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五月の露と銀河のあいだ

五月の露は、夜が地上に置いていった小さな星だった。

 幹夫は、茶畑の朝を見るたびにそう思った。まだ空の底に藍色が残り、山の端がゆっくり白みはじめるころ、茶の若葉の先には無数の露が宿っている。ひと粒ひと粒は息をかけただけで消えてしまいそうなのに、その中には空も、山も、消え残った星も、みんな逆さまに映っていた。

 露は小さい。

 けれど、とても深い。

 幹夫は十二歳だった。

 村の人たちは、幹夫のことを「感じやすい子」と言った。悪い意味ではなかったのかもしれない。けれど、その言葉は幹夫の胸に、いつも少しだけ冷たく残った。

 感じやすい。

 それは、まるで心の皮が人より薄いと言われているようだった。友だちの何気ない冗談が、日が暮れても胸の中で響いていることがある。教室の隅に忘れられた上履きを見るだけで、持ち主のいない寂しさまで想像してしまう。夕方の空に雲が赤く焼けすぎると、理由もなく泣きたくなる。

 父はときどき言った。

「幹夫は、何でも胸に入れすぎる」

 父は責めているのではない。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど幹夫には、入れすぎない方法が分からなかった。

 風が吹けば、若葉は揺れる。 雨が降れば、土は匂う。 誰かの声が沈めば、心はそれを聞いてしまう。

 それは自分では止められないことだった。

 五月の茶畑は、幹夫の胸に似ていた。

 薄い若葉は少しの風にも震え、夜が明ければ露をまとい、日が昇ればそれを失う。けれどその弱さの中に、朝の光は一番きれいに宿るのだった。

 母が生きていたころ、よく幹夫を朝の茶畑へ連れていってくれた。

 母は白い手ぬぐいを肩にかけ、まだ眠そうな幹夫の手を引いて坂道を上った。茶畑の端に着くと、母は必ずしゃがみ込んで、若葉の先の露を見せた。

「幹夫、見てごらん」

 母の声は、朝の空気と同じくらい澄んでいた。

「露の中に、夜が入っているでしょう」

「夜?」

「そう。夜の星も、風も、誰にも言えなかった言葉も、朝になる前にこうして丸くなるの」

 幹夫は小さな露を覗き込んだ。

 露の中には、本当に空が入っていた。逆さまの山、淡い雲、消えかけた星。幹夫が息を止めて見つめていると、母はそっと笑った。

「露はね、すぐ消えるからきれいなのではないのよ」

「じゃあ、どうしてきれいなの」

「消えるものなのに、こんなにたくさん映そうとするから」

 その言葉を、幹夫はずっと覚えていた。

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。白い病室で、母の手は驚くほど軽くなっていた。幹夫はその手を握りながら、どうして人の温かさは瓶にしまっておけないのだろうと思った。どうして声は、紙にそのまま貼りつけておけないのだろうと思った。

 母がいなくなってから、幹夫は朝の茶畑へ行くのが怖くなった。

 露を見ると、母の声が戻ってくる。

 戻ってくるのに、母はいない。

 そのことが苦しかった。

 けれど五月になると、村じゅうが茶の香りに包まれる。幹夫が避けようとしても、香りは風に乗って家の中へ入り、廊下を通り、枕元にまで届いた。摘まれた若葉の青い匂い。蒸された茶葉の甘い匂い。雨上がりの土の匂い。

 それらは、母のいない場所に母がいたことを知らせる匂いだった。

 その年の五月のある日、学校で理科の宿題が出た。

「朝の自然をひとつ観察して、絵と文章にしてきなさい」

 先生は黒板にそう書いた。

 友だちは、田んぼの蛙や、庭の花や、軒先の燕を描くと言っていた。幹夫はすぐに露を思った。茶の若葉の露。五月の朝、銀河の名残を宿す小さな水の粒。

 けれど、そのことを考えただけで胸が痛んだ。

 露を見に行けば、母を思い出す。

 思い出せば、母がいないことも同時に分かってしまう。

 幹夫は放課後、茶畑の坂の途中で立ち止まった。

 夕方の茶畑は、もう露を持っていない。若葉は西日に照らされ、金色を帯びていた。風が吹くと、畝全体がゆっくり波打つ。その先には山があり、山の上にはまだ明るい空があった。

