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五月新茶と銀河のしずく

 

五月の茶畑は、まだ朝になる前から、若い香りを放っていた。

 幹夫少年は、丘の農道に立ち、息を吸いこんだ。

 茶の畝は、夜明け前の薄青い空の下で、やわらかな緑を静かに重ねている。冬を越え、春を待ち、雨を受け、ようやく伸びた新芽たちは、まだ大人の葉のような強さを持っていなかった。

 指で触れれば傷つきそうなほど薄く、風が吹けばすぐに揺れる。

 けれど、その頼りなさの中に、まっすぐな光があった。

 五月新茶。

 その言葉を、幹夫は前の日に茶畑のおばあさんから聞いた。

 「新茶はね、今年はじめての言葉みたいなものだよ」

 おばあさんはそう言った。

 「まだ世の中のほこりをたくさん知らない。だから香りが若い。でも、若いからこそ、摘む手が乱暴だとすぐ傷む」

 その言葉が、幹夫の胸に残っていた。

 今年はじめての言葉。

 幹夫にも、言いはじめたばかりの言葉があった。

 新しい学年になって、もうひと月が過ぎていた。教室の席にも、友だちの声にも、少しずつ慣れてきたはずだった。けれど幹夫の心は、まだ新芽のように薄かった。

 誰かの声が少し強いだけで揺れる。 誰かの笑いが少し尖っているだけで、胸の先が傷つく。 自分では平気な顔をしているつもりでも、心の葉はすぐに折れ目をつけてしまう。

 前の日、同じ班の女の子が、ノートの端に小さな詩を書いていた。

 五月の緑は、雨のあとに目をひらく。

 幹夫はそれを見て、きれいだと思った。

 けれど別の子が「詩人みたい」と笑った。強いからかいではなかった。女の子も笑って、すぐにその言葉を消しゴムで消した。

 消えたあと、ノートには薄い跡だけが残った。

 幹夫は、何も言えなかった。

 「きれいだったよ」と言えばよかった。 「消さなくてもいいと思う」と言えばよかった。

 でも、言葉は喉の奥で固まり、幹夫はただノートの白い跡を見つめていた。

 その白い跡が、夜になっても胸に残った。

 だから幹夫は、まだ暗いうちに茶畑へ来たのだった。

 空は少しずつ明るくなっている。

 けれど、星はまだいくつか残っていた。

 その星たちが、ふいに揺れた。

 幹夫は顔を上げた。

 夜空の高いところに、淡い銀河の帯がかすかに見えた。すると、その銀河から、細かな光がほどけるように降りてきた。

 雨ではなかった。

 雪でもなかった。

 それは、しずくだった。

 銀河のしずく。

 小さな銀色の光が、音もなく茶畑へ降り、若い新芽の先にそっと宿っていく。ひと粒、またひと粒。茶葉は驚いたように震えながらも、その光をこぼさず受け止めていた。

 幹夫は息をのんだ。

 茶畑全体が、まだ夜空の一部であるかのように光りはじめた。

 「摘む前に、読まなければならないね」

 声がした。

 畝の向こうに、一人の少女が立っていた。

 白い手ぬぐいを頭に巻き、淡い緑の作業着を着ている。背中には小さな籠を負っていた。その籠の中には茶葉ではなく、銀河のしずくがいくつも入っていて、内側からやわらかく光っていた。

 「きみは……」

 幹夫が言いかけると、少女は静かに笑った。

 「新茶の読み手」

 「読み手?」

 「五月の新茶には、その年はじめて飲みこまれた言葉が降りるの。言えなかった『きれいだね』とか、消してしまった『ほんとうは』とか、まだ誰にも渡されていない小さな気持ちとか」

