹夫と同じように、休み時間に大声で遊ぶより、窓の外を見ていることが多かった。
「ノート、忘れた」
「そっか」
真紀はしばらく黙ってから、言った。
「幹夫くん、最近、畑に来ないね」
幹夫は返事をしなかった。
真紀の家も茶農家だった。母が元気だった頃、茶摘みの手伝いに行くと、真紀もよく畑にいた。二人で畝の間に座り込み、摘み残された小さな葉を探したことがある。母はそんな二人を見て、「五月の子どもたちね」と笑っていた。
「うちのおばあちゃんが言ってた」
真紀は続けた。
「幹夫くんのお母さんは、葉を摘むのがすごく上手だったって。手が早いのに、葉を傷つけないんだって」
幹夫の胸が、かすかに痛んだ。傷つけない。その言葉だけが、茶葉の上に落ちた露のように光った。
「そんな話、しないで」
幹夫は小さく言った。
真紀は驚いた顔をした。幹夫も、自分の声の冷たさに驚いた。
「ごめん」
真紀は目を伏せた。
幹夫はすぐに謝りたかった。けれど言葉が出てこなかった。謝るということは、自分が何に傷ついたのかを認めることだった。彼にはまだ、それを認める力がなかった。
真紀は教室を出ていく前に、扉のところで振り返った。
「でも、五月の畑は待ってると思う」
「誰を」
「幹夫くんを」
そう言って、真紀は廊下へ消えた。
その夜、幹夫は眠れなかった。
窓の外では蛙が鳴いていた。声は田んぼの水面を渡り、家の壁にしみこむように響いた。祖母の部屋からは、かすかな寝息が聞こえた。父はまだ帰っていなかった。遅くまで製茶工場を手伝っているのだ。
幹夫は机の引き出しを開けた。
母が病室でくれた紙は、そこにあった。何度も広げ、何度も畳んだせいで、折り目が白くなっていた。
――五月の茶畑で会いましょう。
文字は少し震えていた。母の指の震えが、そのまま紙の中に残っているようだった。
幹夫は紙を胸に当てた。すると、こらえていたものが喉の奥まで上がってきた。声にはならなかった。ただ息が細く乱れ、目のふちが熱くなった。
「会えるわけない」
幹夫は暗闇に向かってつぶやいた。
「だって、いないんだもの」
その言葉を口にした瞬間、幹夫ははじめて母がいないことを、はっきりと知った。今までは、どこか遠い病室にまだ母がいるような気がしていた。戸棚の湯呑みの向こうに、台所の戸口に、畑の畝の間に、母の影が少しずつ残っているような気がしていた。
けれど母はもういなかった。
いないという事実は、冷たい水のように幹夫の胸へ流れ込んだ。幹夫は布団にもぐり、声を殺して泣いた。涙はあとからあとから出てきた。自分の中に、こんなにたくさんの水があったのかと思った。
翌朝、幹夫は早く目を覚ました。
空はまだ薄い青だった。家の中は静まり、仏壇の花だけが白く浮かんでいた。幹夫は母の紙をポケットに入れ、そっと玄関を出た。
道には夜露が残っていた。草の先に小さな雫が光り、踏むたびに靴が湿った。鳥が一羽、まだ眠そうな声で鳴いた。東の空が少しずつ明るみ、山の稜線が墨絵のように浮かび上がっていた。
幹夫は茶畑へ向かった。
畑に近づくほど、香りが濃くなった。新しい葉の匂い。土の匂い。朝の冷気の中で目覚める草の匂い。どれもが幹夫の胸に触れた。触れられるたび、痛かった。けれどその痛みは、ただ傷つけるだけのものではなかった。凍っていた場所を、少しずつ溶かしていく痛みだった。
茶畑は、母が言った通り緑の海だった。
整えられた畝がゆるやかに続き、若葉は朝露を帯びて銀色に光っていた。風が吹くと、畑全体がかすかに揺れた。波のようで、息のようで、誰かが遠くから手を振っているようでもあった。
幹夫は畑の端に立った。
そこは母がよく休んでいた場所だった。小さな柿の木が一本あり、その下に古い石が置かれている。母は仕事の合間、その石に腰かけて水筒のお茶を飲んだ。幹夫が小さい頃は、母の膝に座り、まだ熱の残る湯呑みを両手で包んだ。
幹夫はポケットから紙を出した。
「来たよ」
声は風にさらわれそうなほど小さかった。
「五月の茶畑に、来たよ」
返事はなかった。
幹夫はしばらく待った。茶畑の上を風が渡った。遠くで犬が吠えた。山の方から鳥の声が降りてきた。世界はいつも通りに動いていた。母だけが、そこにいなかった。
胸の奥に、また涙が込み上げた。
「嘘つき」
幹夫は紙を握りしめた。
「会えるって言ったのに」
そのとき、風が少し強く吹いた。
茶の若葉が一斉に揺れ、露が光の粒になって跳ねた。幹夫の頬に、ひんやりとした雫が当たった。まるで誰かの指が、そっと涙を拭ったようだった。
幹夫は息を止めた。
風の中に、母の匂いがした。