 昼間の空には銀河は見えない。

 けれど、ないわけではない。

 幹夫はそのことを知っていた。見えないものは、消えたものとは違う。母の声もそうなのだろうか。見えないだけで、どこかにあるのだろうか。

 そう思いたいのに、信じるのは簡単ではなかった。

 家に帰ると、祖母が縁側で茶葉を選っていた。

 皺のある指先が、細い茶葉を少しずつ分けている。祖母の手は年を取っていたが、茶葉に触れるときだけは、少女のようにやわらかかった。

「幹夫、どうしたね」

 祖母は顔を上げずに言った。

「顔に夕方がついているよ」

 幹夫は縁側に腰を下ろした。

「宿題が出た」

「どんな宿題だい」

「朝の自然を観察するの」

「いい宿題じゃないか」

 幹夫は黙った。

 祖母は手を止め、幹夫を見た。

「露を見に行くのが怖いのかい」

 幹夫は驚いた。

 どうして分かるのだろう。

 祖母は静かに笑った。

「五月の朝といえば、幹夫は昔から露ばかり見ていたからね。母さんと一緒に」

 母さん。

 その言葉が出ると、家の中の空気がほんの少し深くなった。

 幹夫は膝の上で手を握った。

「露を見ると、お母さんの声がする気がする」

「うん」

「でも、お母さんはいない」

「うん」

「それが嫌なんだ」

 祖母はしばらく黙っていた。

 茶葉の香りが、夕方の風に少しだけ混じった。遠くの製茶場から、機械の低い音が聞こえてくる。

「幹夫」

 祖母は言った。

「露はね、夜の終わりにできるものだけれど、朝の始まりでもあるんだよ」

「終わりと始まり?」

「そう。夜が消えるとき、すぐ昼になるわけじゃない。そのあいだに、露が降りる。別れと出会いのあいだにある水だね」

 幹夫は祖母を見た。

「別れと出会いのあいだ」

「母さんのことも、そうかもしれないよ」

 祖母の声は、茶を淹れる湯のように静かだった。

「いないことばかりを見ると、胸が冷える。いたことばかりを思い出すと、涙が出る。そのあいだに、露みたいな場所がある。悲しいけれど、光も映る場所だよ」

 幹夫は返事ができなかった。

 その夜、幹夫は布団の中で眠れなかった。

 窓の外には星があった。雨のあとで空気が澄んでいるせいか、山の上に銀河が薄く流れていた。白い川というより、夜そのものが少しだけ擦れて、向こう側の光がにじんでいるようだった。

 幹夫は起き上がり、机の引き出しを開けた。

 そこには、母の古いハンカチが入っていた。淡い水色の小さなハンカチで、端に白い糸で花の刺繍がしてある。母が病院へ持っていっていたものだった。亡くなったあと、幹夫はそれをこっそりしまっていた。

 ハンカチには、もう母の匂いはほとんど残っていない。

 それでも幹夫は、ときどきそれを手に取った。匂いが薄れていくのが怖くて、あまり長く触れないようにしていた。大切なものほど、触れると減ってしまう気がしたからだ。

 幹夫はハンカチを胸に当てた。

 明日の朝、露を見に行こう。

 そう思った。

 怖いけれど、行こう。

 露が消える前に。銀河が朝の光に隠れる前に。母の声が遠くなりすぎる前に。

 翌朝、まだ家じゅうが眠っているころ、幹夫はそっと起きた。

 空は暗かった。けれど完全な夜ではない。東の端にかすかな白さがあり、山の輪郭が少しずつ浮かび上がっている。幹夫は母のハンカチをポケットに入れ、玄関を出た。

 外の空気は冷たく澄んでいた。

 草にはもう露が降りていて、歩くたびに靴の先が濡れた。田んぼの方から蛙の声が聞こえる。遠くで鳥が一羽、まだ眠そうに鳴いた。

 茶畑へ続く坂を上ると、新茶の香りが濃くなった。

 夜明け前の新茶の香りは、昼間のそれとは違っていた。昼の香りは明るく、若々しく、まっすぐ胸に届く。けれど朝前の香りは、もっと静かで、薄く冷たく、心の奥の暗いところへもそっと入ってくる。