 幹夫の胸が震えた。

 少女は、茶葉の先に宿ったしずくを指さした。

 「銀河のしずくは、遠い星の水じゃない。人の胸から空へ上がった、言葉になる前の光なの」

 幹夫は、一枚の新芽に顔を近づけた。

 そのしずくの中に、昨日の教室が映っていた。

 ノートの端。 小さな文字。 五月の緑は、雨のあとに目をひらく。 笑い声。 消しゴム。 薄く残った跡。

 幹夫は、喉の奥が熱くなった。

 「これは、ぼくのしずく?」

 少女はうなずいた。

 「幹夫が言えなかった言葉のしずく」

 幹夫は、しずくを見つめた。

 昨日言えなかった言葉が、消えずにここへ来ていた。 茶葉の上で、朝を待っていた。

 「どうすればいいの」

 「読んであげるの」

 少女は言った。

 「読まれたしずくは、新茶の中へ入る。読まれないしずくは、朝日でただ消えてしまう」

 幹夫は怖くなった。

 自分の言えなかった言葉を読むことは、自分の弱さを見ることだった。なぜ黙っていたのか。なぜ笑われるのを怖がったのか。なぜ、きれいだと思ったものを守れなかったのか。

 けれど、新芽の上のしずくは、幹夫を責めていなかった。

 ただ、見てほしそうに光っていた。

 幹夫は小さく息を吸った。

 茶の若い香りが胸に入った。

 そして、しずくに向かって言った。

 「きれいだったよ」

 しずくが、少し明るくなった。

 幹夫は続けた。

 「雨のあとに目をひらくって、ほんとうにそう思った。茶の芽も、草も、人の心も、雨のあとに少しずつ開くことがあると思った」

 その言葉を言い終えると、しずくは丸い光のまま震え、ゆっくり茶葉の中へ沈んでいった。

 新芽の葉脈が、ほんの少し銀色に光った。

 少女は言った。

 「今のしずくは、五月新茶の香りになる」

 「どんな香り?」

 「消された言葉が、まだ消えていないと思える香り」

 幹夫の目に涙が浮かんだ。

 消された言葉も、まだ消えていない。

 それは、昨日の女の子の詩のことでもあり、幹夫自身の言えなかった言葉のことでもあった。

 少女は、畝の奥へ歩き出した。

 「今朝は、まだたくさんあるよ」

 幹夫もついていった。

 五月新茶の畑には、銀河のしずくがいくつも降りていた。

 あるしずくには、入学したばかりの一年生が、ランドセルの重さに泣きそうになっている姿が映っていた。

 ――重いって言えませんでした。

 幹夫は、そのしずくに言った。

 「重いよね。でも、重いって思っていいよ」

 しずくは茶葉へ入った。

 あるしずくには、給食を残してしまった子の茶碗が映っていた。

 ――食べられなかった。ごめんなさい。

 幹夫は静かに言った。

 「食べられない日もあるよ。次に食べられる時、ゆっくりありがとうって思えばいいよ」

 しずくは、少し濁ったまま茶葉へ沈んだ。

 少女は言った。

 「濁ったしずくも入れていいの。新茶は澄んだものだけでできているわけじゃないから」

 幹夫はうなずいた。

 それは、人の心も同じだと思った。

 澄んだ言葉だけではない。 濁った後悔や、言えなかった謝罪や、理由のわからない寂しさも、時間をかければ香りになることがある。

 畑の高いところまで来ると、ひときわ大きな新芽があった。

 その葉の先に、青白い銀河のしずくがひとつ宿っていた。

 少女は足を止めた。

 「これは、茶畑自身のしずく」

 幹夫は、しずくを見つめた。

 中には、五月の茶畑の一年が映っていた。

 冬の寒さ。 春の雨。 柔らかい新芽。 それを摘もうとする人の手。 手の中の緊張。 今年はじめてのお茶を待つ家々の湯呑み。

 そして、茶畑の声が聞こえた。

 ――若い葉だけを見て、古い根を忘れないでください。

 幹夫は息を止めた。

 茶畑の声は静かだった。

 ――新茶は、今年はじめての香り。でも、その下には去年の葉が落ちた土があり、何年も根を抱いた丘があり、昔から茶を摘んできた手があります。新しいものは、古いものに支えられて開くのです。

