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傾いた家並みの前で「グラハト」を練習する――アムステルダム運河日記

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月15日
  • 読了時間: 5分
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アムステルダム中央駅を背に、ダムラクの水面へ出ると、黒や焦げ茶の細長い家がずらりと並んでいた。どれも少しずつ傾いて、鏡のような水に自分の姿をのぞき込んでいる。船着き場では、ガラス屋根の白いクルーズ船がエンジンを低く鳴らし、乗客を待っていた。切符売りの兄さんに「**gracht(運河)の発音を教えて」と言うと、彼は喉の奥で猫を優しく唸らせるみたいに“グフラハト”**とやってみせる。私は何度やっても“グラクト”。兄さんは笑って親指を立てた。「十分アムステルダムだよ」

最初の失敗は、乗船直前に起きた。指先の手袋がデッキの隙間に落ち、するすると水面へ。甲板員のブラムが素早くボートフックを伸ばし、手袋を引っかけて救い上げた。「水は返してほしいものまで運ぶからね」と彼。お礼を言うと、彼は私の手袋をラジエーターの上にふわりと置き、出航までの数分で乾かしてくれた。水の街の“応急処置”は早い。

船が出ると、家々の窓がこちらを見返す。ベル型、階段型、馬蹄型の切妻。屋根の先には荷揚げ用のフックが突き出ていて、ブラムは「昔は家具を窓から入れたんだ」と教えてくれた。私は胸の前で「へえ」と手を合わせ、喉の奥で**“グラハト”**をもう一度。今度は少しだけ空気が震え、運河の水が笑った気がした。

橋の下をくぐると、ガラス屋根がしゅっと曇った。前の席の幼児がポケットからミニタオルを取り出し、窓を拭いてくれる。母親が「gezellig(居心地がいいね)」と囁く。船内のスピーカーからは「右手がアンネ・フランクの家、左手は西教会」と落ち着いた説明。私は窓ガラスに額を寄せ、傾いた家の縁取りを数えた。どれも完璧じゃないのに、水の上ではそれがちょうどいい

運河を抜けて街路に戻ると、屋台の前で足が止まった。ハーリング(にしん)の旗がはためき、店主のハンスが「初めてかな?」と笑う。彼はにしんを尾で持ち上げ、「こうやって空を見上げて食べるんだ」と見本を見せる。真似して口を開けた瞬間、カモメがすっと横切り、風だけを残していった。私の手が一瞬ひるむと、ハンスは玉ねぎを多めにのせた**ブローチェ(パン)を差し出した。「初心者はこれ。パンが勇気をくれるよ」。頬張ると、脂と酸味が舌で小さくぶつかり、ほどける。通りすがりのおばあさんが親指を立て、紙袋から黒いドロップ(甘草の飴)**を一つくれた。噂の“好みが分かれる味”。私は顔をしかめて笑い、おばあさんも笑った。

午後は自転車を借りて、ヨルダーンの細い路地へ。ベルをちりんと鳴らしながら石畳を進むが、角であっさり迷う。地図をくるくる回していると、前を走っていた高校生くらいの女の子がブレーキを鳴らし、「どこ行くの?」と声をかけてくれた。彼女は私のチェーンが外れかけているのを見つけ、サドルの下から小さなマルチツールを取り出して調整してくれる。「急がないで、まず手をきれいに」と言って、オレンジ色の自転車用手拭きまで渡された。私は「Dank je wel」と頭を下げ、彼女は「Geen probleem」とウィンクする。ベルを鳴らすと音がさっきより澄んだ。

夕方、運河沿いのベンチでストロープワッフルをコーヒーにのせ、ふやけるのを待つ。向かいの窓辺では、おじいさんが滑車つきのロープで籠を下ろし、下の孫が入れたパンを引き上げる。私は思わずカメラを構え、でも何かが足りない気がして手を下ろす。そこへ、近くの女性が紙コップのココアを差し出し、「半分こ、どう?」と言った。ストロープワッフルを半分渡すと、彼女は「half voor geluk(幸運の半分)」と笑い、ココアの湯気をこちらへ送ってくれた。アムステルダムでは、半分が挨拶になる。

夜、小雨。身を寄せたブラウンカフェは木のテーブルが艶やかで、壁に古い写真が並ぶ。隣の席の二人連れが小声で言い合っている。注文したビールが**“小”か“中”かで迷っているらしい。私は思わず「中を二つ、最初はそれが正解」と英語で口を挟む。バーテンが「その通り」と肩をすくめ、泡の丸いグラスを二つ置いた。テーブルの上にはビターバレン**、熱い中身で舌をやけどしそうになると、隣の客がマスタード多めを勧める。ほんのりツンとして、痛みが笑いに変わる。

ホテルへ戻る途中、また運河を見たくなってダムラクへ寄り道した。昼間見た細長い家々は水面に揺れ、黒い縁取りが少し太くなっている。昼のクルーズで助けてくれたブラムが、桟橋でロープを巻いていた。「今日どうだった?」と訊かれ、私は喉の奥で全力の**“グラハト”**を試みる。彼は笑い、「完璧に“ここ”だ」と胸を軽く叩いた。発音の合格より、その仕草が嬉しい。

アムステルダムで覚えたのは、まっすぐじゃなくていいということだ。家は少し傾き、窓は少し歪み、言葉は喉の奥で引っかかる。だからこそ、ボートフックやマルチツールやハーフサイズや半分こが効く。落ちた手袋は乾かされ、外れそうなチェーンは締め直され、見知らぬココアは湯気ごと分けられる。

旅の終わりに、私はストロープワッフルを一枚だけ買った。袋を開け、半分は明日の朝の自分へ、半分は誰かへの“居心地”の予備に。運河の水は黒く、家々は相変わらず傾いている。私は深呼吸して、もう一度だけ喉を鳴らした。グラハト。水面がほんの少し波立ち、家が小さくうなずいたように見えた。

 
 
 

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