 茶畑に着いた。

 幹夫は息を止めた。

 そこには、露の銀河があった。

 畝の曲線に沿って、無数の露が光っている。若葉の先、葉の縁、まだ摘まれずに残った小さな芽。その一つ一つに、夜明け前の空が映っていた。頭上には本物の銀河が淡く流れ、足元には露の銀河が震えている。

 幹夫は、茶畑と空のあいだに立っていた。

 上には遠い光。 下にはすぐ消える光。 そのあいだに、自分の胸があった。

 幹夫は畝の端にしゃがんだ。

 一粒の露を覗き込む。

 露の中に、空があった。逆さまの銀河があった。山の黒い線があった。そして、幹夫自身の顔が少しだけ歪んで映っていた。

 その顔は、泣きそうだった。

「お母さん」

 幹夫は小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 ただ、露が光った。

 その光があまりにも小さく、あまりにも確かだったので、幹夫の胸の中で何かがほどけた。涙が目に浮かんだ。こぼれないようにしようと思ったが、止められなかった。

 涙は頬を伝い、顎から落ちた。

 土に吸われた。

 露と同じように、すぐ見えなくなった。

 幹夫はそれを見て、また泣いた。けれどその涙は、冬の病室でこらえていた涙とは少し違っていた。冷たいだけではなかった。胸の奥にしまっていたものが、ようやく朝の空気に触れたような涙だった。

「ここにいたんだね」

 幹夫はつぶやいた。

 母が、ではなかった。

 母を思う自分の気持ちが、ここにいたのだと思った。

 ずっと、胸の奥に隠れていた。泣かないように、思い出しすぎないように、触れないようにしていた。でもそれは消えたわけではなく、夜のあいだに露になって、若葉の先へ降りていたのかもしれない。

 背後で草を踏む音がした。

 幹夫は振り返った。

 父だった。

 作業着の上に薄い上着を羽織り、坂道を上ってきたところだった。眠そうな顔をしているが、目だけははっきりしていた。

「やっぱりここか」

 父は言った。

「起こした?」

「いや。目が覚めた」

 父は幹夫の隣まで来て、茶畑を見渡した。

 しばらく何も言わなかった。

 幹夫は涙を拭いた。けれど父は、見ないふりをしてくれた。見ないふりという優しさがあることを、幹夫はその朝初めて知った。

「露が多いな」

 父が言った。

「うん」

「今日は晴れる」

「分かるの?」

「露がこういうふうにつく朝は、だいたい晴れる」

 幹夫は若葉の露を見た。

「お父さんには、露は天気のしるしなんだね」

「そうだな」

 父は少し考えた。

「お前には?」

 幹夫は驚いた。

 父がそんなふうに尋ねることは、あまりなかった。

「僕には」

 幹夫は露を見つめた。

「夜と朝のあいだの手紙みたい」

 父は黙っていた。

 幹夫は続けた。

「銀河が遠くから降りてきて、若葉の上で少しだけ休んでいるみたいにも見える」

 言ってから、幹夫は少し恥ずかしくなった。

 また変なことを言ってしまったかもしれない。

 けれど父は笑わなかった。

「母さんも、そんなことを言いそうだ」

 父は低く言った。

 その声は、朝の露のように静かだった。

「お母さんも?」

「ああ。露を見て、夜が葉に乗っていると言っていた」

 幹夫の胸が温かく痛んだ。

「僕も覚えてる」

「そうか」

 父は茶畑を見たまま言った。

「俺はそのころ、そんな言葉を聞いても、よく分からんと思っていた」

「今は?」

 父は少し黙った。

 東の空が、ほんの少し明るくなった。露の光が変わりはじめた。銀河は薄れていく。

「今も、全部は分からん」

 父は正直に言った。

「でも、分からないまま覚えている言葉もある」

 幹夫は父を見た。

 父の横顔には、朝の光がまだ届いていなかった。けれど目のあたりだけが、少し湿っているように見えた。幹夫は何も言わなかった。父も泣くのだろうかと思った。涙として出なくても、父の中にも露のようなものが降りる朝があるのだろう。