それははっきりした声ではなかった。姿でもなかった。けれど幹夫には分かった。母が茶畑で働いた朝の匂い。手ぬぐいにしみた日なたの匂い。摘み取った若葉を抱えたときの、青く柔らかな匂い。
幹夫は目を閉じた。
すると、母の声が心の奥に落ちてきた。
――幹夫、葉を傷つけないようにね。
それは記憶だったのかもしれない。風の音を聞き間違えただけかもしれない。けれど幹夫には、どちらでもよかった。母はもういない。けれど母がいたことは、消えない。母が摘んだ葉の匂いも、笑った声も、幹夫の髪を撫でた手の温かさも、消えていない。
消えていないものが、自分の中にある。
そう思った瞬間、幹夫はその場にしゃがみ込んだ。泣き声がこぼれた。今度は隠せなかった。茶畑の中で、朝の光の中で、幹夫は声をあげて泣いた。
泣いていると、背後で草を踏む音がした。
「幹夫くん」
真紀だった。手には小さな籠を持っていた。茶摘みの手伝いに来たのだろう。彼女は幹夫の泣き顔を見ても、驚いたふうではなかった。ただ静かに隣へしゃがんだ。
「来たんだね」
幹夫は袖で涙を拭った。
「真紀ちゃん」
「うん」
「お母さん、いない」
「うん」
「でも、いた」
言葉にすると、胸の中の絡まった糸が少しほどけた。
「ここに、いた」
真紀は何も言わず、畑を見た。朝日が若葉の上を滑っていく。光を受けた茶畑は、まるで無数の小さな命が同時に目を覚ましているようだった。
「うちのおばあちゃんがね」
真紀はそっと言った。
「人は亡くなると、声は遠くなるけど、匂いは残るって言ってた。だから、会いたい人に会いたいときは、その人が好きだった場所へ行けばいいんだって」
幹夫は紙を広げた。
母の文字が朝の光を受けていた。
――五月の茶畑で会いましょう。
「お母さん、約束守ったのかな」
幹夫が尋ねると、真紀は少し考えてから言った。
「幹夫くんが来たから、守れたんだと思う」
幹夫はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。
幹夫が来たから、約束は守られた。
会うということは、相手が姿を見せることだけではないのかもしれない。こちらから歩いていくこと。怖くても、痛くても、その場所へ戻ること。忘れないでいること。忘れないまま、生きていくこと。
やがて畑の向こうから、大人たちの声が聞こえてきた。茶摘みの朝が始まるのだ。白い手ぬぐいをかぶった人々が、畝の間に入っていく。指先で若葉を摘む音は、雨のはじめのようにかすかだった。
真紀が籠を差し出した。
「少し摘んでみる?」
幹夫は迷った。母の言葉がよみがえった。
春が痛がるから、乱暴にしちゃいけない。
幹夫は一枚の若葉に指を添えた。柔らかかった。こんなにも薄いものが、冬を越えてきたのだと思うと、不思議な気がした。雪の日も、霜の朝も、冷たい風の夜も、この葉はどこかで春を待っていた。
幹夫はそっと摘んだ。
葉は小さな音も立てず、彼の指の中に収まった。掌にのせると、緑の赤ん坊のように軽かった。
「上手」
真紀が言った。
幹夫は首を振った。
「まだ、分からない」
「何が?」
「強くなるって、どういうことか」
真紀は畑の向こうを見た。
「泣いても来られたなら、それで強いと思う」
幹夫は黙った。
風がまた吹いた。茶畑の波が揺れ、山の緑が深く息をした。幹夫は掌の若葉を見つめた。小さな葉脈が、光の中で細く透けていた。それは人の心の中にある、目に見えない道筋のようだった。
幹夫は思った。
自分はこれからも、夕焼けが赤すぎれば胸を痛めるだろう。誰かの笑い声の裏にある寂しさに気づいてしまうだろう。雨の匂いに泣きたくなる日もあるだろう。けれど、それは弱さだけではないのかもしれない。
傷つきやすい心は、傷ついたものを見つけることができる。
震える心は、風の小さな声を聞くことができる。
母が愛した若葉を、傷つけずに摘むことができる。
幹夫は籠の中へ、そっと葉を置いた。
その日の夕方、家へ帰ると、父が縁側に座っていた。作業着の膝に茶葉のかけらがついていた。幹夫を見ると、父は少し驚いた顔をした。
「畑へ行ったのか」
「うん」
幹夫は答えた。
父は何か言いかけて、やめた。代わりに、縁側の隣を軽く叩いた。幹夫はそこに座った。庭の隅では、紫蘭が咲いていた。西日が家の柱を金色に染めていた。
「母さんは」
父は低い声で言った。
「五月が好きだった」
「知ってる」
「お前が生まれた年の五月も、茶畑がきれいでな。母さんは、お前を抱いて畑まで行った。まだ首もすわってないのに」
父は少し笑った。笑ったあと、顔を伏せた。
「茶畑の緑を見せたいって言ってた。覚えてるはずないのにな」
幹夫は父の横顔を見た。日に焼けた頬に、深い皺があった。その皺の中にも、父がこらえてきた涙が隠れているような気がした。