 幹夫は、足もとの土を見た。

 新芽ばかり見ていた。 けれど、その新芽は根につながり、根は土につながり、土は落ち葉や雨や人の手の記憶につながっている。

 新しい言葉も、同じなのかもしれない。

 幹夫が今日、勇気を出して何かを言えるとしたら、それは昨日までの沈黙や痛みや、言えなかった言葉に支えられている。

 幹夫は、茶畑のしずくに向かって言った。

 「覚えています。新しい香りの下に、古い根があることを」

 大きなしずくが深く光った。

 そして、新芽の中へゆっくり沈んだ。

 その瞬間、茶畑全体が、さわ、と鳴った。

 風ではなかった。

 葉と根と土が、一緒に息を吐いたような音だった。

 東の空が明るくなりはじめた。

 もうすぐ朝日が来る。

 少女は籠を胸に抱いた。

 「銀河のしずくは、もう茶葉へ入った。あとは人の手が摘むのを待つだけ」

 「摘まれるのは、怖くないのかな」

 幹夫が聞くと、少女は新芽を見た。

 「怖いよ。でも、新茶になることは、消えることだけじゃない。茶葉のままでは行けない場所へ、香りになって行くことでもある」

 幹夫は、その言葉を胸にしまった。

 言葉も、そうなのかもしれない。

 胸の中にあるままでは届かない。 でも、声にすれば形が変わる。 笑われるかもしれない。 うまく届かないかもしれない。 それでも、香りのように誰かの胸へ入ることがある。

 少女の姿が、朝の光の中で少しずつ薄れていった。

 「また会える?」

 幹夫が聞いた。

 少女は微笑んだ。

 「五月の新茶に、銀河のしずくが降る朝なら」

 「どうしたら、わかる?」

 「言えなかった言葉を消さずに、茶畑へ持って来られたら」

 そう言って、少女は新茶の香りに溶けるように消えた。

 朝が来た。

 茶畑は、いつもの茶畑に戻っていた。

 けれど新芽の色は、さっきより少し深く見えた。 銀河のしずくはもう見えない。 でも、葉の内側に入ったのだと幹夫にはわかった。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 「新茶をいただいたの」

 母はそう言って、湯呑みを幹夫の前に置いた。

 湯気が立った。

 いつものお茶より、香りが若かった。 青く、少し甘く、雨上がりの朝のような香り。

 幹夫は湯呑みを両手で包み、ゆっくり飲んだ。

 最初に、若い苦みがあった。

 そのあと、銀河のしずくのような澄んだ甘みが来た。

 胸の奥で、昨日言えなかった言葉が、少しだけほどけた。

 学校へ行くと、あの女の子はノートを開いていた。

 幹夫は少し緊張した。

 声が出るかどうかわからなかった。

 でも、五月新茶の香りを思い出した。

 新しい言葉は、古い沈黙に支えられて開く。

 幹夫は、その子のそばで小さく言った。

 「昨日の詩、きれいだったよ」

 女の子は顔を上げた。

 「え?」

 「五月の緑は、雨のあとに目をひらくっていうの」

 その子は、少し驚いた顔をした。

 そして、ほんの少しだけ笑った。

 「見てたんだ」

 「うん」

 幹夫はうなずいた。

 「消えちゃったけど、まだ残ってると思った」

 女の子は、ノートの端を見た。

 消しゴムの跡が、まだ薄く残っていた。

 「もう一回、書こうかな」

 その声は、とても小さかった。

 けれど幹夫には、茶葉の中へ入った銀河のしずくが、湯気になって戻ってきたように感じられた。

 昼の教室に、五月の新茶の香りが一瞬だけ広がった気がした。

 幹夫少年は、自分の胸の奥で、小さな新芽が目をひらくのを感じた。

 
 
 

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