「お父さん」

「なんだ」

「お母さんの声、忘れそうになることある?」

 父はすぐには答えなかった。

 長い沈黙のあと、言った。

「ある」

 その一言は、幹夫の胸に深く落ちた。

「怖い?」

「ああ」

 父は短く答えた。

 幹夫は、父も同じ怖さを持っていたことを知った。母を忘れてしまう怖さ。忘れたくないものほど、思い出そうとすると薄れていく怖さ。手でつかめない露を、どうしても残したくなる怖さ。

「でもな」

 父は続けた。

「ふいに戻ることもある。茶の香りがした時とか、鍋の蓋の音を聞いた時とか、こういう露を見た時とか」

「戻る?」

「声そのものではないが、母さんがいたことが戻る」

 母さんがいたこと。

 その言葉を聞いたとき、幹夫は少し息が楽になった。

 いないことばかりが胸を締めつけていた。けれど、いたことも確かにある。母はいた。茶畑で笑い、露を見せ、幹夫の手を引き、夜の星を見上げた。

 いないことと、いたこと。

 そのあいだに露がある。

 幹夫はそう思った。

 父が若葉に手を伸ばした。

 触れるか触れないかのところで止める。大きな手だった。土の匂いがして、爪の間には茶畑の色が残っている。その手が露を落とさないように宙で止まっているのを見て、幹夫は胸が静かに震えた。

 父の手も、何かを守ろうとしている。

 母の記憶を。 茶の若葉を。 幹夫の薄い心を。 自分でもうまく言えない何かを。

「お父さんにも、露があるんだね」

 幹夫が言うと、父は眉を寄せた。

「何のことだ」

「心の中に」

 父は困った顔をした。

 けれど怒らなかった。

「あるかもしれんな」

 そう言って、父は少しだけ笑った。

 やがて祖母も茶畑へ来た。

 手には小さな急須と魔法瓶を持っていた。幹夫と父の姿を見ると、祖母は目を細めた。

「いい朝に、いい顔をしているね」

「泣いた顔だよ」

 幹夫が言うと、祖母は笑った。

「露の朝には、涙も似合う」

 祖母は畑の端の平たい石に布を敷き、小さな湯呑みを三つ並べた。それから、もう一つだけ小さな湯呑みを置いた。母の分だった。

 新茶の葉を急須に入れる。

 湯を少し冷まして注ぐ。

 湯気が白く立ちのぼった。

 その湯気は、露が空へ戻っていく姿のようだった。幹夫はそれを見て、胸の奥が静かに温まるのを感じた。

 祖母が湯呑みを渡してくれた。

 幹夫は両手で包んだ。朝の冷えで指先が冷たかったので、湯呑みの温度がじんわりしみた。

 一口飲むと、淡い苦みが舌に広がった。

 そのあと、ゆっくり甘みが戻ってきた。

 幹夫は目を閉じた。

 露の味がした。

 正確には、露に味があるわけではない。けれどその一杯の中には、朝の茶畑が入っていた。銀河の名残。若葉の冷たさ。母の言葉。父の「怖い」という一言。祖母の湯気。幹夫の涙。

 全部が、淡い緑の中に沈んでいた。

「おいしいかい」

 祖母が尋ねた。

「うん」

 幹夫は答えた。

「五月の露みたい」

 父は湯呑みを見つめたまま言った。

「分からんが、悪くないな」

 祖母は声を立てずに笑った。

 東の空が明るくなっていく。

 銀河はもうほとんど見えなくなった。さっきまで山の上に流れていた白い帯は、朝の光に溶けて消えていく。茶の若葉の露も少しずつ小さくなり、日が差す前から、すでに透明な輪郭を失いはじめていた。