「お父さん」
「ん」
「泣いてもいいよ」
父は何も言わなかった。
長い沈黙のあと、父の肩がわずかに震えた。幹夫はその震えを見て、父がはじめて遠い人ではなくなった気がした。強いと思っていた父も、本当はずっと痛かったのだ。
幹夫は父の作業着の袖を握った。
二人は縁側に並んで、暮れていく庭を見ていた。言葉は少なかった。けれど沈黙は、もう冷たくなかった。
その晩、祖母が新茶を淹れてくれた。
湯呑みから立つ湯気は白く、香りは家中に広がった。幹夫は両手で湯呑みを包んだ。母の湯呑みも、仏壇の前に置かれていた。
一口飲むと、舌の上に淡い苦みが広がり、そのあとで甘みがゆっくり戻ってきた。幹夫はそれを、悲しみに似ていると思った。最初は苦く、胸をしめつける。けれど時間が経つと、その中にあった温かさが少しずつ分かってくる。
悲しみは、愛したものがあった証なのだ。
幹夫は仏壇の母の写真を見た。写真の母は、茶畑で笑っていた。白い手ぬぐいの下で、目尻に小さな皺を寄せていた。
「また行くね」
幹夫は小さく言った。
「来年も、五月になったら」
写真の母は何も答えなかった。けれど茶の香りが、静かに部屋を満たしていた。
その年から、幹夫は毎年五月になると茶畑へ行くようになった。
背が伸びても、声が変わっても、村を出て遠い町の学校へ通うようになっても、五月のどこか一日だけは必ず帰った。朝早く、まだ露の残る畑の端に立ち、あの紙を胸に入れて、若葉の匂いを吸い込んだ。
年月が経つにつれて、母の声は少しずつ遠くなった。顔の細かな表情も、手の温度も、思い出そうとしても輪郭がぼやけることがあった。そのたびに幹夫は悲しくなった。忘れたくないのに、人は忘れてしまう。どんなに大切なものでも、時間は静かにさらっていく。
けれど五月の茶畑に立つと、不思議なことに母は戻ってきた。
完全な姿ではない。言葉でもない。ただ、緑の匂いの中に、光の揺れの中に、摘み取られた若葉の柔らかさの中に、母がいた。幹夫はそのたびに思った。
会うとは、思い出が生き返ることではない。
失った人とともに、今の自分がもう一度息をすることなのだ。
やがて幹夫は大人になった。
村を離れ、町で働き、忙しさの中で季節を忘れそうになることもあった。それでも五月の風が吹くと、胸の奥に青い香りがひらいた。幹夫は仕事を休み、列車に乗って故郷へ帰った。
茶畑は変わらず、山裾に広がっていた。
昔より機械の音が増え、人の数は減った。それでも若葉は毎年、同じように光を抱いていた。幹夫は畑の端に立ち、古い柿の木を見上げた。幹は太くなり、枝は少し傾いていた。
その下の石に、誰かが座っていた。
真紀だった。
彼女も大人になっていた。髪を後ろで束ね、膝の上に茶摘み用の手袋を置いていた。幹夫を見ると、昔と同じように少し眠そうな目で笑った。
「来たんだね」
「うん」
幹夫は答えた。
「五月だから」
真紀は畑を見た。
「今年も、いい葉だよ」
風が二人の間を通った。若葉が揺れ、遠くで鳥が鳴いた。幹夫は胸ポケットから、あの紙を出した。紙はすっかり古び、母の文字も薄くなっていた。それでも、まだ読めた。
――五月の茶畑で会いましょう。
真紀はそれを見て、静かに目を細めた。
「まだ持ってたんだ」
「うん」
「約束だものね」
幹夫は頷いた。
茶畑の向こうから、朝の光が満ちてきた。緑の波が、ゆっくりと明るくなる。幹夫はその光景を見つめながら、母が自分に残してくれたものを思った。
それは、悲しみを消す魔法ではなかった。
寂しさを忘れさせる言葉でもなかった。
母がくれたのは、悲しみを抱いたまま歩いていくための場所だった。会いたい人に会えない現実を知りながら、それでも会いに行くことのできる季節だった。
五月の茶畑。
そこでは、失ったものが戻るのではない。
失ったものを抱いて生きてきた自分に、もう一度会えるのだ。
幹夫は古い紙を丁寧に畳み、胸ポケットにしまった。そして、若葉に指を添えた。
柔らかい葉だった。
冬を越え、霜を耐え、春を待ち、ようやく五月の光の中へ出てきた葉だった。
幹夫はそっと摘んだ。
その指先に、母の手の温もりが重なったような気がした。
風が吹いた。
茶畑は緑の海のように揺れた。
幹夫は心の中で言った。
――お母さん、今年も来たよ。
その声は、若葉の上を渡り、朝の光に溶けていった。返事はなかった。けれど幹夫はもう、返事がなくても寂しくはなかった。
五月の茶畑は、今年も彼を待っていた。
そして幹夫もまた、来年の五月へ向かって、静かに歩き出すのだった。





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