 幹夫はその消えていく露を、今度は目をそらさずに見た。

 悲しくないわけではなかった。

 消えるものを見るのは、やはり胸が痛む。けれど、その痛みの中に、少しだけ明るさがあった。露はなくなるのではなく、土へ戻り、空へ戻り、茶の葉の中へ戻るのかもしれない。

 母の声も、そうなのかもしれない。

 幹夫の中に、父の中に、祖母の中に、茶の香りの中に、朝の露の中に、形を変えて戻ってくる。

 その日の学校で、幹夫は宿題の紙に露の絵を描いた。

 茶の若葉の先に一粒の露。

 その中に、小さな銀河を描いた。

 横に文章を書いた。

 ――五月の朝、茶畑で露を見ました。 ――露の中には銀河が映っていました。 ――銀河は遠いのに、露はとても近くにありました。 ――遠いものと近いものが、一粒の水の中で会っていました。

 幹夫は少し考えてから、続きを書いた。

 ――露はすぐ消えます。 ――でも、消えるから何も残らないのではないと思います。 ――見た人の心に残ります。 ――土へ戻り、空へ戻り、また別の朝に降りてくるのかもしれません。 ――ぼくの母の声も、露のように、時々戻ってきます。

 そこまで書いて、幹夫の手が止まった。

 母のことを学校の宿題に書くのは、少し怖かった。先生に読まれる。誰かに見られるかもしれない。胸の奥の柔らかいところを、紙の上へ出してしまうようだった。

 けれど幹夫は消さなかった。

 露は、映すために澄んでいる。

 自分の心も、少しだけそうでありたいと思った。

 最後に、こう書いた。

 ――五月の露と銀河のあいだには、消えたものをもう一度受け取る心があると思いました。

 先生はその宿題を読んで、赤い字で一言だけ書いてくれた。

 よく見ました。

 幹夫はその短い言葉を、何度も見た。

 よく書けました、ではなく、よく見ました。

 そのことが嬉しかった。

 幹夫は、自分の感じ方を少しだけ認めてもらえた気がした。うまく言えなくても、きれいにまとめられなくても、ちゃんと見たことは消えないのだと思えた。

 その夜、幹夫は窓辺に立った。

 空には雲が少しあったが、雲の切れ間に星が見えた。銀河ははっきりしなかった。けれど幹夫には、そこにあることが分かった。

 茶畑は闇に沈んでいる。

 露はまだ降りていない。

 けれど、夜が深まれば、また葉先に水の粒が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。どちらでも、幹夫はもう怖くなかった。

 母のハンカチを机の上に置いた。

 もう匂いはほとんど残っていない。けれど、幹夫はそれを失敗だとは思わなかった。匂いは布から消えても、五月の朝に戻ってくる。茶の香りに混じり、露の光に宿り、父の言葉の中でふいに揺れる。

 幹夫は窓を開けた。

 夜風が入ってきた。

 茶畑の匂いがした。

 青く、甘く、少し苦い匂い。

 幹夫は目を閉じた。

 胸の中に、朝の露が一粒浮かんだ。

 その小さな粒の中には、母の声も、父の横顔も、祖母の湯気も、銀河も、茶畑も、泣いた自分の顔も、みんな静かに映っていた。

 幹夫は思った。

 僕の心も、露でいい。

 すぐ震え、すぐこぼれ、朝日が強くなれば消えてしまいそうになる。けれど、短い時間でも空を映せるなら。誰かの言葉や、消えた人の温もりや、遠い星の光を受け止められるなら。

 弱さは、ただ壊れやすいということではない。

 澄んでいるということでもある。

 五月の露と銀河のあいだ。

 そこに幹夫はいた。

 地上の若葉に触れながら、遠い星を見上げながら、消えていくものを心に受け取り、また明日の朝へ歩いていく小さな少年として。

 夜の奥で、茶畑がさわさわと揺れた。

 それは、まだ降りていない露たちが、空のどこかで生まれる支度をしている音のようだった。


 
 
 

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